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第六章 洛山寺考――朝鮮の補陀洛の成立について――
一、はじめに
二、洛山寺の開基伝承
三、梵日の伝承と普陀山
四、洞窟の観音・竜神信仰
五、おわりに
四、洞窟の観音・竜神信仰
現在いくつかの堂于をかまえる洛山の信仰の核は、史料によっても地元の研究者によっても、観音窟(補陀窟)だと教えられる。海に臨む義湘台から百メートル余、崖に沿ってつけられた道を歩いたところに、朝鮮の寺らしい青緑の瓦屋根の、三間四方の紅蓮庵が建っている。そのかたわらから下を覗きこむと、十メートル余り下は海面で、岩を裂いて幅一、二メートルの切れ込みが走って庵の下にもぐっている。つまり、庵は洞窟の上に、それをまたぐように建てられているので、庵の下も背後もまだ洞窟の一部なのだった。この洞窟や庵については、地誌では輿地図書(一七五七年刊)に、「海のほとりの断崖が裂け、海水がその中に入ればかまびすしい声をなす」と紹介している。庵のそばの斜面に観音寺院の周囲にはよく見かける竹(笹)が群生しているのは説話の「双竹」にちなむのだろうか。しかし、「座上の山頂に双竹湧生すべし」(遺事)といわれた場所は、「山頂」とあることからすればもっと上の方だろう。
ところで、この洞窟のたたずまいは普陀山の潮音洞や梵音洞に非常によく似ている。潮音洞は島の南東部、慧蕚が観音を祀った場所という不肯去観音院から少し下った岩場にある海岸の洞窟である。仏祖統記にも記述があって、「洞窟は海潮を呑み込み吐き出し、昼となく夜となく大きな音を響かせる。洞窟の前に石橋があり、信者がそこに至って熱心に祈ると、観音が座して説法するようすが見えたり、善財童子が俯仰して送迎したり、あるいはただ碧玉の浄瓶が見えたり、頻伽の飛舞が見えたりする」と説いている。これは、普陀山の中でも潮音洞こそが観音真身の住処であるとする記述であろう。仏祖歴代通載(一三四一年成立)でも、大中年間に天竺僧が来て十指を燃やし尽くすと観音が示現し、妙法を説き、七宝色石を授けた場所、および慧蕚の船が留まった場所がやはり潮音洞であるとしている。梵音洞は島の東部にある洞窟で、高さ約百メートルばかり、海潮がなだれ込むとやはり轟音をあげ、やはり観音示現の場所であるとされる。やはり洞窟の真上に堂于が建てられている。
真身の観音が海のほとりの洞窟に住むことといい、その洞窟が波を呑みこみ、轟音とともに潮を吹き上げるようすといい、洛山の観音窟は普陀山の潮音洞を(あるいは梵音洞も)模したものではないか。両者の景観の相似からも、普陀山信仰の洛山への伝播が思われるのである。
相似はまた、海龍信仰に関しても認められる。詳しくは別稿を用意したいが、洛山地区では遅くとも高麗時代から「東海神廟(トンヘシンミョ)」という東海の龍王を祀った堂宇が存在した。これは中国で国家が四海の海神を祀った制度の移植で、中国ではすでに隋代から東海と南海の神を海上交通の要所に祀ってきた。中国の東海神廟は、隋・唐代は会稽県にあり、北宋前期には山東半島の莱州掖県にあったが、元豊元年(一〇七八年)、明州定海県の東北五里の地に移祠された(注8)。この東海神廟の存在は、洛山付近が古くから海上交通の要衝であり、海龍信仰のさかんな土地柄であったことをうかがわせる。また東海神廟と洛山寺がごく近くにあることは、中国の東海神廟が会稽県また定海県と、普陀山の近くにあることとの相似を思わせないではおかない。
「東海の龍」は国つ神の代表ともいうべき存在として、三国遺事にも多く登場している。そこでは王権とかかわって護国・護法の性格が強調されているが、背景には民衆の豊作豊漁、また海上交通の安全を祈願する海龍信仰が広く存在したことがうかがわれる。そして東海神廟の置かれた洛山地区は、古くからそうした海龍信仰のさかんな土地柄だったと推測される。
また、龍から離れ、より広く海上交通の面をみれば、八・九世紀のころは新羅の海民・商人らが黄海・東シナ海方面の海上交通・海上貿易をほぼ独占する勢いで、特に新羅――唐間の外交・交易がさかんであった。のみならず、円仁(838〜847在唐)の入唐求法巡礼行記がリアルに描き出すように、新羅人の旺盛な活動は唐の東海岸に自身の居留区を現出させていた(注9)。それらの様相について一つの定説的な理解を引けば、
唐へ行く海路は、今の全羅南道の霊岩から上海方面へ行く道と、京畿道南陽湾から山東半島へ行く道があった。一方、慶州から近い国際貿易港である蔚山にはイスラム商人まで往来するようになり、このときには唐の産物ばかりでなく西域の商品も輸入した。
そして新羅人がしばしば唐に往来して、山東半島と揚子江下流一帯に新羅人の居住地である新羅坊が生まれ、新羅所、新羅館、新羅院が建てられた。(中略)
とくに、張保皐は今の莞島に清海鎮を設置して海賊を掃蕩した後、南海と黄海の海上交通を支配し、唐、日本との貿易を独占したばかりか、大きな政治勢力にまで成長した。その他の地域でも海上勢力が大きくなっていった。(注10)かの梵日も上記のいずれかの航路で往還し、主に杭州や明州という船の行き交う都市の寺院で修行したのだし、普陀山の信仰にも多大な関心を寄せたことだろう。そしてここにあるように、航路は西海の新羅――唐間のみならず半島南部にも開け、蔚山は国際貿易港として栄えていた。さらに東海には新羅――渤海間の航路も開けていた。このような当時の新羅人の旺盛な海上活動を考慮すれば、もともと海上交通者や周辺の海民の間で起こったと考えられる普陀山の信仰が、義湘のころ、また梵日のころに海上ルートを通じて洛山にもたらされた可能性は十分にあるというべきである。
そのような新羅の海上交通者たちも、おのずからに海龍の信者たちであったろう。その彼らの間に、海龍をしのいで海上守護・海難救助をしてくれる観音が信仰されるようになった。説話における東海の龍が義湘法師に如意宝珠一顆を献る場面、それは護国の意図もはらみつつ、海上交通者や海民の素朴な海龍信仰が、海の女神ともなった観音への信仰に取り込まれていくことの象徴でもあったにちがいない。
(注記)
(8) 古林森広「宋代の海神廟に関する一考察」(「吉備国際大学研究紀要」五、一九九五年)。
(9)当時の航路や新羅人の活動については、内藤雋輔『朝鮮史研究』第八章〜第十章(一九六一年)に詳しい。また近年の研究には、注4の論文、李基東「張保皐とその海上王国」(上)(下)(「アジア遊学」二六・二七、二〇〇一年四月・五月、浜田耕策『新羅国史の研究』第四章「王権と海上勢力――特に張保皐の清海鎮と海賊に関連して――」(二〇〇二年)などがある。
(10)大槻健ほか訳『新版 韓国の歴史 第二版――国定韓国高等学校歴史教科書』九六・九七頁(二〇〇三年)。
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