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第一章 日光・二荒山考 −−名義を中心に−−
一、 はじめに
二、 「二荒」の名義、諸説
三、 「二荒」の名義
四、 「二荒」から「補陀洛」へ
五、 おわりに
二、 「二荒」の名義、諸説
「日光」という現在まで続く地名が、もとの名「二荒」の音読ニコウ(ニクワウ)に由来するという説は、早く、鎌倉時代の偽作とされる、著者不明の瀧尾建立草創日記にみえる。「日光」の初出は保延四年(一一三八)成立の大般若経奥書といわれ、同七年成立の中禅寺私記にも「日光山満願寺」とみえ、それ以前の文献には続日本後紀承和三年(八三六)十二月条に「二荒神」とあるのを初めとしてすべて「二荒」とあるので、この説は信じてよい。「日光」は好字だが、金光明経の経文とその地の古来の日神信仰にもとづくという説がある(注1)。
そして「二荒」はニコウと音読する以前、フタアラないしフタラと訓まれたこともまたたしかである。古代の山名・神社名はふつう和語で呼ばれたし、延喜式神名帳の「二荒山神社」に九条家本ではフタラノと付訓している(国史大系本による)。フタアラないしフタラがその神や神社の古くからの呼称だったと認められる。
さて、ではその「二荒」(フタアラないしフタラ)という名義の意味、またその由来するところは何か、ということが以前からの一問題である。見落としがあろうが、いまこの問題にふれる主要な説を、簡潔に箇条書きにしてみよう。
1 二回暴風説 中禅寺の鬼門の方角に「羅刹崛」という大坑穴があって、そこから年に二回大風が吹き出して寺や国内を破壊するので二荒と名づけた。(瀧尾建立草創日記)
2 二柱荒神説 (林羅山「二荒山神伝」に紹介)。
3 「布多」の荒神説 (日光山誌に紹介)
4 二現(ふたあら)」説 (下野国誌に紹介)
5 「根子(ねこ)」説 マタギ部落に見られる「根子」の地名がニコウ(二荒、日光)に転じた。(藤井万喜太氏)なお、藤井氏は、一九三九年の段階で古来からの説を五、ないし六にまとめて紹介している。すなわち、二神示現説、観音浄土説、布多の荒山説、二大山説、二季暴風説、アイヌ語起源説である。(注2)。
6 「補陀洛」由来説
7 二神示現説 「二」は男体・女貌の二山を指し、「アラ(荒)」を「現われている」と解し、つまり「男体・女貌の二山が顕現している」意味。(近藤喜博氏の説。注3)。
6の「補陀洛」由来説は、現代では和歌森太郎氏・五来重氏らがとるところ。
勝道のころの関東の仏教修行者たちが「補陀洛の地としてそこをとらえ、その縁で本来の山の神をも、かれらの側から二荒(ふたら)の神と称するに至った」(和歌森氏。注4)。「日光山のもとの名は二荒(にこう)山であり、そのもとは補陀落山であった。「ふだらく」が「ふたら」となり二荒(ふたら)と書かれ、音読みで二荒(にこう)となった」(五来氏。注5)。
諸説の中で、現在ではこの補陀洛由来説がやや優勢であるかのようだ。けれども、私はこの説に疑問をもつ。以下、その理由を述べよう。
一つには、現在の男体山は上代において何らかの名をもっていたろうが、補陀洛由来説によれば、それが奈良時代後期ころにフタラ山に変えられたことになることへの疑問である。上代にあって地方の名山の名が、いくら仏教徒がさかんに入り込んだからといってそうやすやすと変えられたとは思えない。
和銅六年(七一三)、風土記撰述の詔命が出て各国で風土記が編纂されたが、その詔命の中に「山川原野名号の所由」を記せということがあり、現存風土記にはその通り、多くの山名が挙げられ、古代信仰にもとづく山名の起源の説明もまた多くみられる。残念ながら下野国風土記は散逸してか断片すらも残らないが、もしそれが完成されていたとすればそこには必ずや男体山の古名が記されていたにちがいない。またその時代、現地では、神秘な山容の男体山を神と崇め、信仰行事をともないつつ山にまつわる何らかの神話や伝説とともに語られていたにちがいない。実際、男体山山頂遺跡から古墳時代の遺物として二神二獣鏡・勾玉・切子玉・手捏土器が出土しているのは、天応二年(七八二)とされる勝道上人の登頂以前にも男体山が神祇信仰の対象とされていた有力な痕跡である(注6)。山を本格的に開いたのは勝道上人だとしても、それ以前から山の信仰は行なわれていたのである。
