第二章 普陀山考 −−古代の東シナ海域における観音信仰−− 

一、 普陀山
二、 
慧蕚の故事
三、 
海上守護の神、観音
四、 
潮音洞 −−洞窟と観音信仰−−
五、 おわりに

  三、 海上守護の神、観音

 どの国にあっても、古代の海上交通者や漁民に海難が強く恐れられただろうことは容易に想像できる。そして海難を回避するために、古くは海神や在地の神々に海上の安全を祈ることがあっただろう。

 日本古代の記紀・風土記には、海上交通を支配する海神や土着の神の存在が語られている。万葉の旅人たちもまた、常に海神や異郷の神を恐れながら瀬戸内海などを航行していった。国家間の交通でいえば、日本では遣唐使派遣に際しては特に住吉の神が祀られたことが知られる。また、たとえば天平五年(七三三)三月、山上憶良が遣唐大使多治比広成にその渡唐に際して贈った「好去好来の歌」にはこうある。

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 倭の国は すめ神の いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (中略)海原の 辺にも沖にも  神づまり うしはきいます 諸々の大御神たち 船の舳に 導き申し 天地の大御神たち 倭の 大国御霊 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見渡したまひ 事終はり 帰らむ日には また更に 大御神たち 船の舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかをし 値嘉の崎より 大伴の 御津の浜びに ただ泊てに 御  船は泊てむ つつみなく 幸くいまして 早帰りませ (万葉集巻五、八九四)

 当時の唐と往復する航海が、大和(おおやまと)神社の祭神で航海神ともされた「倭の大国御霊」をはじめとして海神や「天地の大御神」たちの守護によってこそ無事にできると観念されていたことが、その真剣な祈りの心情とともに理解される。

 朝鮮では古く龍が海神として広く観念されたことが、三国遺事などからわかる。一例を挙げれば、九世紀末、新羅の真聖女王の時代、遣唐使の船が鵠島(コニソム)付近で大しけに遭って十日も進むことができなかった。西の海の神のせいであった。その神を祀ると航行できた。また、島に留められた弓の名手、居陀知(コタチ)は、海神のために働いた後、海神の家来たる二頭の龍に捧げられて使いの船に追いついた。龍は船を護衛し、無事、唐の国に着かせた(巻二)。

 仏教が浸透してくると、こうした海神や在地の神々とともに、あるいはそれに代わって、仏の加護、中でも海難から助ってくれると信じられた観音の加護が、中国や中国と往来する航海者に期待されるようになったと考えられる。その弘通が僧侶を中心にしただろうことも想像しやすい。

 唐大和上東征伝の例などが、古代の例としてそのことを示唆する。天宝七載(七四八)六月に揚州を発した鑑真一行の船は、十月、風待ちをしていた越州を再出発するが、まもなく風波に翻弄された、その時のようす。

人皆荒酔、但唱観音。舟人告曰、舟今欲没。有何所一レ惜。即牽桟香籠、欲空中。有声  言、莫抛莫抛。即止。中夜時、舟人言、莫怖。有四神王甲把杖。二在舟頭、二有檣舳辺。衆人聞之、心裏稍安(注2)。

 船が没しようとした時、一行は口々に観音の御名を唱えた。するとどこからともなく聞こえてきた「抛ぐなかれ抛ぐなかれ」という声も、船上に出現して船を守った四神王も、彼らの救済の求めに応じた観音のしわざにほかならない。八世紀のころの揚州あたりの僧侶たちは、こうして海難救助を観音に願い、その霊力を信じていたのである。

 そもそも観音が海難救助をしてくれるという信仰は、法華経第二十五の観世音菩薩普門品にもとづく。そこではまず、あらゆる衆生が諸々の苦悩を受けた時、観世音菩薩の名号を唱えれば、観世音菩薩はただちにその声を聞いて救済してくれると説き、その諸々の場合を列挙していく。その中に、次のように水難や海難の場合をいう。

若為大水漂、称其名号、即得浅処。若有百千万億衆生、為金銀瑠璃珊瑚琥珀真珠等宝、入於大海、仮使黒風、吹其船舫、飄堕羅刹鬼国、其中若有乃至一人、称観世音菩薩名者、是諸人等、皆得脱羅刹之難

 その偈にも、

或漂流巨海、龍魚諸鬼難、念彼観音力、波浪不没(注3)。

とある。

 こうした海上守護の神としての観音への信仰が中国で早くから起こっていたことの一端は、六朝時代の観世音応験記の類によって知ることができる。たとえば、宋代、張演撰の続光世音応験記(五世紀前半成立)にこうある。

