第三章 空也誄の「湯島」と梁塵秘抄の「補陀落」 

一、 空也上人の「湯島」参詣
二、 
「湯島」は伊島である
三、 
補陀落だった「湯島」
四、 
梁塵秘抄の「補陀落」と伊島

 二、 「湯島」は伊島である

 その「阿波土佐両州の海中」にある「湯島(ゆしま)」について、従来、阿波志およびそれを引く大日本地名辞書を除いて、それをどこと特定するものをみない。ほぼ所在未詳あつかいである(注5)。しかし、その「湯島」とは、阿波志や大日本地名辞書説のとおり、紀伊水道にある伊島(いしま)(徳島県阿南市伊島町。略図1参照)であること、ほぼ断定できる。その理由は、いくつかある。

(一)、伊島は阿波の東海上にあって地理上の位置が適当で、しかも空也誄の「地勢霊奇、天然幽邃」の形容にふさわしい自然をもつこと。

 阿波の東海上にあるという点は、空也誄の「阿波土佐両州の海中」、日本往生極楽記の「阿波土佐両州の間」とはやや位置を異にするようだが、元亨釈書以降では「阿州の海中」とされることに留意したい。空也誄や日本往生極楽記では不正確であった「湯島」の位置の記述が、後世訂されたとみられる。また伊島は、面積約三平方キロ(人口は現在約三百)の小島であるが、平地は乏しく崖や岩場に富んで、近代に入っても修験者の行場ともなっていた。

(二)、伊島は、古名を湯島といったこと。

 古い文献で確認できるわけではないが、阿波志巻十一(一八一六成立)に、

 伊島或は湯島と称す。南海中に在り。椿泊を距る三里、其間乱礁あり、雁歯の如し。舟行甚だ懼畏す。其頂は卒都婆崖と称す。大悲閣あり。其像旧樟木の穴中に在り。宝暦中森氏閣を作り、之を安ず。三十三躯なる者、土人置く所。昔、釈光勝来遊す。国初獲する所の韓人を放つ。其裔今分れて四十八戸となる。血柏多し。(佐野之憲編・笠井藍水訳「阿波誌」による)

とある。現在伊島でも、古名を湯島と伝えている。また、伊島では、昔湯が涌きだしていたことを伝え、その場所の名としてユトリマ(湯を汲んだ所の意か)およびユブキ(湯吹き)の地名が残っている。

(三)、伊島には空也の来島伝承があり、また空也が刻んだと伝える十一面観音を寺の本尊として、それを中心とする観音信仰が盛んであること。

 伊島は三島よりなるが、唯一集落のある本島の、北端部の卒都婆が嶽と呼ばれる山の頂きに松林寺奥の院(野辺(のうべ)の観音堂ともいう)があって、観音を祀っている。先の阿波志にも、「其頂は卒都婆崖と称す。大悲閣あり。其像旧樟木の穴中に在り。宝暦中森氏閣を作り、之を安ず」とされた観音堂である。空也の開基と伝えている。その堂宇の背後の崖の上には空也の「行場跡」とされる岩場がある。また、本島の西部には「僧渡(そうど)が浜」があって、空也上陸の地という。さらに、本島南西部の集落のそばにある松林寺の本尊が、空也の手になるという十一面観音像で、秘仏としてふだんは厨子に納められ、毎年新暦八月十七日にのみ御開帳の仏事がある。昔は、この観音像は卒都婆が嶽の奥の院に祀ってあったが、ある時他所者の盗難に遭いかけて以来、松林寺本坊の方へ移し、奥の院の方へは新しい観音像を祀ったのだという(以上、略図2参照)。


図4 伊島松林寺の十一面観音像

 文献では、阿波志に「昔、釈光勝来遊す」とある。光勝は空也のこと。また松林寺に、明治二十一年に神原万薫なる人が、当時の住職とおぼしき徳信上人という人の需めに応じて作ったと奥書きのある巻子一巻が伝わっている。この文書は、毎年八月十七日の観音の祭礼日に参集の島民の前で住職が読み聴かせる習いで、従って現在の伊島における空也来島伝承はこの文書をもととしている部分が大きいと考えられ、実際島民の語る空也伝承の内容は、この文書の内容と変わらない。次に、その全文を書き写す(適当に改行し、句読点を補う)。

