雲崗・鞏県・龍門石窟の旅道中記(2006年10月8日〜10月14日)

高 見 徹

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 〜行程〜


10月 8日(日)成田空港 → 上海空港 → 北京空港→ 北京(泊)
10月 9日(月)北京 → 大同 → 九龍壁 → 華厳寺 → 応県の木塔 → 大同(泊)
10月10日(火)雲崗石窟 → 観音堂 → 太原 → (車中泊) → 洛陽
10月11日(水)宋陵 → 鞏県石窟 → 洛陽(泊)
10月12日(木) 龍門石窟 → 洛陽 → (列車) → 西安(泊)
10月13日(金)兵馬俑博物館 →大雁塔 → 陜西歴史博物館 → 青龍寺→ 西安(泊)
10月14日(土)西安空港 → 上海空港 → 成田空港


 第四日目

 10月11日(水)

6: 30 洛陽着。

  列車から降りようとすると目の前を 警笛と共に車が通過した。何とプラットフォームを荷物を積んだ車が三両連結で走りまわっているではないか。林さんが早く降りてというが、車がタラップぎり ぎりに通過していく。プラットフォームで交通事故ではシャレにならない。
 迎えのバスで一坦ホテルに入ることにする。バスの中で、こ れ から二日間のガイドを務める牛さんの紹介。
 牛さんは、同じ単語を2回繰り返すのがちょっと気になるが、流暢な日本語を話す。中国で は ガイドのパスがあれば中国中の観光地はフリーパスだそうで、ガイドはエリート職業のようだ。ガイド専門の大学もあり、結構人気があるという。
  洛 陽の町は、埃だらけの大同よりは随分落ち着いている。メイン道路は道幅の半分のあるような大きな中央分離帯にポプラが植えられ、歩道とは別に自転車専用の レーンが設けられている(但しここはバイクも通行OKらしい)。


8:00 ホテルで 朝 食

 ホテルでの朝食は飲茶のバイキン グ。飲茶はさすがに油っこくなく、朝粥が胃に優しい。これからは、朝昼晩これでいいくらい。
 寝台列車での寝不足もあり、ホテルでの 部 屋で一休みすることに。

11:45 ホテル出発

 ホテルを出発し、鞏義市内で昼食。

 昨日からバス や列 車に詰め込まれ、運ばれ、食事を与えられ、ブタのような生活。


12:30 宋陵

  今 日は鞏県石窟だけで時間は十分あるため、市内にある北宋時代(960〜1127)の歴代の王陵である宋陵を見学することにする。第3代永昭陵と永定陵が市 の中心部、レストランから歩いて行ける距離にある。周りは公園化されており、広場には露店や遊園器具などが並んでいる。
 共に円墳 で、 四方に獅子の 石像が二匹ずつ対になって外向きに安置されている。南方には立派な南大門があり参道の左右に10体の石像が建つ。 文人や馬、羊、獅子、いるか(?)など を 象った石像は、それぞれの動物の特徴を良く捉えている。鞏義市内には、8つの宋陵があるが、ほとんどの陵に石像が残されている。各陵の石室は発掘調査はし ていないという。掘り出すと埋葬品が環境により劣化するため、その準備が整ってからということであるが、中国ではそこら中からもっと古い三国時代や戦国時 代の遺跡が出てくるため、宋の遺跡にまで手が回らないと言うのが実情のようだ。


13: 30 鞏県石窟へ

 鞏 義市から鞏県石窟に向かうと、途中、崖状になった背後の山に横穴を開け、立派な入り口を付けて住居としている所がある。窯洞(ヤオトン)と呼ばれている。 中国の古い家はレンガ造りの安価な造りの家が多いが、この付近は、レンガの家も建てられないような人々が多く、横穴を開けて住んでいたという。現在は流石 に住む人はいないようだが、現在でも倉庫などに利用している様だ。また、レンガ造りの質素な家でも、門構えだけは立派である。


