雲崗・鞏県・龍門石窟の旅道中記(2006年10月8日〜10月14日)

高 見 徹

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 〜行程〜


10月 8日(日)成田空港 → 上海空港 → 北京空港→ 北京(泊)
10月 9日(月)北京 → 大同 → 九龍壁 → 華厳寺 → 応県の木塔 → 大同(泊)
10月10日(火)雲崗石窟 → 観音堂 → 太原 → (車中泊) → 洛陽
10月11日(水)宋陵 → 鞏県石窟 → 洛陽(泊)
10月12日(木) 龍門石窟 → 洛陽 → (列車) → 西安(泊)
10月13日(金)兵馬俑博物館 →大雁塔 → 陜西歴史博物館 → 青龍寺→ 西安(泊)
10月14日(土)西安空港 → 上海空港 → 成田空港


  第五日目

 10月12日(木)

8:30 バスで龍 門 石窟へ

9:50 龍門石窟

 龍門石窟は、敦煌、雲崗と並ぶ中国三大石窟の一つ。
  北 魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した太和18年(494)に始まる。仏教彫刻史上、雲崗期の後を受けた、龍門期(494年-520年)と呼ばれる 時期の始まりである。
 龍 門石窟は古都洛陽から西南へ13kmに位置し、伊水を挟んで東に香山、西に龍門山が対峙していて、あたかも天然の門のように見えるため「龍門」「伊闕(い けつ)」と呼ばれている。両山の内二つのうち主に西山(龍門山)に南北2kmにわたり、洛陽遷都以来、唐中期まで400年にわたり多くの石窟が造営され た。
 石窟と佛龕は西岸、東岸、併せて2137。その内訳は石窟が1352、仏龕が785、石灰岩の石彫像10万余体を数える。この 他、佛塔は40 余基。碑文・題記は2870余点。造像題記のうち書家の手本とされている『龍門二十品』が特に有名。時代別では、北魏30%、隋唐60%。残りはほかの時 代のもの。東山の石窟はほとんど唐代のものである。
 龍門石窟の中では、洛陽に遷都して間もなく古陽洞が造営され、つづいて、正始2 年 (505)に宣武帝の勅願により賓陽洞がつくられ、いわゆる龍門様式の石彫像が出現した。

 大同の雲崗石窟が粗 い 砂岩質で出来ているのに対し、龍門石窟は緻密な石灰岩質であり、北魏期においては、雲崗のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかったと考えら れている。
 賓陽洞も当初は、もっと大規模な石窟を計画したが、途中で計画を縮小し、それでも延べ80万人を動員して正光4年 (523)に、ようやく中洞のみが完成したという。

 龍門石窟の様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造 形 と厚手の大衣を着けた服制で、雲崗石窟の曇曜五窟の初期に見られるような西方風の様式とは全く異なっている。また裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な 表現が見られるようになる。
 ま た、服制の特徴として、右肩を覆う偏袒右肩の大衣の下にもう一枚偏衫(へんざん)と呼ばれる布を着ける様式が見られるようになってくる。この偏衫は、古文 書によれば、それまで僧の服装は右肩を露わにする偏袒右肩が正式とされ、貴人の前でもこの服装であったが、露わに右肩を出すのが醜いと考えられるようにな り、光統律師彗光が別の布で右肩を覆わせたのが始まりという。彗光は北魏の都が大同から洛陽に移って以降活躍した僧で、偏衫を着ける像も雲崗石窟には無 く、龍門石窟の中でも賓陽中洞以降の像に現れてくる。その後、中国の隋・唐および南朝にも見られるようになる。

  日 本の飛鳥時代の像では、飛鳥寺や法隆寺金堂・釈迦三尊像、四十八体仏のうち止利派に属すると考えられる像は偏衫を着けておらず、その後の法輪寺薬師、法隆 寺橘夫人厨子の阿弥陀三尊などから偏衫を着け始める。
 か つては、日本の飛鳥彫刻の源流は賓陽中洞の中尊如来坐像などであるとされてきたが、これらの像は、杏仁形の眼や仰月形の唇は共通しているものの、両頬は豊 で体躯も肩幅が広く、偏衫を着けることから見ても、飛鳥彫刻の源流とはいえず、曇曜五窟の内の最後期である第16窟の如来立像から始まり、龍門石窟最古の 古陽洞の中尊に伝わる様式が南朝に伝わり、南朝と交流の深かった百済を通じて日本に伝わったと考えられている。

