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司馬鞍首止利(2/2)
平田 まり
今度は、司馬鞍首止利自身についてみてみよう。止利について知るには、当時の文献の中を探してみるより外に途はない。止利の名が見出されるのは、日本書紀では、巻第廿二推古天皇十三年(605)四月一日の条(注8)と同じ巻廿二の推古天皇十四年(606)四月八日と五月五日の条(注9)である。日本書紀以外では、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘文中に見られる。日本書紀の記載はいずれも、元興寺の釈迦如来像に関係するものである。推古天皇十三年四月一目の条には、鞍作鳥に銅と 荊 との二つの丈六仏の制作を命じたと記されている。推古天皇十四年四月八日には、前記の金銅の丈六仏が完成したが、仏像が大きすぎて、戸をこわさないと堂に安置できそうもなかった時、止利が戸を破壊することなく上手に堂に入れて納めた旨が記されている。そして、五月五目の条には、最初少し触れた推古天皇が止利に賜った詔が記載されている。その詔の中では、祖父達等や父の多須奈や叔母の嶋女が仏教に深く帰依していて、又仏教興隆に貢献したことが述べられ、続いて止利自身も、丈六仏をつくる上に多大な功績があったとして、功田を賜ったことが記されている。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背・銘文には、この釈迦三尊像が、聖徳太子と太子の母后、太子妃の冥福を祈って、妃や王子や臣下達によって発願されたもので、司馬鞍首止利仏師につくらせたと書かれている。これらによって、止利が元興寺の釈迦如来像と法隆寺金堂の釈迦三尊像の造立に関係したことが知れる。しかし、これより他の事績については全く知られていず、その生涯がどのようなものであったのかも判らない。
ここでは、記録にある元興寺と法隆寺での造仏活動を軸とし、そして、これまで述べてきた彼の家系もあわせて考えて、司馬鞍首止利というものを探ってみたい。
元興寺の釈迦如来像は俗に「飛鳥大仏」とも呼ばれている丈六の金銅仏である。現存する最古の仏像であるといわれている。造立後幾度か火災にあったため破損し補修もかなりなされているため、現在は顔など極く一部に当初の面影をしのぷことができるにすぎない。法隆寺金堂の釈迦三尊像は推古天皇三十一年(623)に造立された。飛鳥時代につくられた止利の仏像を代表するもので、美術史上非常に重要な位置を占めている。
一般には、止利はこれらの仏像をつくった作者(注10)で、仏教彫刻技術者であったとされている。なぜ、そのように考えられているのかというと、その根拠としては、前記した日本書紀と法隆寺の釈迦三尊像の光背銘が挙げられる。しかし、これらの記事から止利=仏教彫刻技術者と速断するのは危険ではなかろうか。たしかに、日本書紀の「乃命転作為、為造仏之工」や光背銘の「使司馬鞍首止利仏師造」の箇所を読むと止利がこれらの仏像の作者であることは明らかのように思える。特に光背銘文には「司馬鞍首止利仏師」と「仏師」という語まではっきりと用いられているので、止利が仏教彫刻技術者であったのは、疑問のないように見える。しかし、「仏師」という語については、小林剛は奈良時代頃になれば、仏師すなわち彫刻技術者として、一向に差支えないが、飛鳥時代には法隆寺の釈迦三尊像の光背銘にしか使用された例がなく、この唯一の用例からは、「仏師」が彫刻技術者であったかどうかは言うことができないと言っている。そして「師」という字の本来の意味からすれば「仏師」は、仏像彫刻の技術者よりもむしろ、仏像制作の監督者的な意味が強いのではないかと言っている。小林剛はこの他にも、彫刻技術の修得の困難さを挙げ、又推古天皇が止利に賜った語で止利が秀工であると称えた理由が、彼の呈示した仏本が非常によかったことと仏像の安置方法が極めて巧みであったということであったということから工事監督者的な匂が強いと言い、止利を純粋な彫刻作家とすることは、いささか躊踏しなければならないとしている。
