飛鳥白鳳彫刻の問題点 朝田 純一
序
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
我国に初めて仏像が渡来してきたのは、ほぼ欽明朝後期から敏達朝にかけてのことと考えられるが、この時我国人はどのような態度で仏像を受入れたのであろうか。
この受容態度については、ほぼ二つの考え方に分けられるであろう。その一つは我国の文化は低いものであり、とりわけ彫刻においては仏像彫刻が渡来するまでは、はなはだしく、大陸から渡来してきた仏像をただそのまま雑然と無差別に受入れたのであり、我国でつくられた仏像もそれらをただ模倣したに過ぎないのだという論である。
もう一方は我国の文化は仏像が渡来する以前からある程度の文化的な高さを保持していたのであり、大陸から種々の仏像が渡来してきたとしても、我国にはそれらを選択するだけの感覚、好みがそなわっていたのである、とする論である。
さてこのような問題が、飛鳥彫刻の考察に置いて、いろいろと論議されているのは何故であろうか。それはもし大陸から我国へ流入してきた仏像様式が多元的なものだとした場合に大きくクローズアップされる問題なのである。つまり我国への様式の流入が多元的なものであれば、それをどのように受入れたか、多様式並存なのか、選択がはたらいたのか、という点が論議の的となる訳である。それ故この問題について詳細に論じている人には、多様式並存論者が多い。特にそれを強く主張する小林剛が詳しく論じているのも当然のことといえよう。我国への仏像様式の流入は、あくまで一元的なもので、逐次順を追ったものだったとする論者にとっては、この問題は特に詳しく論究する必要がないので、あまり論ぜられてはいない。
我国の仏教美術の受容態度を論ずるのが必要なもう一つの点は、我国でつくられた仏像が、どの程度日本化された表現をしているかであって、大陸から入ってきた様式を我国はどの程度消化し、我がものとできたか、である。これは前にあげた事と相当関連が有るのだが、これによって我国の飛鳥彫刻をどのように評価するのかが変ってくるし、後の時代の彫刻の考え方をも大きく左右する問題だとおもうのである。しかしこれは抽象的で、微妙な問題であるので、あまり詳しく論ぜられてはいない。以上がこれから論ずる問題の概略である。
我国に仏像が渡来する以前の彫刻遺品としては、土偶、土面、埴輪があげられる。このうち埴輪は古墳時代さかんにつくられたものであり、これが仏像渡来までにつくられていた彫刻作品となるわけである。周知のとおり埴輪の表現は独特のものであり、表面的にはこの感覚と仏像彫刻の感覚を結びつけようとするのは無理かも知れない。この埴輪のほかに古墳から出土するものに、数々の工芸品が有る。その中には応神陵出土の鞍金具や、安閑陵出土のカットグラスの鉢など、技術的に秀れたものがある。また仏像を線彫りにした仏像鏡も二、三発見されている。
さてこのような埴輪を軸とする古墳文化であるが、それと飛鳥の仏像の感覚につながるものはあるのか、また仏像を制作したときの我国の造型意識は、どのようなものてあったかを考察した論旨をここにまとめてみよう。
まず我国の仏教美術の受容は、大陸のものをそのまま受入れたにすぎぬのであって、そこには我国の感覚による選択などはないのだとする論を紹介しよう。
金森遵(飛鳥彫刻の構成)埴輪の簡素な造型基準から、その後の仏像彫刻への発展の間には有機的な関係は考え難く、これは当然別個の造型意識に立つものとみなけれぱならない。故に造像の際も、大陸のものをただ模しただけであり、仏工の企図には勿論「日本化する」というようなことは意識されるはずもなかった。尤も仏工自らの感覚がおのずからその上に現れることも考えられぬでもないが、埴輪時代から一躍仏像の制作に関係するに至った際に、そこにいかほどの造型理念が介入し得たかは疑問である。
埴輪時代後期には、既に鋳金のかなり工芸的な作品の有ったことが知られているが、それらの鋳造技術、造型技術では、仏像彫刻との間隙をみたすとは考えられないであろう。
つまり飛鳥彫刻は、それ自体は造型的に優れた成果をあげているが、埴輪との一貫した民族精神を見出し難いものであり、その制作者が大陸彫刻を間接的に模倣したに過ぎないのである。この事は飛鳥彫刻の造像が、その様式、並びに形式において殆んど帰一するところがなく、様式的に混沌ともいうべきものが著しく見出せるのによっても充分省察できる。この飛鳥彫刻の理念がどのように消化されでゆくかが重要なことである。
