三 月 堂 (2/2)高見 徹
塑像については、その関係文献のあるものが少なく、その位置づけも主観によらざる を得ず、美術史家によってその位置づけは随分違っている。
今、これらの推移を四天王像の作風上の展開を中心に考えていきたいと思う。四天王 像は第一段階として、法隆寺金堂像や、当麻寺金堂像にみられるように、正面をむいて直立した、動きのほとんどないものから、第二段階には、法隆寺食堂像に はじまり、東大寺戒壇院像にいたる一連の作のように、動態を写実的に表わそうとすると同時に、戒壇院像に至っては、それを理想化して表現しようとする傾向 が認められる。
この中の法隆寺食堂の四天王像について、金森は次のように説明する。これらの像 は、同じ食堂にある梵天・帝釈天像と一具をなすものであり、像形はほとんど動勢を示さないが、上肢に若干動きがあるという点で、法隆寺金堂四天王像よりや や発展した形式にあることが分るが、和銅四年(712)の造立であると思われる法隆寺五重塔の塑像群と較ぺると、写実性に劣り、これ以前の造立ではないか と考えられる。又彩色は簡素であって、切金文様はなく、濁色系を主とする古風なものである。
この切金文様については、天平彫刻の中にそれを見ることは少ないが、わずかに三月 堂の日光、月光像と戒壇院の四天王像にみられる。日光、月光像には、その裾におおまかなものが、戒壇院四天王像には、衣の部分にかなり繊細なものが、地文 として多く用いられており、本像の彩色上の特色となっている。色彩の面からみると、日光・月光像は法隆寺食堂の諸像のそれに近似して、しかもほとんど無文 であるのに対し、執金剛神像は彩色文様も自由、色調は鮮明で、戒壇院四天王像にもまして派手である戒壇院像は色調は執金剛神像ほど派手でないにしても、文 様は華やかで、形も複雑で変化をもたせ、奈良盛期の特色を出している、といえそうである。
日光・月光像については、その写実性が法隆寺五重塔塑像群に近いことや、色彩が食 堂諸像に近似していることなどから、その造立を和銅年間までさかのぼらせたり、また作風に戒壇院像と通ずるところがあることから、天平後期まで下らせたり 考えられている。しかし、よく見てみると、その表現は唐代直模の様式を示す五重塔塑像群に比べると異風であり、戒壇院四天王像よりはおおまかであるとはい え、執金剛神像にもみられない切金文様があることなどから、和鋼年間までその造立をさかのぼらせるのには無理があるように思われる。
なお、日光・月光菩薩と呼ぱれているこの二体は、一般に、その像容、衣服の形式が 菩薩のものでないところから、梵天・帝釈天像とされている。ただ、梵天・帝釈天像で合掌しているものはほとんどないため、毛利久は、中国の作ながら高野山 金剛峰寺にある合掌する異形の像を縁覚(菩薩と同様一種の聖者)とし、日光・月光像もこれと同種の像としている。
執金剛神像については、東大寺関係の諸書がその来歴について述べているが、それら の多くは文献上の背景を欠き、単に寺伝に留まっている。本像を天平初年の造立とする理由としては、「日本霊異記」、「桜会縁起」によるものがほとんどであ るが、久野健が「霊異記」を取るものの、「桜会縁起」については、古記録によったものではなく、一部、著者の机上の構作であるとされる。ただ、毛利久は、 本像は盛唐美術色が強いとして、天平初年前後の作とする。
この仏像に対しては、戒壇院像との比較において、しばしば、次のように形状の破綻 を指摘される。表現があまりに説明的で、個々の部分の形に忠実すぎ、両肩の付き工合、腰のひき方などにややぎこちなさをのこす。これに対し、戒壇院像で は、像全体の均衡・調和を第一に留意し、細部の表現はむしろ簡潔である。金森遵は、両像を比較し、戒壇院像は姿勢の点で保守的で静止に近く、反対に、執金 剛神像は動的だとして、執金剛神像を下らせて考えたが、この差は単なる怒勢の強弱だけでは解釈しつくせないものではないだろうか。
