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第一章 日光・二荒山考 −−名義を中心に−−
一、 はじめに
二、 「二荒」の名義、諸説
三、 「二荒」の名義
四、 「二荒」から「補陀洛」へ
五、 おわりに
五、 おわりに
山の名はもとフタアラヤマないしフタラヤマといわれ、「二荒山」の字が宛てられた。それは日光山地の前面に位置する二峰を男女の対なる、荒ぶる霊峰と仰いだゆえの呼称であった。この人里離れ、気象も激しい高山は人の接近を拒絶するようだったが、しかし古墳時代にも登攀する人々は時々にあったようで、彼らは山を祀り、そして人知れず去っていった。奈良時代になって関東の山々にも山林修行する人々が集まり、山の仏教化が行われた時代、フタアラ、フタラは彼らによっていつしか観音浄土の補陀洛の音と重ねられ、山の自然相もまたそれにふさわしいと観想された。中で勝道という若い修行者が辛苦の末に仏教者として初めての登攀を果たし、中禅寺湖のそばで数年信仰生活を送った。彼は後にその体験を碑文に残そうと、都に著名な空海のもとへ文章を依頼し、その碑文の制作によって東の補陀洛山の名は広く知られるようになった。
日光はそうして一つの補陀洛となった。初発においてフタアラ、フタラ(二荒)の名が補陀洛と響き合ったこと、そこに日光が補陀洛とされた要諦があったように思われる。
しかしその後の歴史において、日光の補陀洛は、たとえば熊野の那智のようには、あるいは中国舟山群島の普陀山、またチベットラサのポタラ宮のようには観音信仰の実績を示していない。平安・鎌倉期には、千手観音の示現譚が語られ、観音像の安置や寺の設営などのことも行なわれたけれども、それも観音信仰が一山をおおうような勢いとはならなかった。たとえば至徳元年(一三八四)成立の「日光山縁起」(新編会津風土記所収本など)には、男体山は千手観音、女体山は阿弥陀如来、太郎山は馬頭観音として三所権現を語るが、「補陀洛」の文字はただ一ヵ所、太郎大明神が河内郡小寺山に移って「若補陀洛大明神」と号されたという個所に見えるのみである。歴史の実際の進行によったことではあるけれども、日光の補陀洛信仰は、けっして日光山の信仰のすべてではなくその一部、あるいはその基礎をなすにとどまったというべきであろう。それも信仰の初発が、フタアラ、フタラ(二荒)の名が補陀洛と響き合ったという一つの偶合にあったためではないか。けれども、逆にいえば、名称の偶合は何よりも有力な、永久に消えることのない、日光が補陀洛であることの証左なのでもあった。
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図9 日光山 輪王寺 公式ホームページから
(注記)
(1) 細矢藤策「二荒山神社の日神信仰(二)――太郎・日光・野口 サン・ライン(一)――」、「野州国文学」五三、一九九四年三月
(2) 藤井万喜太「日光開山勝道上人の再検討(七)」、「下野史談」昭和14年12月号
(3) 近藤善博「男体山の歴史」、『日光男体山―山頂遺跡発掘調査報告書―』所収、一九六三年
(4) 和歌森太郎「日光修験の成立」、山岳宗教史研究叢書1『山岳宗教の成立と展開』所収、初出は一九六九年
(5) 五来重『修験道入門』八二、八三頁、一九八〇年
(6) 大和久震平『古代山岳遺跡の研究』二一五、四四二頁など、一九九〇年
(7) 望月仏教大辞典の「フダラクサン」の項目に多くの漢字表記を挙げる中に、「宝陀羅」「通多羅」がみえる。長秋記、天承元年(一一三一)七月八日条に、「補陀羅山」の図が鳥羽離宮の成菩提院北面の壁に描かれたともある。
(8) 参考、『日光市史』上巻第2編第1章、益田宗氏執筆、一九七九年
(9) 注5の書、九八頁など
(10) 注6の書、四五七頁
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