海塩有一人年四十。以海採業。後入海遭敗、同舟尽死、唯此人不死。独与波洗浮、遂遇得一石。因住身其上。而以石独。或出或没、判是無後生理。此人乃本不仏。而甞聞観世音。於是心念口叫至無極、因亟得眠。如夢非夢。見両人乗一小船、喚其来人、即驚起開眼。遂見真有此事、跳趨就之入、便至岸。向者船人不失去。此人遂出家、殊精進作沙門也(注4)。

 誤字もいくらか混じっているようで意味の通じにくい個所もあるが、ある男が海で遭難しようとしたとき、心に観音を念じ口に名号を叫ぶと、二人乗りの小船がやってきて救われ、海岸に無事にたどりつけたという内容の話である。このほか、観世音応験記の類には、川や湖で水難から免れる話は多く、また唐代の法苑珠林(巻十七)や宋代の太平広記(巻一百十、一百十一)などにもその類の話は多く収録されている。

 さらに、高僧法顕伝(仏国記。大正蔵五十一)によれば、西域やインドへの十余年にわたる求法の旅を終えてセイロン島から海路帰国しようとした法顕は、青州(山東半島)に到着するまでの長い航海の間に二度大風や暴風雨に遭った。そしていずれの時も「唯だ一心に観世音を念じ」、また故国の僧たちの加護を祈り、それらの力によって難を免れたという。その帰国は東晋、義熙九年(四一三)のことである。その経験談の伝承も、海の観音信仰の流布にあずかって力があったにちがいない。

 以上の例などから、中国において早くから長い時代にわたって水域での観音の救済が信じられていたことが知られよう。

 朝鮮では、たとえば三国遺事巻三に次の話がある。

禺金里貧女宝開、有子名長春。従海賈而征、久無音耗。其母就敏蔵寺、観音前克祈七日。而長春忽至。問其由緒、曰、海中風飄舶壊、同侶皆不免。予乗隻板泊呉涯。呉人収之、俾于野。有異僧郷里来。吊慰勤勤、率我同行。前有深渠。僧掖我跳之。昏昏間如郷音与哭泣之声。見之乃已届此矣。日哺時離呉、至此纔戌初。即天宝四年乙酉四月八日也(注5)。(下略)

 海難のため、遠く呉の国まで流された長春は、故郷にいる母の観音への熱心な祈りによって、わずかな間に故郷に帰ることができた。観音が僧と化して、深い渠、実は大海を渡り、連れ帰ってくれたのである。海難に遭った時、長春がただ一人助かったというのも観音の加護によると読めよう。文中の天宝四年は西暦七四五年にあたる。

 日本の例も挙げると、平安初期に成立した日本霊異記(上巻十七縁)に次の話がある。

伊予国越智郡大領之先祖越智直、当為百済、遣到軍之時、唐兵所擒、至其唐国。我国八人、同住一洲。儻得観音菩薩像、信敬尊重。八人同心、竊截松木、以為一舟。奉其像、安置舟上、各立誓願、念彼観音。爰随西風、直来筑紫。(下略。新日本古典文学大系本による)

 七世紀後半のころ、百済救援に向かった伊予の国の越智直は、捕えられ唐の国に連行された。日本人八人で、ある島に抑留された。彼らは観音像を得て祈り、やがて小さな舟を造ってその像を舟に安置して祈りつつ船出したところ、おかげを蒙って首尾よく筑紫に到着できた、という話である。後にこの観音は越智直によって伊予の寺に祀られ、越智氏は子孫相続いて帰敬したとある。ここでも中国から日本への航海の際、観音は彼らを守っている。

 また、円仁の入唐求法巡礼行記に書き留められた、奈良時代の日本の遣唐使が中国海辺の寺に補陀落浄土変を書き残したという例も逸することはできない。開成五年(八四○)三月、円仁は山東半島の登州の開元寺に逗留し、寺内の僧伽和尚堂内部の北壁に西方浄土変と補陀落浄土変が描かれているのを見た。それらは「日本国使の願」によって描かれたもので、縁起の文はもう判読できなかったが、仏像の左右には「録事正六位上建必感(建部朝臣人上)」「録事正六位上羽豊翔(羽栗翔)」など数人の願主の名がわずかに読み取ることができた。この遣唐使は天平宝字三年(七五九)出発の高元度一行と考えられる。そして彼らが当時の遣唐使の航路の発着点の一つであった登州の寺に補陀落浄土を描いた目的には、渡海の安全の祈願ということが含まれていただろうし(注6)、その大掛かりな浄土変の製作ということからはその祈りの切実さも十分にうかがわれる。山東半島は普陀山からは北へかなり離れるけれども、先の鑑真と同時代に、日本の遣唐使の間にも海上を守護する観音への熱烈な信仰が存在したことをものがたる好例ではある。