私は前に飛鳥時代の仏師としては、司馬鞍首止利一人の名前しか残っていないと書いたが、今度は逆に、何故止利一人だけ名前が残りえたのかということを考えてみたい。そして、そこから止利が仏像制作の上でどのような位置にいたのか、すなわち、仏教彫刻技術者であったのか、叉小林剛の言うような工事監督者であったのか、あるいはそのどちらでもない別の立場で造仏に関係していたのではないかということを考えてみたい。
上代に於ては、仏像制作は共同作業であって、一人でなされた仕事ではない。元興寺の釈迦如来像や法隆寺の釈迦三尊像の制作にも、当然多数の人が参加していたはずである。それなのに・日本書紀や光背銘文には、あたかも止利一人につくらせたかのように記されている。なぜであろうか。一番素直なのは、造仏に従った彫刻技術者は止利の外にもいたであろうが、その中でも止利は首領格であった。だから彫刻技術者を代表して止利の名前が記されたと考えることであろう。しかし、たとえ首領であろうとも止利を彫刻技術者とするのは、小林剛の言うように問題があろう。
小林剛が挙げた以外に私は次のような点から止利が彫刻技術者であるという考えには、賛同しがたい。一つには日本書紀の推古天皇十三年四月一日の記事を見ると、鞍作鳥に鋼と繍の丈六仏像各一躯を造らせたことが記されている。もし止利を金銅仏の制作に実際に従事した彫刻作家であると考えると、当然、繍の丈六仏像の制作にも止利自身が従事したことになる。しかし、金銅仏と繍仏の制作は同じ美術工芸とはいえ、全く別の技術である。いくら上代では制作活動に於て未分化の状態にあったとはいえ、一人でこの二つの分野の技術者を兼ていたとは考えにくい。
二つ目には、止利の家系を眺めた場合、単なる仏教彫刻技術者として考えるのは不適当ではないのではなかろうかということである。祖父達等や父多須奈に関する日本書紀の記事を読むと、皇族や当時の権力者である蘇我氏との結びつきがうかがえる。又鞍部の一族からは、日本書紀をみてみると、通訳で隋へ渡航した鞍作福利や僧都となった鞍部徳積そして学問僧の鞍作得士などがでていて、鞍部一族は文化的にもかなり活発に活動していたと思える。そして、止利は、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利仏師」と記されているように「首」の姓を持っている。私は「首」がどのような地位を表わすのか、不勉強のためはっきり知らないが、止利は鞍部一族の指導者的な立場にいたのではないかと思う。これからみて止利を仏教彫刻技術者のような単なる工匠の一人とするのは不自然ではないかと思う。以上二つの理由から、私は止利は仏教彫刻技術者ではなかったと考えるのである。
では、止利は一体何であったのであろうか。日本書紀や釈迦三尊像の光背銘から、止利が造仏活動に強く関係していたことは確である。小林剛は前記したように、止利は仏像制作の工事監督者のようなものであったとしている。私は、彼の社会的位置を考えると工事監督者よりもまた上の地位にいたのではないかと思う。祖父の達等と蘇我馬子の関係や、大化の改新で蘇我氏が滅亡する註十一と止利派の仏像も衰えていったこと(注11)から推測すると、蘇我氏と止利一族の関係はかなり強いものであったと思われる。そして、その関係から止利などもある程度の政治的な力も持っていたのではないかと思う。私は止利が当時の造仏関係における最も次元の高い統率者、たとえば、奈良時代の造寺司の長官のような立場にいたのではなかったかと思う。彫刻技術者でなかったことは、むろんであるが、実際の制作には関係はせず、政治的な意味での造仏関係の代表者であったと思う。であるから、日本書紀や釈迦三尊像の光背銘には正利一人の名前しか記されなかったのではないかと考える。このように止利を、普通にいう仏師と考えないならぱ、一番最初に述べたような趣旨で仏師について考えるならば、止利について、いろいろと考証することは無意味になるし、わざわざこの一文を草す必要もなかったわけである。しかし、この結果は考察してみなけれぱわからなかったことであり、又飛鳥時代の仏教美術史の上から司馬鞍首止利仏師の名を無視することは、やはりできない。
