第三章 空也誄の「湯島」と梁塵秘抄の「補陀落」 

一、 空也上人の「湯島」参詣
二、 
「湯島」は伊島である
三、 
補陀落だった「湯島」
四、 
梁塵秘抄の「補陀落」と伊島

 四、 梁塵秘抄の「補陀落」と伊島

 梁塵秘抄巻二、四句神歌のうちの一首、

淡路はあな尊 北には播磨の書写をまもらへて

西には文殊師利 南は南海補陀落の山に対ひたり

東は難波の天王寺に 舎利まだおはします(三一五)

 淡路島を、四方に霊地の存することによって尊いと讃えている。その四方のうち、北の「播磨の書写」と東の「難波の天王寺(四天王寺)」についてはその所在ははっきりしている。ところが、西の「文殊師利」と南の「南海補陀落の山」がそれぞれどこをさすのかについては諸説あって定まらない。 まず、「西には文殊師利」のさす所については、讃岐の獅峰(『梁塵秘抄評釈』)、土佐の五台山竹林寺(『梁塵秘抄評釈』、新日本古典文学大系本)、豊後の文殊山寺(日本古典文学大系本)、中国山西省の五台山(新潮日本古典集成本)などの各説があるが、不明とするもの(『折口信夫全集ノート編第十八巻』、日本古典文学全集本)もある。これらのうち、荒井源司『梁塵秘抄評釈』の讃岐の獅峰説は、中山城山の全讃史(文政十一年序)に次の如くあるのを根拠とする。

夫屏風浦之為地也、右有象山。大麻山也左有獅峰。天霧山也後有五岳。一日香敷山日筆山三日我拝師山四日仲山五日火上山五岳則五智如来也。獅子則文殊。而象則普賢也。従剖判已有此因。是以弘法大師降誕。而為密教弘通之祖矣。(巻八「仏廟志下」、「善通寺」の項。『標註訓点全讃史』による)

 弘法大師降誕の地とされる善通寺寺域の左右や背後に位置する山々を如来・菩薩の顕現とみなし、その一翼をになう獅峰(天霧山、標高三百六十メートル。あるいはここは、その天霧山に連なる弥谷(いやだに)山、標高二百八十二メートルをも含んだ称か)を文殊菩薩とする。この伝承からいっても方位からいっても、たしかに「西の文殊師利」に比定するのにふさわしいと思われる。

 次に「南は南海神陀落の山」のさす所については、「紀伊国東牟婁郡の補陀落山」(日本古典全書本)、観音菩薩垂迹の地としての紀伊の熊野三山(『梁塵秘抄評釈』、日本古典文学全集本)、那智山(新日本古典文学大系本)、「南海に向っている紀伊の熊野、殊にその那智の観音の祀ってあるところ」(『折口信大全集ノート編第十八巻』)、同じく紀伊の粉河寺(補陀落山施音寺、日本古典文学大系本)とするものがあり、また南インドの補陀落山そのものをさすとする説(新潮日本古典集成本)もある。

 こうして諸説が行われているのだが、淡路島の四方の霊地を述べたこの歌の、他の三方の霊地については、いずれもその方位が正確であること、しかも淡路島から数十キロ離れた、視界に入るほどの距離の場所が詠まれている点にまず留意しておきたい(略図1参照)。それは、地図の上ではかるのではなく、淡路島に身を置いてみた場合の人間大の感覚として自然な詠みぶりというべきであろう。南方の霊地の比定についてもこの点を考慮すべきであり、すると、「南は南海補陀落の山」を南インドの補陀落山に求める説は勿論、紀伊の熊野に求めるのも問題がある。たしかに熊野は、梁塵秘抄の当時、いうまでもなく霊地として著名で、梁塵秘抄自体にも、

 聖の住所はどこどこぞ

 大峰葛城石の槌

 箕面よ勝尾よ播磨の書写の山

 南は熊野の那智新宮(二九八)

などをはじめとして四首に歌われている。この歌には書写の山も詠まれ、「南は熊野の那智新宮」ともあって、先の歌の解釈にも参考となるが、しかし「南」というのは都から見たそれであって、先の歌の場合とは異なる。淡路島から見た「南」の、しかも視界に入る程度の「南海」にある「補陀落の山」とは、先の伊島を措いてほかにはあるまいと思う。方位も距離も適切で、しかも空也誄・日本往生極楽記・扶桑略記などによって伊島が観音の霊地であることはこの当時も知られていただろうからである。

 なお、仁徳記の、天皇が「淡道島に坐して、遙ろに望(みさ)けまして」歌ったという歌謡、

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 おのごろ島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ

中の「檳榔の島」「放つ島」について、大日本地名辞書には「此(伊島)に外ならじ」という。しかし、なお未詳とすべきであろう。

 思うに、伊島は古く湯の涌く島として信仰の対象となった土地であったかもしれない。後に、観音信仰の隆盛とともに、阿波と紀伊の間にある南海の孤島という地理上の条件も作用して、その古い信仰の上に観音信仰が重なり、観音の霊地として像を祀り、修行時代の空也が訪ずれもし、またある時代には一つの補陀落ともみなされたのではなかったか。例によって伊島も近年は過疎化また近代化が進みつつあり、人々の信仰生活の上でもかつての活気は失われたようだが、しかし現在もなお島の信仰の中核をなしている観音への、また空也への信仰の根は意外に深いと思われるのである。

 

(注記)

(1) 参考、三間重敏「「空也誄」の校訂及び訓読と校訂に関する私見」(「南都仏教」四二、一九七九年)。浅野日出男・狩野充徳・福井佳夫・山崎誠「「空也誄」校勘並びに訳注」(「山陽女子短大研究紀要」一四、一九八八年)

(2) 平林盛得『聖と説話の史的研究』一四八頁(一九八一年)

(3) 岡田希雄「源為憲伝攷」(「国語と国文学」一九−一、一九四二年)

(4) 注2の書、一一五頁、一五四頁。

(5) 日本思想大系『往生伝 法華験記』所収の「日本往生極楽記」の頭註に「未詳」とあり、奈良弘元「空也の事績について」(鶴岡静夫編『古代寺院と仏教』所収、一九八九年)も「未詳」とする。また、堀一郎『空也』(一九六三年)や注1の「「空也誄」校勘並びに訳注」には「湯島」の比定についてとくにはふれない。

(6) 歌川学「空也と平安仏教」(「日本歴史」六一、一九五三年)

 

(付記)

(1) 挿入の略図は、岡田一郎『伊島風土記』(徳島県出版文化協会発行、全94頁、1976年刊)所載の図をもとにして作成した。本書は唯一の伊島の地誌である。

(2) 本稿は、「甲南国文」42号(1995年3月刊)に掲載したものの再掲である。一部内容を改めたところがある。