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第六章 洛山寺考――朝鮮の補陀洛の成立について――
一、はじめに
二、洛山寺の開基伝承
三、梵日の伝承と普陀山
四、洞窟の観音・竜神信仰
五、おわりに
三、梵日の伝承と普陀山
第二次の普陀山信仰の洛山への影響は、梵日祖師の正趣菩薩安置を説く、次のCの説話にみられるのではないだろうか。
後有二崛山祖師梵日一。太和年中入唐、到二明州開国寺一。有三一沙弥截二左耳一、在二衆僧之末一。与レ師言曰、吾亦郷人也。家在二溟州界翼嶺県徳耆坊一。師他日若還二本国一、須レ二成吾舎一。既而遍二遊叢席一、得二法於塩官一[事具在二本伝一]。以二会昌七年丁卯一還レ国。先創二崛山寺一而伝教。
大中十二年戊寅二月十五日、夜夢昔所レ見沙弥到二窓下一、曰、昔在二明州開国寺一、与レ師有レ約。既蒙レ見レ諾、何其晩也。祖師驚覚、押二数十人一到二翼嶺境一、尋二訪其居一。有三一女居二洛山下村一。問二其名一、曰二徳耆一。女有二一子一年才八歳、常出二遊於村南石橋辺一。告二其母一曰、吾所レ与レ遊者、有二金色童子一。母以告二于師一。師驚喜。与二其子一尋二所レ遊橋下一、水中有二一石仏一。舁二出之一、截二左耳一。類二前所レ見沙弥一。即正趣菩薩之像也。乃作二簡子一、卜二其営構之地一、洛山上方吉。乃作二殿三間一安二其像一。時は太和年中(827〜835)、入唐した梵日は明州の開国寺で、同郷の、一人の左耳のない沙弥に会い、帰国したら故郷に自分の家を建ててほしいと頼まれた。その後、梵日は会昌七年(八四七)に帰国し、まず崛山寺を立てて伝教した。ところが大中十二年(八五八)二月十五日の夢に、昔出会った沙弥が現れて、かつての約束の履行を促した。梵日は驚き、すぐさま溟州界翼嶺県を訪ね、洛山のふもとの村の女とその子供に教えられて、橋の下から水中の石仏を引き出してみると正趣菩薩で、それがかの沙弥なのであった。そこで卜いをして、洛山の上に仏殿を建て、その像を安置した。
記事中、「正趣菩薩」とは、華厳経入法界品の中で文殊菩薩の教えに従って善財童子が五十五人の善知識を訪ねた、その二十八番目が観音菩薩だが、その次、二十九番目に訪ねた菩薩の名である。善財童子が「光明山」(新訳では「補怛洛迦山」)で観音の説法を聴いていたとき、この正趣菩薩が東方の空から出現し、「金剛山頂」に降り立った後、観音のもとへやって来た。そこで観音に勧められ、童子は正趣菩薩に教えを受ける、というふうに展開している。華厳経探玄記には、「『住金剛山頂』者則是此光明山也」、金剛山は光明山のこととしているが、ともかく童子は光明山の観音のもとで、観音の説法会にやって来た正趣菩薩の教えも聴いたことになっており、観音と正趣はゆかりが深い。洛山にはまず義湘によって観音菩薩が祀られ、次いで梵日によってその観音にゆかり深い正趣菩薩も祀られた、よって記事の題を「洛山二大聖 観音 正趣」としたというのが遺事の語り口である。
さて、この梵日説話にあらわれる地理や年代は、唐の普陀山信仰のかげを感じさせないではおかない。
梵日(810〜889)は唐に留学し、帰国後は洛山にも近い江陵五台山の崛山寺に住し、また国師にも任じられた高名な僧であった。遺事によればその梵日が渡唐して沙彌と出会ったのは、明州の開国寺においてであった。また諸所で修行した後、法を得たのは杭州の塩官県においてとされている。そのころは新羅が黄海のみならず東シナ海の航路もほぼ支配しており、梵日の唐との往還や修行地もそうした新羅人の営みと関係があったにちがいない。
そしてそのころ、杭州湾の沖では、普陀山信仰が隆盛におもむいていた。その観音の開基伝承には、同じプロットで観音を祀った主体の異なる二つの伝承がある。その一つは先述の宣和奉使高麗図経巻三十四に載るもので、新羅商人が祀ったとしている。もう一つは観音を祀った主体を日本僧、慧蕚によるとする仏祖統記などの伝承である(第二章「普陀山考」参照)。祀った主体は異なるけれども、いずれも五台山で観音像を得、明州(寧波)から帰国しようとしたが、普陀山に到って船が座礁したので観音を島に祀った、後にその観音像は城内の開元寺に安置された、今普陀山に安置しているのは後に造られたものである、というプロットはひとしい。
