第二章 普陀山考 −−古代の東シナ海域における観音信仰−− 

一、 普陀山
二、 
慧蕚の故事
三、 
海上守護の神、観音
四、 
潮音洞 −−洞窟と観音信仰−−
五、 おわりに

 二、 慧蕚の故事

 普陀山は長い観音信仰の歴史を刻んでいる。ではその開基はといえば、日本僧、慧蕚(えがく)によるとされている。慧蕚については、入唐求法巡礼行記・元亨釈書・続日本後紀・日本文徳天皇実録・金沢文庫旧蔵白氏文集など、また後に挙げる中国側資料に名や事績が見える。それらによれば、慧蕚は九世紀中頃活躍した僧で、唐との間を三、四度ほども往還した。五台山や天台山などの霊場を巡歴した。白氏文集を書写したこともある。杭州塩官県霊池院の義空長老を伴って帰国し、日本に初めて禅宗を伝えた。慧蕚の字は、文献によっては恵蕚・恵鍔・慧鍔・慧諤に作られている(注1)。

 その慧蕚が普陀山を始めたという故事にふれる古い文献には、中国側資料として仏祖統記・仏祖歴代通載・定海庁志・補陀洛迦山伝・重修普陀山志・重修南海普陀山志など南宋から清にかけての各時代にわたるものがあり、日本側資料として元亨釈書・本朝高僧伝などがあることが知られている。中国側資料では最も古い、南宋、志磐撰の仏祖統記巻四十二(大正蔵四十九)には次のようにしるす(便宜に従い、段落に分け、番号を付す。〔 〕内は原文の割注。大正蔵のテキストの校異に従って本文を改めたところがある)。

 (大中)十二年(中略)

 A 日本国沙門慧蕚、礼五台山観音像。道四明国。舟過普陀山著石上進。衆疑懼祷之曰、若尊像於海東機縁未熟、請留此山。舟即浮動。鍔哀慕不去。乃結廬海上以奉之〔今山側有新羅礁〕。

 B 人聞之、請其像帰安開元寺〔今人或称五台寺。又称不肯去観音〕。

 C 其後有異僧、持嘉木寺、倣其製之。局戸施功、弥月成像。忽失僧所在。乃迎置補陀山

 大意は次のようであろう。

A 大中十二年(八五八)のこと、慧蕚が五台山で一つの観音像を得、四明(寧波府)から帰国しようとした。その乗った船が普陀山を過ぎようとしたところ、海中の石に乗り上げ、進むことができなかった。そこで船の人々は疑い恐れ、観音像にこう祈った。「もし尊像が海東の日本に渡っていかれる機縁がまだ熟していないのでありますなら、どうか此の山にお留まりくださいますよう」。すると船はすぐに浮かび動いた。そこで観音像を島に移したが、慧蕚はなお尊像への哀慕の念に引かれて立ち去りがたく、海のほとりに庵を結んで像を奉安した。〔今山のかたわらに新羅礁がある、そこに安置したのである〕。

B (ぎん。寧波府の治)の人々がそれを聞いてその観音像を請い受け、に帰って開元寺に安置した。〔今の人はその寺を五台寺とも呼んでいる。また不肯去観音とも呼んでいる〕

C その後一人の不思議な僧が現れ、嘉木を持って開元寺を訪れ、その観音像に倣って像を刻んだ。戸を閉ざして彫り、幾月もかかって像は完成した。するとたちまち僧は姿を消した。そこでその僧が刻んだ観音像をあらためて補陀山に迎え、安置した。

 仏祖統記は咸淳五年(一二六九)の成立である。慧蕚の事績がしるされるように大中十二年(八五八)のことだとすれば、その約四百年後に書かれた書物ということになる。そのことも関係するだろう、記事はすでに説話的要素を含んでいるとみられる。Aにおける、観音の意志で船が進まなかったという霊異、Cにおける、異僧の不思議などがそれである。 仏祖統記の内容は、次代、定海庁志巻二十七(大徳年間〈一二九七〜一三○七〉成立)や元の念常撰、仏祖歴代通載巻十六(至正元年〈一三四一〉成立、大正蔵四十九)にも基本的には受け継がれているが、多少の異同も認められる。いまは仏祖歴代通載の関係記事を挙げる(意によって本文を改めたところがある)。

