大同市内から郊外
に
ある雲崗石窟に向かう。今回の旅行、最初のメインイベントだ。
雲崗に近づくと、巨大な石炭工場が見える。社宅のような建物も沢山あ
り、見渡す限り関連の設備のようだ。従業員は数万人とのこと。
中国の北方は石炭の産地が多く、中でも大同は屈指の産地らしい。日本
の
炭坑などとは異なり、ほとんどが露天掘りで、石炭専用の列車やトラックが走り回る。
雲崗石窟もあるいは巨大な
石
炭層の上にあるのかも、とのことであった。
当初の予定では、雲崗石窟の手前にある観音堂によってから雲崗石窟
にということになっていたが、皆さん石窟に思いを寄せており、場合によっては観音堂はパスしてもよいとのことで、取り合えず雲崗石窟に行くことにする。
雲崗石窟は、大同市
の市街西方約16kmの地にある石窟寺院。元は霊巌寺といい、現在では石仏寺と呼ばれる。武州山南麓に東西に1kmに連なって大小50あまりの石窟が並
び、5万1000体の石像が彫られている。
雲崗石窟の中で最も古いのが、曇曜五窟(16〜20窟)で、『魏書釈老志』によれば、和
平
元年(460)に北魏の沙門統である曇曜が文成帝に上奏して、北魏五代の皇帝(道武・明元・太武・景穆・文成)の姿を模して桑乾河の支流の武周川の断崖に
開いたのが始まりという。
文成帝の二代前の太武帝は道教に傾倒し、三武一宗の廃仏の第一回と呼ばれる廃仏を行ったが、その後を受け
た
仏教復興事業のシンボル的存在が、この五座の巨大な石仏であった。
五窟の後、第7、8窟、次いで第9、10窟、更に第1、2窟が造
ら
れ、太和19年(495)孝文帝の洛陽遷都の前には第5、6窟の完成して、ほぼ現在の形になった。
洛陽への遷都まで35年間、雲崗
期
(460年〜493年)と呼ばれる仏教彫刻史上の一時期を形成した。
第21窟以下西北の諸洞、五華洞(第9〜
12洞)などの小仏龕は洛陽遷都以降、すなわち龍門石窟と同時期に造られた。
石窟の構造としては、前期は、平面が長円形、天井は
ドー
ム形で、窟全面に大仏が彫られている。後期は、平面が長方形、天井は多く格子形で、石窟を建築的に構成している。
様
式上は、最初期の曇曜五窟は、丸顔で体躯もふくよかで、衣は薄く、肉体が衣を通して感じられるような造像であり、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃
く現れている。しかし曇曜五窟の中でも最末期に造営されたと考えられる第16窟の本尊では、顔は面長になり体躯も痩せ形で、厚手の大衣を覆う形式が現れて
くる。大衣を左の肩にかけて左腕と左胸を覆い、それを背にまわして右肩と右腕を覆い、さらに前にまわして胸と腹を覆い、その端部を左腕の下膊に懸ける。
こ
れ以降の雲崗石窟の如来像は多くがこの形式となり、龍門石窟の古陽洞まで及んでいる。
現
された尊像は釈迦像が最も多いが、弥勒菩薩・観音菩薩・文珠菩薩・維摩居士像などのほか、シバ神・ヴィシュヌ神などのインドの諸神も多くみられる。また、
龕の周囲や境にはギリシア様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も多用されている。しかし、末期になると初期の雄大な質感は姿を消し、華奢で力強さの
感じられない造形が増加する傾向が顕著となる。
雲崗石窟は、のち竜門・天竜山などの諸石窟に影響を与え、六朝仏の基準となるほか、
朝
鮮半島や、遠く日本にも大きな影響を与えている。
バスを降りる前に、王さんから土産物の売り子が付きま
とっ
てくるが、はっきり不用(プヨ)と言うようにと注意を受ける。
バ
スを下りると案の定たくさんの売り子が集まって来るが、てっきり若い女の子かと思ったらオジサンばかり。
駐車場から土産物屋を抜けると、石窟の正面に出
る。正面に覆い堂を懸ける5〜7窟を中心に左右に広い岩場が拡がり、所々に孔がうがたれている。5窟から8窟、16〜20窟を王さんの説明を受けながら見
学する。
第5・6窟は、一対窟となっている。
5窟は、前室の奥に高さ20mはあろうかという大きな空洞を設
け、
中央に三尊像を彫り出して
いる。中央の座仏は高さ17mで雲崗石窟の中で最大の像である。手前のスペースが狭いため、下から見上げるようになる。周囲には飛天や供養者などがアーチ
状になった天井近くまで所狭しと彫り出されている。最初の窟を見ただけで圧倒される。窟のすばらしさがよくわかる。
6窟は、中央に
四
角形の方柱を
残して周囲を回廊状に掘り出した窟で、方柱の四面の上下にそれぞれ三尊仏をあしらい、最下段には、釈迦の仏伝や本生譚を丁寧に刻んでいる。窟の周囲の壁面
には種々の文様で区分けされたスペースに仏・菩薩・羅漢・飛天や供養者を隙間無く彫りだしている。天井には三十三天神と騎馬人が彫られ、雲崗芸術の逸品と
