序 まえがき

 これから補陀洛について論じようと思いますが、編集の方からの指示により、まずわたしが観音信仰や補陀洛に興味をもった動機を少し書きつけます。

 わたしは伊島(いしま)という、紀伊水道にうかぶ小さな島に生まれ、育ちました。周囲10kmほど、人口は今は激減して200人足らずの島です。
 島は自然が豊か、というよりも自然そのものです。大きな自然に抱かれて、人間のささやかな暮らしがあります。そこには古い文化も溜まっていますし、自然に頼って生きる、人間の暮らしの原型といったものも息づいています。島では人間も自然の一部です。
 そして島はそれ自体で完結した小世界、小宇宙です。小さいながらにそこにはすべてがあるのです。
 そんなことを考えるとき、わたしはいつも栂尾の明恵上人のエピソードを思いうかべます。

 明恵上人は、若いころ修行をした故郷田辺の近くのある小島を終生愛しました。上人はある時思い余って、その紀州の島に宛てて手紙をしたためました。「島殿へ」と宛名して使いの者に届けさせました。ところがその島は無人島なので、使いの者は困って、どうしたらよいかと上人に尋ねました。上人いわく、「いやなに、島に着いたら『栂尾の明恵からの手紙です!』と大声で呼ばわって、どこにでも置いてくればよいのだ」と。
 その手紙で明恵は「島殿」に対し、「人間の誰よりもあなたこそが私の最高の友だ」とうったえ、そして「あなたはすべてを具足する完全な存在だ、仏そのものだ」と島を讃えています――。(以上、明恵上人伝記)。

 これほど島というものに深く観入し、その存在を愛した人を、わたしはほかに知りません。わたしの島に対する思いもまた、似たところがあります。島は決して辺境ではなく(「辺境」、「中心」、誰がどのように決めるのでしょうか?)世界の中心の一つであり(あらゆる住民にとっては、まちがいなくその住所が世界の中心です)、そして「島にはすべてがある」と思えるのです。

 わたしの島では零細なアワビ・イセエビ漁、共同井戸での水汲みや洗濯、灯台、郵便船(日に2回の定期船)、神輿が海に踊り入る祭り、六月のササユリ採り、台風襲来、冬の寒風――大きな自然と四季のめぐりにつつまれて、つつましい日々の暮らしがあり、時々は諍いや結婚式や死や事故が混じりました。

 そして、観音信仰の島でした。島の北端の崖の上に、「のうべの観音さん」と呼ばれる観音堂があり、人々は何か願い事があると片道1時間の山道を足しげく通いました。縁日にはそこに出店も出てにぎわいました。おばあさんたちが「観音講」の組織をつくり、お堂をまもっていました。平安時代の空也上人の来島伝承があります。山がちで崖や岩場も多く、かつては修験者も訪れたそうです。

 島からは四国本土は近く見えましたが、東側の紀州の方角は茫洋としていました。水平線近くを、近代的な大型船が通っていきました。
 茫洋たる海のかなたを、子供はあこがれました。「海のかなたには、きっとすばらしい世界があるはずだ」、どこかそんな感覚にひたされていました。子供ばかりではなく、島の人間は誰でも、閉塞的な島の暮らしに飽きたりすると、海のかなたをあこがれ思うのでした。

 今からは、そうした感覚には古い由来があって、「常世信仰」に根ざしていたのだと思えます。この「常世信仰」――「海のかなたに理想世界があって、幸福はそこからもたらされる」とする信仰は、日本人の心性の古層に根づいています。古層にしまわれているばかりでなく、時々歴史の現象面に噴出もします。実際、日本人は古代には中国を、近代には欧米を、現実の「常世」としてあこがれてきたのでした。今も。

 子供のころの観音信仰の島での暮らしと海のかなたへのあこがれと、これがわたしが観音信仰や補陀洛に興味をもつようになった、遠いけれども深い動機だと思っています。

 