また、塑像の弁才天像、および吉祥天像については、堂内の他の像と系統を異にして おり、またその位置から客仏とされ、二体とも同じように破損していることや様式から一具とされる。その本来の安置場所として、同じ金鐘寺の吉祥院、あるい は天地院が考えられているが、造立年次については定説をみない。破損がひどいため、その造仏法や紬部の構造などよくわかり、注目されるのは、表面の下に更 に下着を完成したあとがあることで、塑像は、心木の上に塑土で一応形を作ったあと、細かい塑土で完成するのであるが、その細土を何度も何度も、人に服を着 せるように仕上げていったことがわかる。また、両天部像が、金光明最勝王経においては、共に最も重要な意義のある像であるので、両像が金光明寺において、 かなり重要な地位をしめていたことが想像できる。
以上のように、三月堂の諸像は、同じく天平時代の造顕ながら、様式的にはやや長期 で、種々の様式的特色を示すので、天平時代の仏像彫刻の発展を知る上で重要な一群と言えよう。塑像五体は、様式あるいは彩色的にも多彩な変化に富み、また 乾漆像九体は、これらが一具としても、すべてが同時に作られたというわけではなく、それらの間には若干の年代差があり、天平中期の様式的な推移を知るのに 好都合なのである。
三月堂諸像は、天平彫刻を述べる上においても欠かすことのできないものとなってい るが、今、天平時代をその様式上から前後二時期に分けるという考え方に立つと、本尊不空羂索観音像は、二時期の過渡期、あるいは後期の芽ばえと考えられ る。その前後二時期とは、飛鳥彫刻の消化の上に一種の完成した作風を示す前期と、前にも書いたように、不空羂索観音像をはじめとして密教の影響を強く受け た後期である。
密教文化、密教彫刻がその極に達するのは、平安時代初期、伝教大師最澄(767〜 822)と弘法大師空海(774〜835)が入唐求法し、中国密教を我が国にもたらした以後のことである。しかし、広義での密教はそれより早く、飛鳥・奈 良時代にはすでに日本に伝えられていた。密教は、インドに於いて最初断片的な諸神の経典のみで個々の信仰が行なわれていたもので、七世紀半ばに成立した粗 織的な密教経典たる「大日経」、「金剛頂経」によって初めて整理統合され、それによって体系的理論的に成立したといえる。そこで、「大日経」成立までの密 教を雑部密教、「大日経」以後の、この両経典に基づく密教を純粋密教と呼ぷが、最澄・空海のもたらした密教が純粋密教であったのに対して、奈良時代の密教 は雑部密教であった。
奈良末期頃までには、かなり多くの密教経典が中国から伝来したが、その中でも、天 平五年(735)に帰国した玄
は、経論五千余巻を請来したといわれ、その巻数からも、それらは開元緑所蔵のものと思われる。 したがって、この時代までに伝訳された密教経典のほとんどが伝えられ、これらが当時の仏教界に、また造像などに大きな影響を与えたと考えられる。
天平時代の密教系の仏像としては、「正倉院文書」、「西大寺資財帳」に、千手観音 像、不空羂索観音像、如意輪観音像、十一面観音像、馬頭観音像、七仏薬師像、妙見菩薩像、五大力菩薩像、孔雀明王像、金剛菩薩像などが見られ、また現存す るものにも、虚空蔵菩薩像、吉祥天像、弁財天像、伎芸天像などがある。もちろん、純粋密教の仏像である大日如来像や不動明王像は見当らず両界曼荼羅図もな いことから、造像においても雑部密教の信仰が中心であったことがわかるが、天平時代の仏像のうち密教系の仏像が約四分の一を占めていることは注目に値す る。
天平期において、仏教彫刻は三月堂諸仏をもって頂点とし、それ以後は一般に衰退期 とされているが、本尊不空羂索観音像などは、一面からみれぱ、唐招提寺金堂慮舎那仏像、ひいては奈良仏教を粛正しようとする改革と雑部密教が結びついた唐 招提寺講堂の薬師如来像をはじめとする木彫群や、神護寺の薬師如来像その他の重厚で森厳な一連の作、その上に立つ、最澄・空海がもたらした純粋密教に基づ く平安初期密教彫刻への胎動と考えられ、平安初期の密教彫刻を一つの様式の完成とみるならば、天平後期は、それ自体では一つの完結した様式と見られないま でも、なくてはならない重要な準備期間として密教文化の一翼をになうはずである。