筑波山は古来筑波山であり、富士山もまた富士山(上代の文献では不尽・福慈などと表記されている)である。古代に仏教化した比叡山、立山、白山、箱根山なども仏教化によって名が変わったわけでない。むしろ山林修行者は、讃仰しつつ信仰の山に分け入り、山の神を権現と崇めるなどとしてそこを仏教化していくのが常套であり、その場合山の名は山の神と一体として重んじられた。地方の名山たる男体山が仏教の勢力によって名を改めたというのは、山や地の名に対する古代信仰からするとありにくいことのように思われる。
しかも補陀洛由来説によれば、変えられたのは山名ばかりでなく、山と一体の神の名までということになる。神も旧名を捨てて、山の仏教化にともない、補陀洛に由来するフタラノ神となったというわけである。しかし、たとえば延喜式神名帳に記される三千百余座の神々の名をながめると、中には「大洗礒前薬師菩薩明神社」(常陸国鹿島郡)や「八幡大菩薩宇佐宮」(豊前国宇佐郡)のように仏教に由来する神名がないではないが、非常に稀である。観音浄土を意味するフタラが、神の旧名を否定して神名となりえたかどうか。
さらなる疑問は、補陀洛由来説は、「補陀洛→二荒」を音の類似から説明するが、その場合ことさら「二荒」という文字が選ばれた理由の説明がむずかしいという点にある。補陀洛に由来するというなら、なぜ「補陀洛」あるいは「補怛洛迦」(新訳華厳経)などの表記のままでいけなかっただろうか。他の補陀洛、中国の普陀山、ラサのポタラ宮、韓国の洛山寺、熊野那智の補陀落山寺なども思い合わせられる。この点で「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑」に「粤に同じき州に補陀洛山あり」として、「二荒山」と記していないのはかえって明解だ。けれども先に挙げた続日本後紀承和三年十二月条の「二荒神」を初めとして、六国史所載の神階授与などに関する八例はすべて「二荒神」または「二荒神社」と記され、延喜式神名帳にも「二荒山神社」とある。和歌森氏の説に「二荒」の呼称を成立させたのは勝道のころの関東の仏教修行者たちであったとするが、仏教修行者たちならなおさら「補陀洛」に「二荒」を宛てるなどまわりくどいことをせず、もとの「補陀洛」の文字にこだわってよかったわけである。フタラにあえて一義的に「二荒」の文字を宛てる必然性は何だろうか。従来の補陀洛由来説においてはこの説明が欠けている。
また、国語学上の多少の疑問もある。フダラクはサンスクリット語のPotalakaの音写だが、仏書などの万葉仮名表記によれば、フダラク・フタラカ・フダラカのみならずフタラ・フダラなどと訓めるようにも表記されている(注7)。すなわちフダラクがフタラとも称されたことは認められる。ところが一方「二荒」の字は、まずはフタアラと訓まれたはずで、やがて中間のア音の脱落によってフタラとなったと考えられる。つまり、フタラ(補陀洛)をただ音写するならいきなり脱落形の「二荒」は宛てにくく、たとえば「二良」「二羅」など他のよりふさわしい用字もありえたはずなのである。史料に一義的に「二荒」の文字が宛てられているのは、その文字自体がある語義を主張しているからであろう。
以上の二、三の考察によれば、「二荒」の名が「補陀洛」に由来したとする説は成り立ちがたい。「二荒」(フタアラ、フタラ)こそが勝道以前、風土記以前からの男体山のもとの名、またそこにいます神の名であったろう。そして音の類似から、この「二荒」が「補陀洛」を招きよせたと考えられるので、実はここにこそ日光が補陀洛山となった要諦があろう。
(注記)
(1) 細矢藤策「二荒山神社の日神信仰(二)――太郎・日光・野口 サン・ライン(一)――」、「野州国文学」五三、一九九四年三月
(2) 藤井万喜太「日光開山勝道上人の再検討(七)」、「下野史談」昭和14年12月号
(3) 近藤善博「男体山の歴史」、『日光男体山―山頂遺跡発掘調査報告書―』所収、一九六三年
(4) 和歌森太郎「日光修験の成立」、山岳宗教史研究叢書1『山岳宗教の成立と展開』所収、初出は一九六九年
(5) 五来重『修験道入門』八二、八三頁、一九八〇年
(6) 大和久震平『古代山岳遺跡の研究』二一五、四四二頁など、一九九〇年
(7) 望月仏教大辞典の「フダラクサン」の項目に多くの漢字表記を挙げる中に、「宝陀羅」「通多羅」がみえる。長秋記、天承元年(一一三一)七月八日条に、「補陀羅山」の図が鳥羽離宮の成菩提院北面の壁に描かれたともある。
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