私の止利に関してだした結論は、あまりにも思い切りのよい考えであるし、薄学の私であるので、考証の過程に於いて不十分で、賛同しがたい部分も多くあろう。この文を書いていく途中で、不明な点や疑問な箇所がいろいろでてきたのであるが、それらに対して時間や資料の制限の上に、私の怠惰が重なり、充分納得のいくような検討ができなかった。
このことは、私も残念であり又不安な所でもあるので、今後もっと勉強していきたいと思っているので御指導をお願いしたい。
注1 私は、飛鳥時代を大化の改新のあった六四五年までとしている。
注2 野間清六氏「止利仏師に関する考察」「夢殿」十七
注3 野間清六は、鞍作は鞍橋のみでなく鞍、杏葉、鐙、鞍覆其他馬具全体の制作に従事したものと見られ、その木技術は木工、金工、繍工、鞍工等の多岐に亘っていた。だから、造仏に従事するに当っても制作の対象物を異にするのみで技術的には何ら新しい困難は存在しなかったと言っている。
注4 日本書紀や元興寺資財帳には、来朝した百済工人の種類として、造寺工、画工、鑪盤工、瓦工が記してあるが仏工の記載はない。
注5 小林剛氏「司馬鞍首止利仏師」昭和三十三年七月「美術史」二九号
野間清六氏注2参照
注6 町田甲一は、王讃は、仁徳天皇であったとしている。
注7 多須奈について扶桑略記の用明天皇二年(587)の条に「百済仏工鞍部多須奈」という記事が、又聖徳太子伝暦上巻の用明天皇二年のところに「仏工鞍造部多須奈」と記されているのがみられる。これから多須奈が彫刻技術者であったと考える人もいる。しかし、達等の来朝帰化説が誤りで、ずつと以前に帰化した一族の子孫であるとすると、多須奈の頃には、既に日本人化していたはずである。そのような多須奈を指して「百済仏工」というのはおかしい。又日本書紀には、多須奈が造寺造仏を誓願したことが記されているが、多須奈を彫刻技術者であったとすると、仏工自身が造仏を発願したことになり奇妙である。であるからこれらの記事は、日本書紀の用明天皇二年の条を読み違えて、誤り記したのではないかと思う。
注8 夏四月辛酉朔、天皇詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同発誓願、以始造銅繍丈六仏像各躯、乃命鞍作鳥、為造仏之工、是時、高麗国大興王聞日本国天皇造仏像、貢上黄金三百両
注9 五月甲寅朔戊午、勅鞍作鳥日、朕欲興隆内典、方将建仏刹、肇求舎利、時汝祖父司馬達等、便献舎利、又於国無僧尼、於是汝父多須那、為橘豊日天皇出家、恭敬仏法、又汝姨島女、初出家、為諸尼導者、以修行釈教、今朕為造丈六仏像、以求好仏像、汝之所献仏本、則合朕心、又造仏像既訖、不得入堂、諸工人不能計、以将破堂戸、然汝不破戸而得入、此皆汝之功也、即賜大仁位、国以給近江国坂田郡水田廿町焉、鳥以此田、為天皇、作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺
注10 毛利久は「日本仏教彫刻史の研究」の中で、現在飛鳥安居院にある金銅の丈六釈迦如来像は、止利のつくったものではなく、元興寺資財帳に収められている塔露盤銘により推古天皇四年(596)に意奴弥首辰星、阿沙都麻首未沙乃、鞍部首加羅爾、山西首都鬼の四人によって制作された。。そして日本書紀に止利が制作したと記されている丈六の銅像と繍像は、元興寺の東西金堂に安置したもので現在は残っていないといっている。この説に対しては、久野健も賛同している。ここでは、元興寺の釈迦如来像が止利の制作したものであるか否かは、直接問題とならないし又、この点に関しては別に述ぺられるであろうので触れないでおく。
注11 この問題に関しては、町田甲一の「鞍作部の出自と飛鳥時代に於ける「止利式仏像」の興亡について」「国華」八八○号が詳しい。
参考文献
小林剛
「司馬鞍首止利仏師」美術史二九号
「日本の彫刻、司馬鞍首止利仏師」一至文堂
野間清六
「正利仏師に関する考察」夢殿十七
毛利久
「奈良仏師」奈良六大寺大観付録
町田甲一
「鞍作部の出自と飛鳥時代に於ける「止利氏仏像」の興亡について」国章八八○号
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