 抑、壇上ニ安置シ奉ル所ノ本尊十一面観世音菩薩ノ由来ヲ尋ネ奉ルニ、人皇五十四代仁明天皇ノ高孫常康親王ノ御子、延喜二十二年、尾州国分寺ニ於テ剃髪シ玉ヒ、年ヲ経テ天台山ニ登リ玉ヒ、時ノ坐主延昌上人ニ随従アツテ大僧トナリ玉ヒ、御名ヲ光勝ト呼ヒ奉ル。其後自ラ空也ト改メラレ、又朝廷ヨリ上人号ヲ賜ル。

 常ニ法華経ヲ読誦シ玉ヒ、弥陀観音ニ仏ヲ尊崇シ玉ヒ、平常念仏ノ功徳広大無辺ニシテ其利益ヲ説テ諸人ヲ教化シ(ママ)、時ニ天暦五年ニ当リテ、京洛中悪病流行シ、人民死亡スルコト無数ナリケレバ、上人是レヲ憐ミ、十一面観世音ノ尊像ヲ刻マセラレ、此病患ヲ救ハセ玉ヘト一七日ノ間御祈念アリシニ、忽チニ洛中ノ諸人苦悩ヲ免レケル。

 同六年ノ春、上人播州揖保郡峰合寺ニマシマシテ一切経ヲ読玉フ。アル夜ノ夢ニ金人来リテ上人ニ告テ宣ク、阿波ノ国那賀郡蒼海ノ中ニ一ツノ島アリ、名ヲ伊島ト云フ。汝早ク彼処ニ至ラバ、正ニ是レ莫大ノ利益ヲ蒙ルベシ、トノ告ニヨリ、上人此島ニ来リ玉ヒ、夫ヨリ七日ノ間動セス不眠ノ行法ヲ修セラレケル。七日満スルノ暁、五色ノ雲東方ヨリタナヒキ、金色ノ光ヲ放テ恰モ日月ノ如ク、異香芬々タリ。不思議ナル哉、空中ニ十一面観世音菩薩、无量ノ諸菩薩ニ左右ヲ囲繞セラレテ忽然ト出現シ玉フテ、上人ニ告テ宣ク、善哉善哉、汝末世ノ衆生ヲ済度セント思フ。方ニ今ナリ、我真像ヲ永ク此霊地ニ留メヨ、ト告ケ玉フ。此時上人即坐ヨリ起テ合掌シ玉ヒ、夫ヨリ赤栴檀ノ香木ヲ持テ一刀三礼ノ尊容ヲ彫刻シ玉フナリ。又香木ノ余ヲ以テ十方ノ諸仏ノ尊体、卒都婆一基ヲ建立アリケルカ、是レヨリシテ今ニ卒都婆嶽ノ名ヲ伝ヘケル。末世ノ衆生ヲシテ現当ニ世安楽ノ善因縁ヲ結ハシメンカ為ニ、此所ニ坊舎一字ヲ建立アラセラレ、霊験アラタカナル尊像ナレバ、各謹テ拝礼スベシ云々。

 明治二十一年歳次戊子五月七日応徳信上人需 神原万薫沐拝書

 文章のとくに前半は元亨釈書や本朝高僧伝の影響が認められるが、後半は空也来島のことを迫真的に記し、また観音像や寺の縁起を記して、島での伝承がもとになっていると思われる。


図5 伊島松林寺本尊縁起

(四)、地理上適当で、しかも空也来島伝承や観音信仰をもつ島が他にないこと。

 「阿波土佐両州の海中」付近には、出羽島や大島という小島、また竹ヶ島・二子島・葛島などのさらに小さな島々が存在するが、いずれも空也来島伝承もなく、観音信仰が盛んというわけでもない。このような理由で、空也誄の「湯島」は現在の伊島であるとほぼ断定できる。

 
図7 伊島(第五管区海上保安本部ホームページより)

 

(注記)

(5) 日本思想大系『往生伝 法華験記』所収の「日本往生極楽記」の頭註に「未詳」とあり、奈良弘元「空也の事績について」(鶴岡静夫編『古代寺院と仏教』所収、一九八九年)も「未詳」とする。また、堀一郎『空也』(一九六三年)や注1の「「空也誄」校勘並びに訳注」には「湯島」の比定についてとくにはふれない。

 付記

 挿入の略図は、岡田一郎『伊島風土記』(徳島県出版文化協会発行、全九四頁、一九七六年)所載の図をもとにして作成した。本書は唯一の伊島の地誌である。