もいわれる。
どの窟を見ても主尊はもちろん、脇侍や眷族、壁、天井、入口の小龕に穿かれた夥しい数の像は、どこを見渡しても、全て
北
魏仏である。
やや艶やかな彩色が施されているが、これらは後世に加えられたもので、元の彩色は殆ど残されていないようだ。
7、
8窟も一対の窟となっている。六人の供養天人像、楽奏者など見所をメモしてきたが、彫られている位置が高く殆ど見えない。近くによって見たいとも思うが、
仔細に見ていけば、1窟だけで1日掛りとなりそうだし、見始めるとキリがない。
9〜
15窟は大きな石窟の内部に夥しい数の供養天人や
楽器を演奏する伎楽天人、飛天が表され、石窟の正面の蜂の巣のように無数に穿たれた石龕の中には三尊仏が彫出されている。
13窟の
主
尊・弥勒交脚像の、胸の前に挙げた手の支持を兼ねた天部像が精緻で愛らしい。
16〜20窟は雲崗石窟最初期の
造
営になる曇曜五窟である。
18窟の主尊の十大弟子像は上半身のみ残されているが、哲学者のようなその表情は生きているようだ。
第20
窟は雲崗石窟で最初に造営された窟であり、当初は前室を設けるように計画されたが、石質が悪く、開削途中で石窟とすることを諦めたともいわれている。この
ため露座の大仏と呼ばれるように、主尊が露わになっているため写真などで多く紹介されており、雲崗石窟のシンボルのようになっている。
坐
像の腰から下はほとんど溶けたように風化しているが、面相や上半身はそれが全く気にならないように明瞭な彫り口を見せている。
第20
窟の大仏の前で記念撮影し一担解散し、自由見学とする。
第20窟から今度は第1窟迄逆に戻りながら見学する。
1〜
4窟は、管理棟や唯一の売店のある一角から塀を隔てた外にあり、訪ねる人も少ない。いずれも文成帝の死後(465)の開削である。
1、
2窟は、まん中に主柱を建て周囲に多くの仏像や供養像を彫り出した、中国石窟で多く見られる形式の窟である。
3
窟は、1、2窟を大きくしたような窟で、雲崗石窟の中でも最大級の窟であるが、未完成であったものを遼代(916〜1125)に追刻したとされている。正
面の三尊仏の上半身を除き、ほとんどが溶けたようになくなっており、巨大な空洞が残るだけである。しかし、正面の三尊仏はそこだけ岩質が異なるためか昨日
彫ったばかりのように彫りも明瞭で、豊満な様式を示している。中尊の顔には表面を漆喰等で保護した痕と思われる鉄の鋲が痛々しい。
4
窟は主柱の周りに人がやっと立てる程度の空間が残されているが、像はほとんどが摩滅している上に、頭部が失われている。
第1窟まで
行ったところで時間オーバー。20窟まで再び戻って集合。第21窟〜25窟は結局見れず終い。
もっともこれらの窟は、都が大同から
洛
陽に移ってからの彫られたもので造営年代もやや降り、国家的な規模のものに対し、個人の祈願による開削窟が多いため小規模の窟が多い。
大
同市の西郊外8キロのところにある。遼代の重煕年間(1032-1055)に創建された寺であるが、清代初期に兵火に遭い、現在の建物は順治8年
(1651)に再建された。雲崗石窟からバスで10分程度の所であるが、まわりは野っ原で何もなく、参詣者はどうやって来るのだろうかと心配になる程であ
る。入り口には九龍壁と同文様の龍を象った彩色琉璃瓦張りの壁が設けられており、さしずめ五龍壁とでも言えようか。
戯台(舞台)・
中
門・正殿と三真殿が並び、正殿には3m近い観音菩薩像と両脇に金剛力士像など、16体の仏像が立ち並ぶ。全て遼代の石像だが、極彩色に彩られており、また
彫りも精緻で、塑像のように見える。
堂内の撮影は禁止のようだが、王さんがこの人たちは仏像の専門家だとか何とか説明すると、あっ
さ
りとOKとなった。
太原駅の近くの
レ
ストランで夕食。太原駅から洛陽まで夜行列車に乗る。我々の乗る軟座は、専用の待合室があり、駅に入る入口から異なり、係員もスタイルのよい若い女性ばか
りだった。
こ
こで、トラブル発生。
林さんと係の人が何やら話し合っていたが、一行16名に対し、12名分の軟座しかが確保出来ておらず、4名が
硬座に移らねばならない
という。軟座は一車両分36席しかないが、政府の筋から軟座が押さえられてしまったということらしい。軟座は2段で4名毎のコンパートメントだが、硬座の
方は3段でカーテンなどの仕切もなく、しかも席はバラバラだという。
人治国家の中国ゆえさもありなんと諦めたが、林さんが色々奔走
し、車掌や周り
に人に交渉して(かなり苦労したようだが詳細は聞くまい)、何とか3段×2列の6人分の席を確保し、結局林さんと工藤氏、それにA
氏、F氏と
私が移ることとした。3段の上2段は起き上がるスペースもないが寝るだけがからまぁいいか。