 こうして、海上守護の観音への信仰は、東シナ海・黄海周辺の中国および朝鮮・日本でかなり古くから存在し、中国と海東諸国との往還においても観音が祈られたことが知られる。そうした状況の中でこそ、普陀山の観音信仰も成立したと考えられる。

 ただし、もとより、古代の東シナ海・黄海周辺の航海者の信仰が観音信仰一色だったなどとはいえない。それは、エビス・弁天・金毘羅・住吉・船霊・竜宮神・海神・氏神などに海上守護を祈願している現代日本の漁民や航海者の信仰の多様さをふりかえってもわかることである。古代においても、海上守護の神は多様であったにちがいない。ただ、観音信仰が中国においてさかんになり、それが海東諸国にも広まった時期、そのあらゆる苦悩から救済してくれるという現世利益の菩薩、観音の流布の勢いは海上にも進出したこと、また海上交通がそのまま伝播の道ともなって、海上守護の神としての観音信仰が地域や国を越え、東シナ海や黄海の周辺に広く及んだことは、以上の資料からでも推測できよう。

 後世、普陀山よりは南方、福建省のあたりで海上守護の女神として媽祖の信仰が発生し、さかんになる。発生は十世紀のころという(注7)。道教的な媽祖の信仰は、その発生の地域や時期からみて、仏教の観音信仰と重なる部分とそうでない部分があるだろう。同じ海上守護の神として、親和と対立もあったことだろう。その両者の関係は、中国およびその周辺の海上交通者や漁民の信仰史の一問題として興味深いが、ここでは、現代にもさかんな媽祖信仰の発生以前に、海上守護の神として観音が広く信仰されていたことをたしかめるにとどめたい。

 ところで、観音は中国に伝わり民衆に広まると、早い時期から女性化したとされる(注8)。媽祖も女性神である。韓国の現代の民俗において、西海(黄海)の神は男性神だが、東海(日本海)の神は女性神で、「東海岸の江原道北部から釜山にかけての漁村では、ほとんど女性の海神が祀られている。海神、海娘神、女娘神などと呼ばれ、若い女神、とくに未婚の女性神が祀られていることが多い。供物には、男根の形をした彫刻をいくつも縄に結びつけて神堂に捧げ、漁夫が神堂のそばで小便をすることによって、男根をわざと見せたりする素朴な原始信仰形態を残すところもある。こうすれば大漁になり、海難をまぬがれると伝承されている」(注9)という。日本でも玄界灘の宗像三神や弁天は女神である。また、船霊様に女性の毛髪を入れたり、地方によっては船霊様は女神であると伝えたりなど、女性を守り神とする民俗がある。航海に出た兄弟をその姉妹の霊力が守護するという沖縄のおなり神信仰をも含めて、東シナ海域やその周辺の海域での航海の守り神は女性神が多い。それは航海の主体が男であるということ、それらの地域で女性の霊力が信じられ期待されてきたことなどが基本的条件になったからであろうが、相互の交流や伝播も考慮されてよい。

 東シナ海域に黄海域や日本海域も加えて、いわば海の女神の信仰圏というものが想定できるのではなかろうか(注10)。そして、歴史資料や民俗からすると、そうした海の女神への信仰は歴史的に相当の深度をもっているようだ。そのような海の女神の信仰圏へ、古代のある時期、観音も海上守護、海難救助の旗印をかかげて進出したのである。

 

 (注記)

(2) 蔵中進『唐大和上東征伝の研究』(一九七六年)所載の「校本『唐大和上東征伝』」の本文による。

(3) 坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(下)』(岩波文庫)による。

(4) 牧田諦亮『六朝古逸観世音応験記の研究』(一九七○年)所載の本文による。

(5) 一然著・金思訳『完訳三国遺事』(一九九七年)所載の本文による。以下同じ。

(6) 小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』四一頁(一九六四年)

(7) 李献章『媽祖信仰の研究』(一九七九年)

(8) 加藤咄堂『観音信仰史』第三篇第四章(一九四○年)など。

(9) 任東権「玄界灘に残る韓国文化」(『海と列島文化 第3巻 玄界灘の島々』所収、一九九○年)

(10) 川村湊「舟山群島の海民信仰」(『中国東海の文化と日本』日中文化研究別冊1、一九九三年)にも類似の仮説の提起がみられる。