望月信成(日本上代の彫刻)
氏の意見も、この点においては金森論とほぼ同じようである。
仏教渡来当初の造仏は、大部分来朝工人の手によるものであり、そうでないとしても、大陸から請来された仏像を忠実に模倣したにすぎない。埴輪以上の彫塑を持合せなかった我国では、大陸の様式を消化する程の余裕もなく、又技巧もなかったものと想像して差支えあるまい。
小林剛(日本彫刻史)
埴輪の表現は、見るからに簡単な線で造られているが、その表現には無造作に見えつつも優れた感覚と熟練した手腕をみることができる。これは由来、優れた感覚と洗練された手腕を単純に見える外皮をもって包もうとするのが、能を生み俳句を生んだ日本芸術のもつ特色ではないだろうか。
飛鳥時代以前においでは、我国の彫刻技術は萌芽的なものが有ったとはいえ、純粋な彫刻としてはなお幼稚の域に有ったのである。
この後発表された論文「飛鳥彫刻の二流派について」では小林剛は、仏教美術伝来以前の文化的位置を、もう少し認めるように変ってきているのは注目される。
我上代文化に於いては、既に飛鳥時代以前から可成り進歩した造型美術が認められ、古墳出土品などからそれを知る事ができる。欽明天皇十三年(五五二)に初めて我国に仏像彫刻がもたらされた直後においても、これを制作する技術方面は十分に発達していたのを認めることができる。同様の意見をのべている人に、源豊宗、松原三郎などがある。以上で大体の論旨はつかめるとおもう。
次に、仏教美術伝来以前の我国文化の位置をある程度評価し、飛鳥彫刻といえども我国の感覚をもってして造られたものであり、何らかの日本化も行われている、とする論をあげよう。
野間清六(飛鳥白鳳天平の美術)
従来美術史家は、考古学的遺物を余りにも軽視し勝ちであった。これば我国の文化を理解する上に大きな誤解を生じせしめるものである。事実、仏教美術渡来以前においても我国の文化は、相当高度なものが有ったのであり、それは巨大な古墳や、壮大であったろう宮跡などから想像がつく。また大陸との交流も、仏教伝来以前から朝鮮の工人をつれてくるなど、かなりの交流が有ったのであり、古墳出土の数々の工芸品は、大陸から受入れていた文化の高さを示すものである。
このような状態において仏教が伝来し、我国人は宗教美術というものを知り、従来の鬱積していた美術活動を発揮するチャンスを得たのである。つまり仏教こそ、新しくこの飛鳥時代に受入れたのであるが、大陸文化そのものは既に数世紀前から受入れていたのであ一って、造型感覚そのものの発展には既に秩序的なものが出来上っており、時代感覚の異ったものが同時につくられることは絶無とはいえないが、不自然といわなければならないものである。
久野健(法隆寺の彫刻)
飛鳥時代の彫刻がいくら大陸の模倣であるといっても、我国でつくられたものには我国の造型感情が、自らしみこんでいるものである。飛鳥彫刻の制作者の多くが帰化人出身の為に、飛鳥文化は日本のものではない、というような説をなす人も有るけれども、これも間違いである。少くとも今日、遺品文献から知られている飛鳥彫刻の制作者達は、日本に帰化してから、二代目、三代目といった時間を経た後の子孫が多い。このことは、たとえ技術をもって帰化したとしても、朝廷や大豪族の仏像を制作するまでには、それだけ時間をかけ、社会的地盤をつくる必要が有ったことを示していよう。当代の皇室や豪族とても、唯仏像であればよいというのではなかった。そこには自ら厳密な選択が行われたのである。帰化人も二代目、三代目と代を重ねるうちに、豪族の好みや感情を習得したのかも知れない。また我国の風土にもなじんで、日本人の生活感情になりきっていたと考えてよいだろう。それだからこそ、大陸の彫刻を手本にしても別趣のものが生まれたのである。
水野清一(飛鳥白鳳仏の系譜)
仏教受容の根本態度についてみてみると、推古期は隋代であり、相互の交流が有ったのだから、隋の仏像が将来されたことは否定できまい(1)。けれども、もちかえられたからといって、それが直ちに一世を風靡し、その様式が一般的に行われるとはいえない。飛鳥大仏、法隆寺釈迦三尊像などが龍門様の仏像である様に、これが当時における彫刻の主流であった様である。これでは、我国において新しい様式に抵抗する古い伝統が有った、としなければならぬ。そうすれば我国人が大陸、半島から仏像をうけ入れて、これをつくる場合、単に受動的とばかりいえないものが有るとおもう。やはり仏像を制作するかぎり、日本人は日本流に理解もし、体験もし、主体性をもっていたものであろう。そう解すれば、幾多の様式が無秩序に混在する時代というものは想像できない。