補怛洛伽山。観音示現之地。

 O 有唐大中間、天竺僧来。即洞中燔尽十指。親覩妙相、与説妙法、授以七宝色石。霊跡始著。

 a 其後日本国僧恵鍔、自五台菩薩画像、欲本国。舟至洞輙不往。乃以像舎于土人張氏之門。張氏屡覩神異。径捐居為観音院〔昌国志云梁貞明二年始建寺〕。

 b 郡将聞之、遣幕賓其像。到城与民祈福。

 c 已而有僧、名即衆。求嘉木、局戸刻之。弥月像成。而僧不見、今之所設是也。

 abcはそれぞれ仏祖統記のABCにあたるが、aにおいては観音像が画像と解釈され、またその画像の安置の次第に島の住人、張氏が登場して詳しくなり、bにおいては 人が郡将に代わり、開元寺の名が消えている。cでは異僧の名を即衆とする。もっとも異なるのはOの部分の付加で、大中年間に訪れたのは恵萼ではなく天竺僧であり、その僧に初めて観音が示現したので、慧蕚が来たのはその後のことだという。総合的にみて、この仏祖歴代通載の文は普陀山の観音をより権威づけ、その縁起として仏祖統記の文よりも整ったものになっている。言葉を代えれば、説話化がより進んでいるといえよう。

 以後の中国側資料、すなわち補陀洛迦山伝(元・盛煕明述、一三六一年成立)・重修普陀山志巻二(明・周応賓撰、一六○七年刊)・重修南海普陀山志巻二・七(清・許撰、一七三九年刊)における慧蕚の故事の記述は、それぞれ多少の異同はあるが内容・字句表現ともおおよそこの仏祖歴代通載や定海庁志の文の流れにあると認められる。

 一方、日本側資料、虎関師錬の元亨釈書巻十六(大日本仏教全書六十二)には次のようにある。

又入支那重登五台。適於台嶺観世音像。遂以大中十二年、抱四明本邦舶過補陀之海浜著石上。舟人思載物重、屡上諸物。舶著如元。及像出舶能泛。蕚度像止此地、不棄去哀慕而留。廬海以奉像。漸成宝坊。号補陀落山寺。今為  禅刹之名藍。以蕚為開山祖云。

 元亨釈書は、その成立年次(一三二二年)からいって仏祖統記を参照する機会があったと思われる。事実、構文や下線を付した字句の類同の程度はその影響とみられよう。しかし、元亨釈書の文の内容は仏祖統記そのままではない。

 まず、元亨釈書には仏祖統記のBCにあたる部分がない。普陀山の補陀落山寺を「今禅刹の名藍たり」として「蕚を以て開山祖と為す」と、日本僧、慧蕚の事績を称揚したい元亨釈書にとっては、普陀山の観音像は慧蕚が五台山からもたらしたそのものではなく、その模刻であると伝える仏祖統記のBCの部分は不要と考えられたのであろうか。また、天台宗の立場からする仏祖統記と禅宗の立場に立つ元亨釈書との、一つのせめぎあいをここにみるべきであろうか。

 その異同よりも今関心がひかれるのは、両書における、普陀山に観音像を祀るようになった経緯を述べる部分の相違である。仏祖統記では、船が海中の石に乗り上げて進まなくなった時、船の人々が疑い恐れ、観音像に「もし尊像が海東の日本に渡っていかれる機縁がまだ熟していないのでありますなら、どうか此の山にお留まりくださいますよう」と願った、すると船がすぐに動き出した、という。観音自身が日本に行くのではなく普陀山に留まりたいという意志を示したというので、そこでこの観音は「不肯去観音」の異名をもつことになった。ところが元亨釈書では、そこの部分が、船人が船を軽くしようと積載物のいろいろを陸揚げしていくうち、観音像を揚げたところで船が元どおり浮かんだ、そこで慧蕚は観音像をこの地に残してゆくことにした、というはこびになっている。普陀山に留まるのが観音の意志だとはいわれず、「不肯去観音」の名もしるされていない。この点もまた、日本僧、慧蕚の事績を称揚したい元亨釈書の立場からする改変と考えられるだろうか。

 「不肯去」の名ないしその伝承は、中国側資料では仏祖統記以後も連綿と受け継がれている。現代においてもそうで、普陀山にはその故事にゆかりとされる場所に「不肯去観音院」という寺が建ち、どの案内書にも「不肯去」のいわれが説明されている。

 思うに、「不肯去観音」の故事は中国側における伝承というべき面があるのではないだろうか。日本僧にたずさえられた観音が日本に運ばれずに普陀山に留まったことは、中国の人々から見てこそ「不肯去」となり、また強調するに値することがらとなるのだろう。そしてその伝承の形成をささえたのは、普陀山周辺の人々の観音信仰の事実であったと推測される。それは、記事では仏祖統記のBC、仏祖歴代通載のbcの部分の、諸人の観音信仰を語る部分からも読み取れよう。一方、元亨釈書は「不肯去」の伝承を知りつつ、それを捨象したのだろう。

