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第一章 日光・二荒山考 −−名義を中心に−−
一、 はじめに
二、 「二荒」の名義、諸説
三、 「二荒」の名義
四、 「二荒」から「補陀洛」へ
五、 おわりに
四、 「二荒」から「補陀洛」へ
それでは、荒ぶる神霊のいます山としての二荒山はどのようにして観音浄土たる補陀洛山とみなされるようになったか。
前引、和歌森太郎氏の論は「補陀洛」から「二荒」への変化を説くものだが、男体山を補陀洛ととらえたのには関東の仏教修行者一般がかかわったと論じていて参考になる。奈良時代、関東の山林修行者たちの間で、フタアラないしフタラとの音の類似がまず補陀洛に重なったであろう。先述のように、フダラクはフタラ・フダラなどとも称されたので、山名フタアラないしフタラはそれとほぼ同音であった。山林修行者たちにとって、この音の類似は偶合であったにしても、二荒山を仏教化していくのにはすこぶる好都合であったにちがいない。また、二荒山周辺はそうして補陀洛と観想されるのにふさわしい自然相を備えていた。
以上のことがらは、空海の筆になる「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑」の読解からもある程度導かれることのように思われる。
下野の国出身、沙門勝道の男体山初登頂とその周辺の仏教化を賞揚する趣旨のこの碑文には、「粤に同じき州に補陀洛山あり」、「師、補陀洛の山に上って祈祷す」、「洛山」と三度まで男体山を「補陀洛山」と記している。そもそもこの碑文は、勝道自身が下野の国博士を勤めた伊氏(何人か不明)を通じて、伊氏によしみがあり都に著名な空海に作文を求めて成ったものであった。その間の事情を記す文に、
前の下野の伊博士公、法師と善し、秩満して京に入る。時に法師勝境の記すること無きことを歎いて属文を余が筆に要す。伊公、余に与す、故に固辞すれども免れず。虚に課せて毫を抽づ。(日本古典文学大系『三教指帰 性霊集』による。以下同じ)とあり、また、
余と道公と生年より相見ず。幸に伊博士公に因つて其の情素の雅致を聞き、兼ねて洛山の記を請ふことを蒙る。余不才なれども仁に当る。敢へて辞譲せず。輒ち拙詞を抽でて並に絹素の上に書す。とある。勝道自身が男体山を補陀洛山として、その勝境を「洛山の記」として作文してくれるよう、伊博士を通じて空海に依頼したというのである。ちなみに、この碑文の全体を読むと、勝道の三、四度に及ぶ登攀の年月やそのようす、男体山周辺の地誌、また湖畔での修行生活のありさまが具体的で詳しく、むろん全体に空海によって美文的修辞もほどこされているとはいえ、筆をおろす空海の手もとにはほかならぬ勝道自身の手になるかなり具体的、詳細に記された資料が届けられていたのだと思われる(注8)。この点からも、二荒山は勝道において補陀洛山と眺められていたとしてよいであろう。
するとここで、二荒山を補陀洛と観じたのは、勝道上人自身の宗教体験によるものであったかという考えに誘われる。碑文によれば、勝道は二十歳代の若きに男体山登攀を思い立ち、神護景雲元年(七六七)四月に試みたが二十一日間山腹ですごして却き、十四年後の天応元年(七八一)四月、再び試みて失敗し、そして翌二年三月、命がけに試みてついに宿願を果たしたのだった。それは勝道三十代後半のことであったろう。そして空海の文は、勝道の目に映じたその男体山頂からの四方の眺めを感動的に点綴している。二年後の延暦三年(七八四)三月にも勝道は南湖(中禅寺湖)に到ってその勝景を賞で、神宮寺を建立して四年間住し、さらに湖の北涯に移り住んだと記す。後に上野国の講師に任じられたのことなどはあるが、また大同二年(八〇七)、旱魃の時には上人、下野の国司の依頼に応じてまた補陀落山に登って祈祷し、雨を降らせたという。まことに勝道は生涯を男体山の信仰と開発にかけたので、開山の師というにふさわしい。やはり碑文によれば、勝道が到るまではその山は、「魑魅通ふこと罕なり、人蹊也絶えたり。借問、古より未だ攀ぢ躋る者有らず」、つまり人跡未踏のさまであったという。その勝道の登攀の辛苦と山における長年の修行体験の中でこそ、「二荒山」が「補陀洛山」と劇的に結びついた可能性――。
