第一章 日光・二荒山考 −−名義を中心に−−

一、 はじめに
二、 
「二荒」の名義、諸説
三、 
「二荒」の名義
四、 
「二荒」から「補陀洛」へ
五、 
おわりに

  一、 はじめに

 日本で補陀洛といえば、一般的にまず挙げられるのが熊野、そして日光である。江戸時代初期に東照宮が造営されるまでは、日光は男体山などへの信仰を基底としたいわゆる日光三所権現のいます宗教的聖地であった。男体山頂の火口付近からは古墳時代の勾玉や鏡も出土しているから、その信仰は文献時代をさかのぼって古い。関東平野の北辺にあって、夏は雷鳴をとどろかせ、冬は白皚々となる秀麗な日光の峰々を神います場所と感得した素朴な信仰は長く続いただろう。

 その長い日光の宗教史の初発を語る文字史料は、性霊集にもおさめられた空海の「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩(みが)く碑」の文章である。そこには下野国芳賀郡の出身で、若年時から仏道修行に励んだ沙門勝道が、天応二年(七八二)三月に初めて男体山登頂を果たし、その後も中禅寺湖のほとりに住んで神宮寺を建てたと記す。また今の男体山を指して「補陀洛山」ともたしかに記している。これは日光の地が当時から補陀落とされていた有力な証拠である。

 それにしても、なぜ北関東の一山である男体山がとくにそうして補陀洛山とされたのだろうか。本来の補陀洛は新訳華厳経によれば南インドにある海上の山であり、陀羅尼集経にも「海島なり」とあって、実際中国の普陀山は海島であり、日本の熊野那智もまた海辺の山である。関東の山である日光がそうして古くから補陀洛とされてきたことの意義をどうとらえればよいか。ここではそうした問題に、名義の考察を中心にせまってみたい。

 

 図1 男体山、中禅寺湖、華厳の滝