14: 00 鞏県石窟

 鞏県石窟へ向う。 鞏 県 は近年昇格して鞏義市となったため、現在は鞏義の石窟寺と呼ばれている。
 石窟寺は、洛河と黄河に挟まれた鞏義市街から9kmほど離 れ た東北の郊外にある。
 北魏時代に開鑿された石窟寺院。河南省鞏県の北西2km。大力山と呼ばれる山の麓の砂岩の断崖を利用して、南 面 する5石窟がある。520年前後から北魏末の534年前後にかけて造営された。
 当初は「希玄寺」と呼ばれたが、宋代は「大力山十方 浄 土禅寺」、明代は「十方浄土禅寺」と名称が変わり、清代になって「石窟寺」と呼ばれるようになったという。小さい仏像は1000点ほど、彫像276点、石 刻7759点が残されている。
 北 魏の開削ではあるが、東魏・北斉・唐代の年号の仏像題記や紀年銘がみられ、後代の追刻・増補がうかがえる。
 第一、二窟は宣武帝(在 位499〜515)と霊 太后が造営した一対洞で、一窟は間口、奥行きとも6.5m、高さ6mで、523年(正光4)に完成したが、二窟は末完成のままである。第二窟と第三窟の間 には、幅27mの岸壁があり、そこに写真などでお馴染みの三尊仏が彫刻されている。
 第三、四窟は孝明帝(在位515〜528)とそ の皇后のつくった双窟 で、527年(孝昌3)ごろ完成した。第五窟は孝荘帝(在位532〜530)の造営になる可能性が高いが、北魏末の混乱のため未完成に終わったと思われ る。石窟は平面方形で、門側に金剛力士を配する。内部は第五窟を除き方柱式の石窟である。壁面には多数の龕を鑿ち、三尊または五尊像を配している。
鞏義石窟は雲崗石窟・竜門石窟などに比べると随分小さな石窟であるが、造営された期間も南北朝に集中しており、こじんまりとした魅力的な石窟である。
像 容は、面相が縦長で両頬はふっくらとしており、体部は抑揚が少なく全体に丸みを帯びた、穏やかな雰囲気を持っている。服制は、大衣を左肩から右肩を覆い、 端部を左上膊部に掛け、裾を膝前に垂らし、台座まで覆う裳懸座を表している。

  一般の観光客はこの石窟寺院までほ とんど足をのばさないらしく、土産店も図録の売り場もなく、静かなたたずまいである。
 境内に入って奧に進むと、目指す石窟は懸崖に 庇 をかざした回廊のような場所に西から東へ五つの石窟が順に並でいる。
 一窟から五窟まで牛さんの解説でまわる。

  一 窟は方柱の正面に仏坐像を刻み、台座の左右には獅子をあしらっている。天井は格子状に区分けして天女や法相華文をレリーフ状に刻んでいる。
  内 部の南面壁には、皇帝や皇后が仏跡に礼拝する際の行列を表した皇帝礼佛図や皇后礼佛図が美しい浮彫で彫られている。
 一 窟で写真を撮りはじめると、制服の若い女性が窟の中はダメだという。一回りした後係員がいないのを見計らってカメラを構えると、今度は観光客らしき男性に 写真はダメと制止される。男性はそこに居すわり私服ながらどうも係員らしい。やむを得ず窟の外に立って中部の写真を撮る。

  窟の外壁に は、写真で見慣れた仁王像、如来三尊像の巨像が彫られているが、ブロック状に剥がれ落ちており、痛々しい。
 二窟は、入口部が崩落し て 主柱が露わになっており、鉄棚で中には入れない。内部も未完でほとんどが摩滅・剥落しており見るべきものは少ない。
 三窟も他の窟と 同様主柱の四面に三尊仏を彫り出し、周囲の壁一面に小仏や飛天、眷族を表わしている。箜篌、琵琶、琴などを演奏する奏楽天人のレリーフが美しい。三窟で は、画学生らしき一団が先生の講義を聞いている。その後めいめいで窟の中に入り、デッサンをしはじめる。
 第四窟は内部立入り禁止で あ る。方柱は上下2段の小龕に三尊を彫出し、周囲の壁に魚をもつ神や鶏の神を表し、床面には花紋装飾レリーフが残る。
 第五窟の奥に夥 し い数の小仏を刻んだ万仏龕がある。

  写真撮影に関し我々に密着マークする女性の係員に、都度確認して撮影していた が、第三窟については一窟でOKだった外からの内部の撮影もダメだという。
 我 が団長と牛さんが管理所の所長に図録やパンレットもないのだから撮影を許可するように交渉する。OKが出たので、牛さんが先の男性係員に事情を説明したと ころ、「所長がそんな許可を出すとは信じられない」、と逆切れ。牛さんがわざわざ所長さんを呼んできて説明してもらうが、所長は所長で、「誰がだめだと いっているんだ。おれが良いと言っているんだ」、と大騒ぎ。擦った揉んだの末、結局外から一枚撮影させて頂けたが、デッサン中の画学生も一旦外に出てもら うなど、周りの白い目を浴びながらの撮影となった。
 最後はお上のご意向に従うが、ここまでは俺の裁量の範囲だという個人主義が徹底 し ている。
 その後所長さんが自ら、通常は入れない窟にある漢時代の碑文と、鳥を象ったと見られる文様が刻まれた洞窟を見せて頂く。


18: 30 洛陽に戻り、市内レストランで夕食。

  水 席料理という、スープをメインの伝統料理。乾燥地帯で、水分補給のために考えられた料理で、唐代の則天武后も食べに訪れたとか・・・。

  ち なみに洛陽は、中国の「牡丹の故郷」と呼ばれている。史料によれば洛陽での牡丹の栽培は隋の時代に始まり、唐に最盛期を迎え、宋朝のときに牡丹の名所とし て天下に知られるようになったという。
 ホテルは、その名も牡丹城賓館。

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