仏 師

19.  但唱・民部・伊豆長ノ八 (たんしょう・みんぶ・いずのちょうはち)

江戸市民に親しまれた諸仏作家

  但唱(1579〜1636)は、摂津に生れた江戸時代の遊行聖(ゆぎょうひじり)である。木彫のかたわら石彫も行ったことが伝えられている。九歳で出家 し、十五歳の時に木食但善(もくじきたんぜん)の弟子となって木食但唱と名乗り、長野檀特山や浅間山、あるいは和歌山那智山など、諸国の霊山で修業を重ね たことが知られている。出家の動機については諸説伝えられるが、前身は神田檜物(ひもの)町に住んだ又七という江戸仏師であったともいわれる。又七は二代 将軍の時代に謀叛に加担し、露見して捕えられ、一味と共に礫刑に遇ったが又七のみ助かって上総天神山に逃げ、その後出家して五智如来大仏の造像を発願し、 やがてこれを完成させた。この事が公儀にも知れ、ようやくに罪が許されたという伝えもある。但唱は寛永十二年(1635)に、江戸の高輪泉岳寺の近く、帰 命山如来寺を創建し、ここに大きな五智如来(五躯)を安置した。この像は芝の大仏の名で江戸庶民に親しまれ、但唱の名を江戸市中に広めたといわれる。この 五体の五智如来像は但唱が三人の弟子の協力を得て、信州伊那で造像したと伝えられている。また、京都鳴滝蓮華寺の石造五智如来や十三仏もこの時同時に造ら れたといわれている。江戸時代に、伊那高遠が石工の中心であったことを考え合わせるとうなずける話である。如来寺は現在では失われたが、品川区大井町の養 玉院に法灯を伝えている。同寺境内の一堂に安置される五智如来が、但唱の造像した像といわれる。しかし如来寺は宝永年間に類焼し、堂宇をはじめ、五智如来 を焼失したという記録もあり、養玉院像を直ちに但唱像と決定するには問題が多い。

 民部(1657〜没年不詳)は、江戸時代の仏師で運慶 二十五代大仏師法橋民部という。異色の仏師で、流刑となった八丈島で造像活動をした。流罪となった理由ははっきりしないが、放蕩の日々を過していたといわ れ、元禄十一年(1698)に英一蝶(はなぷさいっちょう)らとともに罪を受け、一蝶は三宅島、民部は八丈島へと流された。八丈島での造像活動は、後年民 部自身の語ったところによれば、島内の仏像が、いずれも木偶(でく)の棒のようなものであったので、本格的な仏像を見せてやろうということが発端になった という。現在八丈島宗福寺には、民部の造像した七躯の像が残されている。なかでも釈迦如来坐像(寄木造52.6cm)は、鎌倉後期の様式を思わせる秀麗な 像である。そのほか誕生仏や清雲信女坐像などは、いずれも人形的な可愛らしい像である。宝永六年(1709)に大赦がでて、二十年間の流罪を終えてようや くに江戸へ戻った。その後、紅葉山御用仏師に任命され、吹上御殿観音堂の二十八部衆像などを造像した。

 伊豆ノ長八(1815〜 1889)は、本名入江長八、伊豆松崎の人である。漆喰(しつくい)によって描かれた彩色画に、薄肉の彫刻を施した漆喰鏝絵こてえの考案者として知られて いる。長八は松崎で左官の技術を身につけると、二十三歳の時に江戸へ出た。江戸では狩野派の絵師、喜多川武清に絵を学び、これを左官の技術に生かすことを 覚えた。天保十二年(1841)に再建された日本橋茅場町の不動堂では、その表口御拝柱の左右に一対の竜を描き出して、これが江戸中の評判となり、長八の 名を広めることになったと伝えられている。そのほか浅草浅草寺や成田新勝寺などに、多数の作品をのこしたが、そのほとんどは震災などで失われている。現在 は足立区橋戸町橋戸神社本殿の狐、静岡松崎町浄感寺、三島市竜沢寺などにその作品がみられる。長八の菩提寺浄感寺本堂の欄間には、笙(しょう)や笛を吹き あでやかに舞う天女たちや、天井には豪快に竜が描かれ、好対象の作品が残されている。