(1) 水野の仏教受容の頃、隋様式が我国に流入していたとする論に対して、石田茂作の、当時大陸の文化は、ほとんど半島を通じてのもので有り、遣随使などが有ったといえども、儀礼的なものにすぎなかった。それ故、当時隋様式が我国に流入していたとは考えられぬ、とする論もある。
以上が、我国の仏教美術の受容態度についての種々の論の概容である。
ここでの一番の焦点は、仏教文化渡来以前の我国の文化の高さをどの程度にみるかの問題であろう。金森、望月などは、これを非常に低く見積っているようだが、どうだろうか。事実、古墳出土の工芸品の技術は、飛鳥美術の中にもってきても超一流のものなのである。当然これらの工芸品が、我国人の手になったものでないことは確かであろうが、最も重要な点ば、野間も指摘するように、仏教文化伝来以前から、そのようなものに我国人は接していたのだ、という事である。即ちこのような大陸の一流の技術による工芸品に接していたのであるし、そのようなものを我国で造ろうと試みていることも、古墳から大陸渡来の舶載鏡をまねたぼう製鏡が出土することから察知できるとおもう。私としては、仏像が渡来する以前にはもう我国にはある程度の鋳金、造型技術が有ったことは認めてもよいと思うのである。
そのような状態の中で仏像が渡来してくる訳であるが、この仏像にしても単に表現上の技術的問題だけをとってみれば、今まで大陸から渡来してきていた数々の工芸品と比べて、それほど驚愕に値する程の差はなかった、と考えられよう。そうすれば金森、望月のいうところは、若干的をはずれているとは見られないであろうか。また我国の仏教文化の受入れが受動的なものであるとする小林剛にしても、仏像彫刻がもたらされた直後に、もうそれをつくる技術が有ったことをみとめている。そうすれば、なおさら造型感覚が全く違っているとか、以前は全く幼稚な段階であったとはいえまい、とおもう。以前私も、古墳時代の文化から、急に丈六にも達する程の仏像をつくるようになったのだから、そこには相当の感覚の差が有るのではないか、と思ったことも有ったが、良く考えてみると、我国にもたらされた仏本は、そんなに大きなものであろうはずがなく、法隆寺釈迦三尊像の仏本にしても、町田甲一が指摘するように、甲寅銘光背のごとき大きさの、一光三尊仏であったろうとおもわれる(2)。多分、舶載されてきた仏像は、あの大きさの域を出なかったであろう。そこで仏像のもつ宗教的、思想的意義を全て除いて、純技術的、工芸的なものとしてみた場合、古墳から出土する工芸品と比べて、大きさ、外観など、びっくりするほど変ったものとは受取られなかったであろうし、技術的にも、そんなに大きな差はなかったろう。そうすれば、当時の宮廷人、豪族達がはじめて仏像をみたときには、それほど驚愕に値するほどのものではなく、少々変ったものとみたにすぎないのではないだろうか。このように考えれば、久野健がいうように、仏像を受入れる際に我国人の選択、好みがあり、ある程度は日本化されてつくられているのだ、ということが充分いえるとおもう。
次に来朝工人の造型感覚の問題であるが、各論紹介のところでよくわかるように、久野健の、帰化工人といえども日本的感覚をもっていた、という論と、帰化工人は全く大陸の感覚の造型意識をもつにすぎなかった。という望月、金森等の論とが、真向から対立している、この点については大陸の様式と、日本の類似するそれとの比較検討によるしかないのであるが、私自身大陸の様式など余り、はっきりと知らぬのでよくわからない。唯法隆寺釈迦三尊像中尊と龍門賓陽洞本尊との聞には、表現手法上共通する様式は、厳密には二、三点しかないことが、よく指摘されているが、これから見ると、久野のいう処のほうが的を射ているのではないか、とおもわれる。何も敏達六年(五七七)に(3)、はじめて帰化工人が来朝したのはなく、その一、二世紀前から帰化工人を招いていることから考えても至当ではないだろうか。
(2) 「上代彫刻史上に拾ける様式区分の問題」(3) 敏達六年に百済から、経論、律師、禅師造仏工、造寺工などが献ぜられたことが、書紀にみえ、これが仏師、仏工などの公伝のはじめとされている。
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