  入 り口の駐車場で一旦降り、電動カートで石窟の入り口まで行く。伊川の朝の風が清々しい。伊川に掛かる大きな伊関橋の橋柱の下が入場口になっている。

 
 

  入 り口の手前の広場に仮設トイレがあり、牛さんが切符を買っている間にA氏が仮設トイレを使用したところ、出口におばさんが待っており、チップを払わされた という。入場口を入った所にきれいなトイレがあり、我々はそこを使用したが無料だった。
 「わざわざチップを払ってまで仮設トイレに 入 るなんて」と笑ったが、これも旅の想い出か?
 龍門石窟は、西洋人らしき一団も多い。聞くとは無しに聞いていると、中国語のガイドの 解 説を更にスペイン語やドイツ語に通訳している。
 我々は、牛さんの解説で一通り、奉先寺洞まで案内してもらい、その後自由見学となっ た。
 各窟には入場口に近いほうから順に番号が付いており、日本で紹介されているのは2桁の番号だが、実際の表示は4桁になってい る。 実際には石窟の数は主要な洞以外に小さいものまで入れると1352窟あるため、その全ての通し番号になっているようだ。洞名を参考に見て回る。

古陽洞は、龍門石窟の中で最も古く開かれた窟で、幅6.8m、奥行約13mの馬蹄形平面を持ち、ドーム型の天井まで、約11mという大窟である。
  正 面は2段の宝壇上に、本尊の釈迦如来座像と両脇侍菩薩像を刻み、さらに左右の壁の上中下三層に大龕像が、また、窟全体に無数の小龕像が造られている。
  書 道家が賞賛し手本とする『龍門二十品』のうち、十九品がこの窟の造像題記である。これらの題記により、上・中層と奥壁三尊像が孝文帝と宣武帝期に造立さ れ、その後、孝明帝期に、窟底を掘り下げて下層の仏龕を加えたため、本尊が今のように高い位置になったものと考えられているという。
  こ のように、本尊やの造像題記の位置が高く遠く、且つ洞内もくすんだようになっているため、細かいところは肉眼では分かりにくい。単眼鏡で眺めると、飛鳥の 源流といわれる面影がぼんやりながら見て取れる。

  賓 陽中洞は、幅約11m、奥行9.8m、高さ9.3mの窟で、奥壁に釈迦如来座像、二菩薩、二大弟子の五尊を刻む。 中尊釈迦如来は、高さ約8.4mの巨像で、ドーム型の天井に沿うように、やや前方に傾く姿勢をとっている。 太い鼻翼、唇は仰月形、そして眼は杏仁形と、いわゆるアルカイック・スマイルを浮かべたその顔貌は、日本でも良く紹介される、おなじみの姿である。
  し かしながら、両頬の膨らみや体部の抑揚はやや柔らかみを増してきている。また、服制も偏衫を着けるなど、その後の龍門石窟の造像に繋がる新しい形式が見ら れ、勅願窟として、他の窟の模範となったことが感じられる。

 洞 口の内壁の両側には、維摩変、佛本生故事、皇帝礼佛図、皇后礼佛図、十神王像の4層からなるレリーフが施こされていたが、皇帝礼佛図、皇后礼佛図は新中国 成立以前に盗まれ、縦2mに及ぶ皇帝礼佛図はニューヨークの市立美術館に、皇后礼佛図はカンサスのネルソン美術館にそれぞれ別れて所蔵されているという。


  敬 善寺洞・万仏洞・恵簡洞および奉先寺洞は、竜門石窟の最盛期である初唐期の開削になる。
 特に奉先寺洞は、岩山の山腹に幅 33.5m、 奥行38.7m、高さ40mという広大な空間を切り開き、その三方の壁に、高さ17.14mの盧舎那仏を中心に、迦葉・阿難の二大弟子、二菩薩、二天王、 二力士の合わせて9尊の大像を彫り出す、龍門石窟で最大の石像である。
 い ずれも円熟した彫りで、中尊台座に刻まれる『大盧舎那像龕記』によれば、高宗の勅願により、咸亨3年(672)に開削を初め、3年9ヶ月を費やして造立さ れた唐代彫刻の代表作である。この像の建立に際し、則天武后が化粧料二万貫を援助したことから、石工達は彼女の顔に似せて彫ったと言い伝えられている。
  龍 門石窟といえば必ずこの奉先寺洞の中尊の姿が紹介されるが、ふくよかで、やさしく、叡智を秘めた表情と、どこから見ても全く破綻のない、均整の取れた体躯 には圧倒される。