ただし碑文は、「粤に同じき州に補陀洛山あり」、「師、補陀洛の山に上って祈祷す」と、勝道以前からその山は補陀洛山と呼ばれていたかのごとくに記している。また碑文は、勝道の目に映じた男体山とその周辺の勝景を活写はするが、補陀洛の縁起には常套的に語られる観音の示現は記さず、また勝道が観音像を祀ったことなども記していない。
日光山誌には、「殊に延暦三年登山し玉ひ、西湖の南岸に於て、大士の影響を感見ましまして、ミづから其尊容を手刻して安置し玉ひ」などと、勝道が観音の示現を目にし、その姿を手刻したという伝承を記す。その初見は、現存の文献では鎌倉時代の「補陀洛山建立修行日記」にみられる。それより古い平安末期成立の「中禅寺私記」には、勝道が男体山の中腹に中禅寺を建立し、丈六の千手観音像を安置したこと、また中禅寺湖の西岸に十六丈千手観音石像が祀られ、山門の題額に空海の手で「補陀洛山発心壇門」という伝承が記されてはいる。しかし、いずれも後に起こった伝えとすべきだろう。それらの古書をたどると、ありがちなように、開山上人勝道の事績が時代を経るごとに増幅していくさまが看てとられ、先に引いた日光山誌の文などはいわば、そうして時代時代に生起した伝承が集合し、鋳込まれたようなおもむきがある。伝承の問題としてそれはそれで興味深いのだが、歴史の事実としてはやはり二荒山を補陀洛山と見たのは、勝道個人とするよりは、当時の関東の山林修行者たちであったとすべきだろう。
そうして実際、二荒山周辺の自然相は補陀落と観想されるにふさわしかった。
碑文には、男体山および男体山頂から眺めた三つの湖、中でも南湖の勝景がとくに詳述されている。それも「洛山の記」としてであり、空海の筆には補陀落の景観が意識されているというべきであろう。「中禅寺私記」にも、中禅寺湖の西岸の祭祀に関して、
湖の西岸に十六丈の千手観音の石像有り。千手崎と曰ふ。山門の題額に「補陀洛山発心壇門」と書す。是則ち山勢の相似を為すに依りて、観音利生の場なり。件の額は弘法大師の手書なり。(神道体系本による。原漢文)とあり、「弘法大師の手書なり」というのは伝承にすぎないとしても、「山勢の相似を為す」によってそこが補陀洛山とされたという見方がみえる。
そもそも経典では、本来の補陀洛山は次のように描かれている。新訳華厳経によれば、そこは「華果樹林皆遍満し、泉流池沼悉く具足」し、山の「西面の巌谷の中」で「観自在菩薩、金剛宝石の上に結跏趺坐」して説法している(巻六十八、大正蔵十)。玄奘の大唐西域記には、山径危険で、巌谷傾き、山頂に池が有り、「其の水澄鏡にして大河を流出す。周流山を繞ること二十匝にして南海に入る。池の側に石天宮有り。観自在菩薩往来遊舎す」とある(巻十。大正蔵五十一)。
本来の補陀洛山は海辺の山ないし島であるが、その景観は高山とともに華果樹林・泉流池沼・巌谷・山頂の池などで表象されている。男体山の場合はとくに山と湖とが「山勢の相似を為す」と感得されたのだろう。五来重氏が、もともとあった中禅寺湖の水神信仰が当地の千手観音の信仰になっていったので、「二荒山の信仰は山岳信仰であるとともに湖水信仰である」と中禅寺湖の信仰に注意を喚起している(注9)のはこの点で注意される。それにしても、山と湖(あるいは海)が勝景をなすほどの地なら、日本にはほかにも多くあったろう。中でとくに北関東の日光に補陀洛が現出したのは、やはり地名に因由するところが大きかったからではないだろうか。
こうして、「二荒山」は補陀洛化していった。
ちなみに、二荒山は男体・女峰の二山をさしたと先に述べた。しかし「二荒山」から転じた「補陀洛山」は、碑文の書き方からすれば男体山一峰をさしているとみられる。これは、山頂遺跡のあり方において、女峰山・太郎山など周囲の山々に比べ「遺跡の年代の上限と継続期間に関しては」「男体山が突出して古く、継続の期間が著しく長」く、出土遺物の内容においても「量質とも男体山が突出し、種類が極めて豊富である」(注10)ということからも知られるように、男体山の方が主峰と見なされたこと、また男体山とその周辺の自然相が本来の補陀洛に近いとみなされたことなどによるだろう。先述のように「中禅寺私記」には勝道による男体山中腹への千手観音像安置を伝え、後の三所権現の信仰においても男体山の本地を千手観音、女体山の本地を阿弥陀如来とする。
(注記)
(8) 参考、『日光市史』上巻第2編第1章、益田宗氏執筆、一九七九年
(9) 注5の書、九八頁など
(10) 注6の書、四五七頁
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