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第六章 洛山寺考――朝鮮の補陀洛の成立について――
一、はじめに
二、洛山寺の開基伝承
三、梵日の伝承と普陀山
四、洞窟の観音・竜神信仰
五、おわりに
二、洛山寺の開基伝承
洛山寺の開基伝承をしるす古い文献としては、まず一然の三国遺事(一二八〇年ころ成立)、次いで東国輿地勝覧(一四八一年成立)などの地誌類に引用されている高麗僧、益荘の記が挙げられる。両書の所伝は基本的には一致するが、内容・表現にはかなりの差異もある。
三国遺事巻三「塔像第四」の「洛山二大聖 観音 正趣 調信」と題した記事からみていくことにする。いささか長いその記事は、仮にタイトルを付けるとすれば、
A 義湘法師による開基
B 元暁法師の来訪
C 梵日祖師の正趣菩薩安置
D 洛山寺二宝珠の行方
E 調信の夢という五つほどの内容から構成されている。このうち寺の開基や中興にかかわる伝承はA〜Bとみられる。Cの後に、A〜Cが「古本」に拠ったことがわかる注記があるから、この開基伝承は三国遺事の成立よりも古く記録されていたことになる。
まずAを挙げる。
昔義湘法師、始自レ唐来還、聞三大悲真身住二此海辺窟内一、故因名二洛山一。蓋西域宝陀洛伽山、此云二小白華一、乃白衣大士真身住処。故借レ此名レ之。
斎戒七日、浮二座具晨水上一、龍天八部侍従、引二入崛内一。参二礼空中一、出二水精念珠一貫一給レ之。湘領受而退。東海龍亦献二如意宝珠一顆一。師捧出。更斎七日、乃見二真容一。謂曰、於二座上山頂一双竹湧生。当二其地一作レ殿宜矣。師聞レ之出レ崛。果有レ竹従レ地湧出。乃作二金堂一、塑レ像而安レ之。円容麗質、儼若二天生一。其竹還没。方知二正是真身住一也。因名二其寺一曰二洛山一。師以二所レ受二珠一、鎮二安于聖殿一而去。(注2)重要な伝承なので、試みに訳もしるしてみよう。
昔、義湘法師が初めて唐への留学から帰ってきたとき、大悲(観音菩薩)の真身がこの海辺の窟の中に住むと聞き、そこでここを洛山と名づけた。思うに、西域の宝陀洛伽山を小白華というが、そこは白衣大士(観音菩薩)の真身が住むところである。だからその名前を借りて洛山と名づけたのである。
義湘は斎戒すること七日、座具を明け方の水の上に浮かべた。そうしたところ、龍天の八部侍従が洞窟の中に引き入れてくれた。空中に向かって参礼すると、観音は水精の念珠一貫を取り出し、くださった。義湘はそれを受け取って退いた。東海の龍もまた如意宝珠一顆を献った。義湘はそれを捧げて洞窟を出た。
更に斎戒すること七日、義湘は観音の真容を見ることができた。その観音が言われることには、「座上の山頂に双竹が湧くように生え出るであろう。其の地に仏殿を作るがよい」と。義湘はそれを聞いて洞窟を出たところ、果たしてまさに今地面から湧くように生え出している竹があった。そこでそこに金堂を作り、土で観音像をこしらえて中に安置した。その像は完全なお姿で生得にうるわしく、おごそかなことは生まれつきのようであった。まもなくその竹は地面の中に消えてしまった。そこでまさにここに観音の真身が住むことがわかった。そこでその寺を洛山と名づけた。義湘は受け取った二つの珠を聖殿に鎮め置いて立ち去った。読解上の注記を若干加えると、まず「龍天の八部侍従」とは「天龍八部」のことで、天・龍・夜叉・阿修羅など八種の仏法の守護神をさす。また、「水精の念珠一貫を出して与えてくれた」主語を「龍天の八部侍従」とする読みがあるが、主語は観音とすべきである。次に引く益荘記にも「大聖即ち窟中より臂手を伸ばし、水精念珠を授く」とある。