 さて、仏祖統記でも元亨釈書でも、日本僧慧蕚が普陀山に観音を祀ったと伝える点では変わりがない。帰国しようとした日本僧によるというこの伝承は、当時の唐−−日本間の航海において日本人の僧侶や船人が海上守護を願って観音を信奉したという、もう一つの信仰上の事実をも暗示している。はじめにもふれたように、普陀山は、中国の明州(寧波)あたりから日本への帰路の中国側における最東端に位置し、海上の無事を願って観音を祀るには最適の島であった。師蛮の本朝高僧伝(一七○二年成立)巻六十七の「唐国補陀落寺沙門慧蕚伝」(大日本仏教全書六十三)は、ほぼ元亨釈書の記事に倣いつつ、

此地往時、高麗日本新羅諸国旅人泊此、取道以候風信。蓋観音大士、欲霊於此而恵勝福於衆人也。

と、観音がそこに留まろうとした理由を忖度し、説明、挿入している。それによれば、観音は、高麗日本新羅諸国の旅人が停泊し、渡海のために風向きをうかがう此の地に、彼らを守るために留まったというのである。ここでは力点は「不肯去」にはなく、航海者の守護にある。裏返せば、普陀山に観音が祀られたのは、航海の無事を願う人々の意志によるということになろう。この文自体は後世における一つの解釈であるかもしれないが、当初もそうした点に信仰の実態があったのだと推量される。慧蕚の「哀慕」の念の裏には、慧蕚を含む人々の航海の無事への祈念を読み取ってよかろう。

 日本に関するばかりではない。今の記事にもふれられていたが、新羅または高麗との海上交通においても、普陀山は要所とされた。慧蕚の故事において、慧蕚が観音を祀った場所を仏祖統記が「今山側に新羅礁有り」と注しているのは、そのことを示す一証だろう。「新羅礁」は現在も、島の南東端にその名を伝えている。そこは不肯去観音院や後に述べる潮音洞とわずかの距離にあり、そこを巡って進路を北に向けると朝鮮の方角になる。また仏祖歴代通載に、

〔史越王作重修寺記云〕宋元豊三年、王舜封使三韓。至此黒風驟起、巨亀負舟。向山祷告、大士現相舟穏。還朝以聞。朝廷頒金帛、移寺建於梅岑山之陽。賜額宝陀。(下略)

という。宋の元豊三年(一○八○)のこととして、三韓に使いする王舜封の船が普陀山のそばを通った時、黒風驟起し、不思議な巨亀によって船が背負われて遭難しそうになった。そこで普陀山に向かって祈ると、観音現じて船は救われた。後に寺を移建するなどして朝廷もそれに報いた。中国と朝鮮の間の航海でも普陀山の観音の守護が信じられたのだ。

 仏祖統記に、

洞六七里、有大蘭若。是為海東諸国朝覲商賈往来、致敬投誠、莫済〔草菴録〕

とある。

 「洞(潮音洞)を去ること六七里」にある「大蘭若」とは、今引いた仏祖歴代通載にいう梅岑山の北に移建された寺、現在の普済禅寺をいうが、海東諸国が中国に朝覲したり、商人が往来する際、その寺に熱心に祈れば、常にその航海が無事であったというのである。それは宋代のことだが、慧蕚らの時代、すなわち九世紀のころにもすでに同様な信仰は中国の普陀山の周辺や中国と交通する海東諸国の航海者の間に発生していたかと推測される。逆にいえば、慧蕚の故事はそうした海の信仰の存在を知らせてくれるのである。本朝高僧伝にも、先のように慧蕚の故事をしるした後に続けていう。

従此本路往来者、香火黙祷、分東西風、随各人願。此又大士用也。是以緇白拝礼、不幾千百人。唱聖号声応海潮音。而霊応万変、不可思議也。迄今南海人民、相伝以蕚為開山始祖焉。

 その船路を往来する者は、普陀山の観音に祈れば、好風を得ることができる。そこで僧俗の参拝は絶えない。観音の名号を唱えれば、観音は海潮音によって応じてくれる。霊応は数限りなく、不可思議である。今に至るまで、南海の人々は慧蕚をもって開山の始祖と伝えている、と。普陀山開基以来の航海者や普陀山周辺の人々のさかんな信仰のありさまを伝えている。

 以上に挙げた資料は、主に中国と海東諸国との間を往来した航海者(僧侶らも含めて)の間で普陀山の観音が信じられたことを伝えている。次節に挙げる資料のうちのいくつかも、こうした見方をさらに補強するだろう。中国と海東諸国との間の往来という、古代にあっては生死を賭した大航海の際に、特に普陀山の観音の呪力が期待されたといえようか。ただし先にもふれたように、普陀山へのそうした信仰の基盤をなしたのは普陀山周辺に住む人々であっただろうことを忘れるべきではない。

 

 (注記)

(1) 慧蕚の伝記については、橋本進吉「慧蕚和尚年譜」(一九二二年八月著、大日本仏教全書七十二所収)、および鎌田茂雄「慧蕚伝考−−南宗禅の日本初伝−−」(松ケ丘文庫研究年報1、一九八七年二月)に詳しい。