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第三章 空也誄の「湯島」と梁塵秘抄の「補陀落」
一、 空也上人の「湯島」参詣
二、 「湯島」は伊島である
三、 補陀落だった「湯島」
四、 梁塵秘抄の「補陀落」と伊島
三、 補陀落だった「湯島」
空也誄に、「湯島」は人も知る、霊験あらたかなる観世音菩薩像を祀る島として描かれている。また空也は苦行の末、そこでその尊像が何ともいえぬ霊妙な光を放ったのを見、観音に値うことができた。元亨釈書では「観自在感応の地」、東国高僧伝・本朝高僧伝では「観音頭蹟の地」という。「感応」も「顕蹟」もここでは観音が衆生の願いに応じて出現することを意味しよう。こうした観音が出現する霊地とは、一面、観音の浄土、補陀落と同一視せられることがあったのではないか。
補陀落は、華厳経入法界品などに観世音菩薩の住する、南インドの山の名とされる。旧訳華厳経(巻五十一)では「光明山」という名の山とみえるが、法蔵の華厳経探玄記(巻十九)には「光明山」の本の名が「逋多羅山」であったとする。新訳華厳経(巻六十八)には「補怛洛迦山」、玄奘の大唐西域記の巻十秣羅矩
国の条にも「布
洛迦山」とみえる。観音浄土としての補陀落の観念は、これらの書物などによってすでに奈良時代には伝えられ、その浄土変もすでに伝わっていた。そして、平安初期以降、浄土信仰の発展とともに、観音浄土たる補陀落にも強い関心が寄せられるようになる。
空也誄にも、補陀落についての記事が二カ所みえる。
天慶七年夏、唱善知識、図絵一幀観音卅三身、阿弥陀浄土変鋪、補陀落山浄土一鋪、荘厳成供養畢。(天慶七年の夏、善知識を唱(いざな)ひ、一幀の観音卅三身、阿弥陀浄土変一鋪、補陀落山浄土一鋪を図絵し、荘厳成り供養畢りぬ)
上人答曰、尺迦在霊鷲山、観音住補陀落。仏之機縁、地之相応、自昔而在。
(上人答へて曰く、尺迦は霊鷲山にあり、観音は補陀落に住す。仏の機縁、地の相応、昔より在り)
もって空也が、生前観音の補陀落に強い関心を寄せていたことが知られる。さらに、空也開基の寺、京都東山の六波羅密寺は十一面観音を本尊とし(元亨釈書空也伝以下)、山号を補陀落山という。空也の事跡をたどるとき、熱烈な念仏による民衆への布教とともに観音への帰依またその浄土への渇仰が彼の信仰生活を貫いていることが知られるのである。空也の時代、やや後の今昔物語集などによっても知られる通り、観音信仰は民衆の世界でもまた盛んなのであった(注6)。
こうしてみてくると、空也およびその時代の人々が、南海の孤島の観音霊験の地、「湯島」を補陀落そのものとみなすことがあったのではないかと考えられてくる。そこが観音の住所、一つの補陀落とみなされていたからこそ、空也はそこに出かけ、観音に値うことができたわけではないか。空也作と伝える伊島の観音も十一面の像で、それを安置する松林寺の山号をやはり補陀落山という。
そこで気になるのが、次の梁塵秘抄の一首である。
(注記)
(6) 歌川学「空也と平安仏教」(「日本歴史」六一、一九五三年)
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