さて、この説話にはいくつかの注目すべき点がある。洛山寺の開基が有名な新羅僧、義湘によるとされていること、海辺の洞窟に観音の真身が住むとされていること、洛山寺という名前の由来、東海の龍の援助、などである。それらについては後述することとして、次に益荘記の対応個所を見ておきたい。新増東国輿地勝覧(注3)の引用による。
襄州東北降仙駅之南里有二洛山寺一。寺之東数里許、巨海辺有レ窟。其高可二百尺一、其大可レ容二万斛之舟一。其下海濤常出入、為二不測之蹠一。世称二観音大士所住処一也。
窟前距二五十許歩一、海中有三石上可レ鋪二一席一、出二没水面一。昔新羅義相法師、欲三親覩二聖容一、乃於二石上一展坐拝稽。精勤至二二七日一、尚未レ獲レ覩、便投二身海中一。東海龍扶二出石上一。大聖即於二窟中一伸二臂手一、授二水精念珠一曰、我身未レ可二親覩一。但従二窟上一行、至二双竹湧出処一。是吾頂上。於レ此可下営二一殿一安中排像設上也。龍亦献二如意珠及玉一。師受レ珠而来、有二双竹湧立一。乃於二其地一創レ殿、以二龍所レ献玉一造レ像安レ之、即_寺也。
まず洛山寺の位置や観音の住する洞窟のありさまを説明している。洞窟は高さが百尺ばかり、大きさは万石の舟も入れられるほどで、常に海の波が出入りして、そのために深さの測れない谷をなしているという。現在、上方をまたぐようにして紅蓮庵が建っている、その観音窟をさすのだろう。
続く義湘(義相)法師の話は、三国遺事と異なる点がある。洞窟の五十歩ばかり前に岩があり、義湘はそこに座って精勤したが、観音の聖容は見られず、ために海に身を投げた。そうしたところ東海の龍が義湘を救い上げ、観音は窟の中から臂手を伸ばして水精念珠を授けたという部分などである。異伝というべきだろう。 三国遺事にかえり、元暁法師の来訪をしるすAを挙げよう。
後有二元暁法師一、継レ踵而来、欲レ求二瞻礼一。初至二於南郊一、水田中有二一白衣女人刈一レ稲。師戯請二其禾一。女以二稲荒一戯答レ之。又行二至橋下一、一女洗二月水帛一。師乞レ水。女酌二其穢水一献レ之。師覆棄レ之、更酌二天水一而飲レ之。時野中松上有二一青鳥一。呼曰二休醍和尚一、忽隠不レ現。其松下有二一隻脱鞋一。師既到レ寺、観音座下又有二前所レ見脱鞋一隻一。方知二前所レ遇聖女乃真身一也。故時人謂二之観音松一。
師欲下入二聖崛一更覩中真容上、風浪大作、不レ得レ入而去。義湘が去ってほどなく元暁も観音の真身に会おうとやって来た。観音は女人の姿でそれを迎えたが元暁はそれと気づかず、結局風浪が起こって聖崛には入れなかった、という伝承である。観音は元暁を拒否したというのでなく、二度まで聖女の姿でまみえている。その元暁と観音とのやりとりは、文中に「戯れて」ともあるとおりどこかユーモラスであり、自由奔放で民衆にも大いに親しまれた元暁にふさわしい。
さて、A、Bは、義湘・元暁という七世紀後半の新羅仏教界をリードした名僧二人が洛山寺の開基にかかわったことを語っている。フダラクは華厳経に説かれた聖所であるが、義湘(六二五―七〇二)は唐に留学し、華厳第二祖の智儼から華厳を学んで奥義を究め、新羅に伝え広めて「海東華厳の初祖」(宋高僧伝)といわれた人であるし、元暁(六一七―六八六)もまた華厳経疏や大乗起信論疏などを著作して華厳を深く追究した。その元暁の大乗起信論疏が唐に伝わり、華厳第三祖、法蔵の重要な著作である大乗起信論義記に大きな影響を与えたことなども明らかになっている。また法蔵は六九二年、敬愛する兄弟子の義湘に対して書を奉り、同時に自らの新著である華厳経探玄記二十巻(「両巻未だ成らず」とする)などを贈っている。その探玄記には、善財童子が訪れた観音の住所の本の名が「逋多羅山」であるともみえている。