 20〜25洞は唐代のものが多いが、ほとんどの像が頭部を失っている。風化もあるが、その多 く は海外に持ち出されたものと思われる。中には最近持ち出されたものだろうか、指名手配のように元の写真をパネルにして情報を呼びかけているものもあった。
  先 に大阪市立美術館で開かれた小野コレクション(現在大阪市に寄贈)の中にも龍門石窟の等身大の仏頭が何体も展示されていたが、入手の経緯は兎も角、現状の 惨状に日本人も荷担していると思うと残念でならない。

  一部の人は、渡し船で対岸に渡り、電動カートで入り口に戻 ることになった。
 私も対岸に行って石窟の全景を眺めたかったが、集合まで45分しかないので諦める。
 私は最 後の 25洞から逆に写真を撮りながら戻ることにした。
 それなりに急いで廻ったつもりだが、気が付くともう時間がない。カメラと資料の 入っ た重いカバンをもって、集合場所の入り口へ走る。5分遅刻。遅刻したせいでお昼が食べられない、どうしてくれると皆さんから非難轟々。

11: 30 龍門石窟出発

12:00 洛陽駅の近くのレストランで昼食

 昼食は、伊水の川魚(鯉)、エビのチリソース(今回の旅行中、これが日 本 と同じ味で一番美味しかった)など。時間が30分しかなく、歩き疲れと食べ過ぎでほとんど手かつかず、小籠包(しょうろんぽう)を包んで車中のつまみとす る。


12:30 出発

 洛陽駅から列車で西安に向かう。待合室は大原と同様、軟座専用待合室。

14: 35 洛陽出発。

 軟座の二階建て列 車。約5時間の旅。南に下るに従って、大同から洛陽までの景色に比べると緑が多くなってくる。大同から洛陽、西安(長安)に遷都するのもこのような自然環 境が大きく影響したのだろうか。
 一 行は二つの車両に分かれ、私の乗った方は他はドイツ人の旅行者の一団。我々は入り口付近の踊り場状になった中二階の席に座るが、1時間もするとドイツ人た ちは飽きて席を離れ、三々五々踊り場にやってきては暫く外を眺めては席に戻っていく。みんな図体がでかいから、迷惑この上ない。

  

 我 々も 飽きかけた頃、車内販売で、磁石のブレスレットや、磁石の大玉のおもちゃを売っている女の子が実演をしながら車内販売に回り始める。二つの磁石を放り上げ るとぶつかりながらカチカチと音を立てて落ちてくるのが面白い。ニコニコと愛想は良いのだが、何回か回っても全く売れていないので、冷やかしでブレスレッ ト(50元)と、おもちゃ(10元)を買ってあげる。
 (これが実は空港で没収された!)。
 今度は、籠に果物 を入 れたお兄さんが回り始める。籠の中身が減っていたので、紙に「大量販売!」と書いてあげたら「中日友好」と書いて寄こした。

その内、函谷関のそばを通過する。箱根の山と比較される位だから険しい所かと思ったら、それ程高い山ではない。F氏によれば、『箱根の山』に出てくる函谷 関は漢の時代の場所で、現在の場所とは違うのだそうだ。かつては戦国時代に秦によって東方の国の侵入を防ぐために作られたが、後の前漢の時代(紀元前 144年)に東に移され。新しくつくられた方を、「漢関」又は「函谷新関」という。かつては首都長安(西安)から函谷関迄を関中とし、首都への入り口とし て、歴史上多くの戦いが行われ、また故事が生まれた。

 西安に近づくと、中国五岳の一つ、道教の聖地とされる華 山 が見えてくる。崋山の標高は2106mで、五岳のなかでも険しいことで知られ、ロープーウェイで登ることが出来るという。


18: 50 西安に到着

 西安は、ガイドの 林 さんのホームグラウンド。
 かつては長安と呼ばれ、秦、漢、隋、唐など、紀元前から3000年にわたって国際都市として繁栄したシル ク ロードの出発点だ。街を囲む一周12kmに及ぶ巨大な城壁がかつての栄華を想い起こさせる。この城壁は明代の建築であり、かつての長安はこの何倍もの街 だったそうだ。

  ホテルに一旦寄ったあと、市内の天龍宝厳素食館で夕食。ここは日本人が経営するレストランで中国 風精進料理。
 肉や魚の料理、寿司などが出てくるが、どれも全て大豆など植物を使って作られている。見た目も味も全くわからない。ま た、盛り付けも今までの中国料理とは全く異なり、繊細で上品な料理だ。
 値段も、普通の中国の人では食べられないような値段なのであ ろ う。

 ホテル:安喜来登大飯店


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