 さて本題に入りましょう。

 補陀洛は観世音菩薩います浄土とされます。新旧華厳経や玄奘の大唐西域記によれば、インド南端にある山で、観世音菩薩いまして説法しているとされています。そして仏教の伝播にしたがい、東アジアで観音信仰がさかんになるにつれ、あちこちに補陀洛が出現するようになりました。チベットでは観音の化身とされるダライ・ラマの住むポタラ宮、中国では上海から船の通う島、普陀山、韓国では東海岸中部の洛山寺、日本では熊野那智や日光が有名です。そのほか日本では、「補陀洛」を山号や寺名に取り込んだ寺は多く見られますし、「補陀洛の谷」などの地名もあります。

 また平安時代から江戸時代にかけて、熊野や四国・九州などの海辺から、一葉船に乗り込んではるかな補陀洛に到ろうとした人々が少なからずおりました。今では考えられない、その自殺行にも似た補陀洛渡海の企ては、実態はどのようで、またどのような精神の仕組みにささえられていたのでしょうか。

 個々の補陀洛の地の信仰は歴史的にどのようなものだったのか、補陀洛信仰を日本人の他界観の一つとしてどうとらえられるか、また補陀洛信仰をささえた多くは無名の無数の人々の心意はどのようなものだったのか、などの点にわたしは興味をもちます。

 ここでは、そのような補陀洛信仰について、多少の私見、また実地を訪れて考えたことなどを、試論ふうにしるします。全体の構成はまだ私自身にも不明、随時文章を追加していく予定です。なお、フダラクをあるときは「補陀洛」と表記し、別のときには「補陀落」と表記しますが、それは論の対象によるのと世間の慣用にしたがうためです。

 まずは、あの三仏堂や二荒山神社のある日光からです。

2003年8月   


 神野富一氏のプロフィール

 1951年徳島県阿南市伊島町生まれ、神戸市在住。

 現在、甲南女子大学文学部教授、専門古代日本文学。

 神戸大学経済学部在学中、「古寺探訪同好会」というサークルに所属、万葉集に興味を持ち、「万葉集研究会」を立ち上げた。昂じて万葉集の研究を志し、神戸大学卒業後、将来を約束されたエリート商社マンの道を蹴り、京大大学院に進み上代文学を専攻した。博士課程退学後、甲南女子大学文学部に就職、上代文学を研究、講義、現在に至る。上代文学研究のかかわりで沖縄の古文化に惹かれ、80年代は沖縄の古祭祀のフィールドワークを行なったそうだ。

 その関連もあって90年代から観音信仰に惹かれているらしい。99年夏、父親の死をきっかけに徒歩の四国遍路に出、「死者と話ができた」と言う。

 おおよそ10年ごとに興味が移っているようだが、「それは「島」と「海」で一貫しているのだ。そのうちわかる」と本人の弁。わかりにくい。ただし島は今までに日本、外国、合わせて50島くらい訪れているとか。生まれ故郷の伊島に具現化された人間の常世への、無意識の回帰の一環なのかも知れない。

 著書に
「万葉の歌 人と風土 6兵庫」 保育社 1986年
「風呂で読む万葉の四季」 世界思想社 1998年
「杜家立成雑書要略 注釈と研究」(共著) 翰林書房 1994年
「沖縄祭祀の研究」(共編著)  翰林書房 1994年
「正倉院本王勃詩序の研究」(共著) 神戸市外国語大学外国学研究所 1995年、など。

小説作品に
「二天抱擁」(同人誌「たうろす」58・59号、87・88年−小島の歓喜天信仰をめぐる若い漁師夫婦の物語)
「撃つ夏」(「季刊文科」9号、98年−空手に生きようとする青年の一夏の物語)など多数。

 近い将来、「島の小説集」(仮題)を刊行するのが夢、だとか。

 今までの遍歴を生かして、いま熱中しているという観音浄土の「補陀洛」についての最新の成果を期待したい。

 

−続く−

(2003年8月 高見 徹 記)