高麗図経には、観音が祀られて以来、「海舶往来必詣。祈福無レ不二感応一」とあり、仏祖統記にも、
去レ洞六七里、有二大蘭若一。是為二海東諸国朝覲商賈往来一、致敬投誠、莫レ不レ獲レ済〔草菴録〕。とある。「洞(潮音洞)を去ること六七里」にある「大蘭若」とは現在の普済禅寺をいうが、海東諸国が中国に朝覲(天子に謁見すること)したり、商人が往来したりする際、その寺に熱心に祈れば、常にその航海が無事であったというのである。これらの記事は、九世紀のころ、中国と新羅・日本などを航海した海上交通者の間にフダラクとしての普陀山への信仰が隆盛になったことを伝えているだろう。
ところで、この普陀山の伝承と先の梵日の伝承を比較してみると、奇妙な暗号が認められる。両者の年代は同時代というどころか、遺事と仏祖統記ではいずれも大中十二年とされる。説話の場所という点でも、一方は荏の開元寺、他方は明州(浙江省荏県)の開国寺と類似している。慧蕚の事績の中に杭州塩官県霊池院の斉安禅師に拝謁し、その高弟義空長老を伴って帰国し、日本に初めて南宗禅を伝えたということがある(元享釈書など)が、梵日も同じ塩官県の鎮国海昌院の斉安禅師のもとで大悟したといい(祖堂集)、斉安禅師はひとしく、場所のみならず宗旨においても両者は相当に近いということになる。また高麗図経では、呉越(五代十国の一つ)の銭氏(十世紀、五世八十四年間呉越王となった)が観音像を城中の開元寺に移したといい、その城とは杭州城のことであろう。ちょうど梵日が留学していたころ、まさに梵日の活動範囲において普陀山信仰はさかんだったのである。
さらに、普陀山には「正趣峰」という山があったことが普陀山の古い地誌である補陀洛迦山伝(一三六一年成立)や重修普陀山志(一六〇七年成立)にみえている。特に補陀洛迦山伝では「正趣峰 霊鷲峰 観音峰」と、島内にある三峰の一番目に挙げられており、重要視された山であったことがわかる。そもそも普陀山は先述の華厳経入法界品にもとづく名であり、島内にはゆかりの「善財洞」もあり(補陀洛迦山伝)、いわば入法界品に描かれた観音の補陀洛世界が島内に引き写されている。普陀山はそういう世界である。したがって「正趣峰」の存在も入法界品にもとづく正趣菩薩への信仰が普陀山に古くから存在したことを示し、それが洛山への正趣菩薩安置を説く梵日説話の形成に影響した可能性がある。
つまり、梵日の説話は、九世紀の中ごろにおいて普陀山信仰と洛山信仰が再び密接な関係をもったことを反映していると考えられる。そのころ、僧侶や商人を含む海上交通者、また海民の間で昂揚した第二次の普陀山信仰が、その空気を呼吸した新羅の人々によって東海のほとりにもたらされ、地元の海民たちの支持も受け、梵日伝承とともに洛山の中興がなされたということではなかったか。あるいは、もっと直接的に、梵日が中心となって普陀山信仰を洛山にもたらし、洛山を中興した可能性もある。
洛山寺の南方約五〇キロの山岳地帯には、梵日も帰国後に住した崛山寺を含む五台山が広がる。そのいわれは三国遺事巻三に、「洛山二大聖□観音□正趣□□□調信」の次に「台山五万真身」と題して、七世紀中葉の慈蔵法師が渡唐して文殊菩薩から本国の五台山の所在を教えられたことなどがしるされ、中国の五台山の信仰が移植されたことが明らかである。洛山信仰が普陀山信仰の伝播、ないし移植であることの一つの傍証になろうか。ちなみに、普陀山の故事でも、新羅商人や慧蕚がはじめに観音像を得たのは中国五台山においてであった。唐・新羅両国において、五台山とフダラクはつながりが深いのである。
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