フダラクの名は、不空羂索呪経(六世紀末ころ漢訳)・大唐西域記(六四六年成立)・新訳華厳経(六九九年成立)などにしるされ、中でも十六年間の求法の旅からの帰国後ほどなく太宗の命に応じて成された玄奘の大唐西域記(「布廁洛迦山」とする)によって唐の仏教界に広まったと思われる。すると、義湘も当然、旧訳華厳経の「光明山」とともにフダラクの名は知悉していただろう。また三国遺事巻四、「義湘伝教」によれば、義湘は入唐の時、南路によって揚州に入り、しばらく滞在しているので、そこで義湘が海上交通者たちの普陀山の信仰にふれた可能性は十分にある。
以上の、華厳とのかかわり、フダラクの名の伝承、普陀山信仰の体験などから、金文経氏も説くように(注4)、遺事の「洛山」の命名や開基は義湘によるという伝えは歴史的な事実を含んでいるとみてよいだろう。
ただし、この遺事にみえる義湘説話を、伝承にすぎないとする意見もある。鎌田茂雄氏は、「この話は後代につくられた義湘についての説話であり、歴史的事実ではない。しかし、観音が朝鮮半島の洛山に示現したという伝説があったことは、この地方で観音が信仰されたことを示すものであろう」(注5)、「中国において観音信仰が補陀落迦霊場として定着するのは晩唐から五代にかけてであって、七世紀の義湘、元暁時代にはまだ行なわれていなかったとみるべきであろう」(注6)、また「洛山寺が実際に開かれたのは義湘の時代ではなく、九世紀に活躍した梵日(ボムイル 810〜887)の頃であったと思われる」(注7)と述べ、義湘による開基を否定している。
たしかに中国のフダラクたる普陀山の信仰の隆盛は九世紀中葉以降のことであったとみられる。しかし、北宋宣和六年(一一二四)成立の宣和奉使高麗図経に、「其深麓中、有二蕭梁所レ建宝陀院一」と、古く梁の武帝、蕭衍(五〇二―五四九)の時代に「宝陀院」が建てられたとする記事などがあり、普陀山には古くから観音が祀られていたと考えられる。それを普陀山信仰の第一次とすれば、新羅人らの活発な海上活動によって九世紀中葉以降に隆盛におもむいた普陀山信仰は第二次のものであったといえる。義湘は第一次の普陀山信仰にふれ、それを摂取して洛山に移植したのであろう。
〔付記 本稿第二章の「普陀山考」では、ここにいう第一次の普陀山信仰には言及しえていない。〕(注記)
(2)本文は金思蠹訳『完訳三国遺事』(一九九七年)による。ただし、新字体に改め、返り点を付した。以下同じ。
(3)江原郷土文化研究会編『襄陽歴史資料集』(二〇〇三年)に収められた影印本による。新字体に改め、返り点を付した。以下同じ。朝鮮群書大系所収の『東国輿地勝覧』(一九一二年)も参照した。
(4)金文経(高慶秀訳)「在唐新羅人社会と仏教――入唐求法巡礼行記を中心にして――」(「アジア遊学」二六、二〇〇一年四月)。また、氏もふれているが、釈体元の「白花道場発願文略解」(奥書によれば一三二八年成立。韓国仏教全書六所収)によれば、義湘は洛山に詣でて「白花道場発願文」を作ったという(「師洛山観音窟に詣で、礼拝発願して斯の文を述ぶ」)。事実であれば義湘が洛山寺を創建した明証となるが、その史料性について私は評価しえない。
(5)鎌田茂雄『観音のきた道』一七五頁(一九九七年)。なお氏は、義湘・元暁以前の時代に、西域ルートによって高句麗にもたらされた観音信仰が当地で独自の観音信仰を創りあげていたと推定している。『新羅仏教史序説』四〇三頁(一九八八年)。
(6)鎌田茂雄『新羅仏教史序説』四〇一頁(一九八八年)。
(7)鎌田茂雄『韓国古寺巡礼(新羅編)』一四七頁。
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