第二章 普陀山考 −−古代の東シナ海域における観音信仰−− 

一、 普陀山
二、 
慧蕚の故事
三、 
海上守護の神、観音
四、 
潮音洞 −−洞窟と観音信仰−−
五、 
おわりに

 五、 おわりに

 慧蕚の故事の分析からはじめて、普陀山の信仰、海の観音信仰についての考察をしるしてきた。古代の東シナ海域で海上交通者や漁民の間にどのような信仰があったのかは、資料上の制約もあってなかなか見えにくい問題である。しかしやや南方で媽祖の信仰が広まる以前には、海上守護の女神としての観音の信仰が、国家間の交通の場合を代表例として、広汎に存在したのではないか。普陀山の観音信仰の初発をしるす慧蕚のエピソードは、たんに日中間の仏教交流史の一齣を語っているばかりではなく、そうした古代の東シナ海域における観音信仰の広まりという宗教民俗学的な問題を考察するための重要な資料を提供してもいるのである。

 吾妻鏡によると、天福元年(一二三三)三月七日のこと、熊野那智の浦から一人の修行僧が屋形船に乗り、補陀落山に渡っていったという。男の名は智定房、もと鎌倉幕府の御家人で弓の名手であった下河辺六郎行秀の僧形であった。智定房が屋形に入った後は外から釘で皆打ち付け、一扉とてなく、けれども三十日分ほどの食物と燈の油などはわずかに備えていたという。

 智定房が目指した補陀落山とは、中国の普陀山のことらしい。すると、仏祖統記が書き留めた十三世紀ころの普陀山の隆盛は、日本でもよく知られていたのではないか。那智経塚からは白鳳期や奈良時代の観音像が多く出土し、那智では早くもそのころ補陀落浄土の信仰が浸透しつつあったという(注14)。熊野年代記には早く貞観十年(八六八)の慶竜上人や、延喜十九年(九一九)の祐真上人と十三人の奥州人との補陀落渡りを録している。また、渡海の基地となった補陀落山寺には、墓所に「入唐沙門慧蕚大法主」としるす板塔婆があり、寺宝に「支那普陀洛迦山観音御台」なるものもあるという(注15)。ここでは踏み込めなかったが、智定房のはるか以前から、中国普陀山の信仰は熊野那智の信仰とも交渉していただろう。

 

  図5 弘円上人補陀落渡海碑(熊本県玉名市)
 線彫の来迎阿弥陀三尊像を線彫した供養塔で、
 (右端)永禄十一戊辰(1568)年十一月十八日
 (中程)補陀落渡海下野國弘圓上人
 とある。

  図6 夢賢上人渡海碑(熊本県玉名市)
 梵字の下に、「補陀落山渡海行者下野之住夢賢上人」、
 「本願尾州之住月照上人」
 「時天正四(1576)年丙子八月彼岸日 敬白」
 とある。

 (注記)

(1) 慧蕚の伝記については、橋本進吉「慧蕚和尚年譜」(一九二二年八月著、大日本仏教全書七十二所収)、および鎌田茂雄「慧蕚伝考−−南宗禅の日本初伝−−」(松ケ丘文庫研究年報1、一九八七年二月)に詳しい。

(2) 蔵中進『唐大和上東征伝の研究』(一九七六年)所載の「校本『唐大和上東征伝』」の本文による。

(3) 坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(下)』(岩波文庫)による。

(4) 牧田諦亮『六朝古逸観世音応験記の研究』(一九七○年)所載の本文による。

(5) 一然著・金思訳『完訳三国遺事』(一九九七年)所載の本文による。以下同じ。

(6) 小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』四一頁(一九六四年)

(7) 李献章『媽祖信仰の研究』(一九七九年)

(8) 加藤咄堂『観音信仰史』第三篇第四章(一九四○年)など。

(9) 任東権「玄界灘に残る韓国文化」(『海と列島文化 第3巻 玄界灘の島々』所収、一九九○年)

(10) 川村湊「舟山群島の海民信仰」(『中国東海の文化と日本』日中文化研究別冊1、一九九三年)にも類似の仮説の提起がみられる。

(11) 近年の研究に、辰巳和弘『「黄泉の国」の考古学』第二章(一九九六年)がある。洞窟を葬所としたり、祭りの時に神の出現する場所としたりする沖縄の洞窟信仰も参考となる。

(12) 西郷信綱『古代人と夢』第三章(一九七二年)

(13)拙稿「空也誄の湯島と梁塵秘抄の補陀落」(「甲南国文」四二号、一九九五年三月)

(14) 村山 修一「熊野信仰と海洋信仰」(『海と列島文化 第8巻 伊勢と熊野の海』所収、一九九二年)

(15) 尾畑喜一郎「補陀落渡海」(「国学院雑誌」六五巻一○・一一号、一九六四年十一月)

付記:本稿は「甲南女子大学研究紀要」第37号(2001年3月刊)に発表したものの再掲である。一部改めたところがある。