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第六章 洛山寺考――朝鮮の補陀洛の成立について――
一、はじめに
二、洛山寺の開基伝承
三、梵日の伝承と普陀山
四、洞窟の観音・竜神信仰
五、おわりに
五、おわりに
朝鮮のフダラクとされる洛山について、三国遺事の伝承の分析を行い、また洞窟信仰、東海の龍の祭祀、古代の海上交通の状況などを手がかりに、洛山信仰が普陀山信仰の影響下でまずは七世紀後半、義湘によって成立し、次いで九世紀前半の梵日のころに中興があったことを推定した。すでに「インドに発し、中国に定着した普陀山の補陀洛迦信仰は、朝鮮半島へ渡り、広まっていった」といわれているとおり(注11)、洛山信仰は普陀山信仰の伝播、ないしは移植という面が強い。ただしその影響は、少なくとも七世紀後半と九世紀前半の二度にわたって大きな波があったとすべきだろう。また、洛山信仰の成立や発展には僧侶や商人を含む海上交通者の活動が大きく関与していることもうかがわれた。
それにしても、広い海岸線をかかえていた新羅において、なぜ東海岸でも都の慶州(金城)からはかなり北方にある当地にフダラクが成立したのか。この問題の解明は容易ではないが、一つの鍵は太陽信仰の存在にあるのではないかと考えている。各地のフダラクをみていくと、太陽信仰がさかんであった土地が多い。洛山寺も朝鮮半島中部、渺茫と青い東海に面するよく日の当たる丘にある。洛山は襄陽に属するが、「襄陽」は「昇る太陽」の意味である。もっともそれは朝鮮王朝時代に定められた地名だが、その古名「襄州」は高麗史にみえる。その名にたがわず、襄陽では現在大晦日から元旦にかけて「日の出祭り」が行われており、全国から多くの人々が押し寄せて洛山寺やその眼下の浜はにぎわい、海に面する崖の上にある洛山寺の義湘台もご来光を拝む主要な名所の一つであるという。ただし、この問題はフダラクと太陽信仰の関係として別に論じることにしたい。
洛山に成立したフダラク信仰が、普陀山の信仰とともに日本にどのような影響を及ぼしたのかということも今後の課題としなければならない。
(注記)
(1)『国立民俗博物館』(二〇〇二年十月再版)
(2)本文は金思蠹訳『完訳三国遺事』(一九九七年)による。ただし、新字体に改め、返り点を付した。以下同じ。
(3)江原郷土文化研究会編『襄陽歴史資料集』(二〇〇三年)に収められた影印本による。新字体に改め、返り点を付した。以下同じ。朝鮮群書大系所収の『東国輿地勝覧』(一九一二年)も参照した。
(4)金文経(高慶秀訳)「在唐新羅人社会と仏教――入唐求法巡礼行記を中心にして――」(「アジア遊学」二六、二〇〇一年四月)。また、氏もふれているが、釈体元の「白花道場発願文略解」(奥書によれば一三二八年成立。韓国仏教全書六所収)によれば、義湘は洛山に詣でて「白花道場発願文」を作ったという(「師洛山観音窟に詣で、礼拝発願して斯の文を述ぶ」)。事実であれば義湘が洛山寺を創建した明証となるが、その史料性について私は評価しえない。
(5)鎌田茂雄『観音のきた道』一七五頁(一九九七年)。なお氏は、義湘・元暁以前の時代に、西域ルートによって高句麗にもたらされた観音信仰が当地で独自の観音信仰を創りあげていたと推定している。『新羅仏教史序説』四〇三頁(一九八八年)。
(6)鎌田茂雄『新羅仏教史序説』四〇一頁(一九八八年)。
(7)鎌田茂雄『韓国古寺巡礼(新羅編)』一四七頁。
(8) 古林森広「宋代の海神廟に関する一考察」(「吉備国際大学研究紀要」五、一九九五年)。
(9)当時の航路や新羅人の活動については、内藤雋輔『朝鮮史研究』第八章〜第十章(一九六一年)に詳しい。また近年の研究には、注4の論文、李基東「張保皐とその海上王国」(上)(下)(「アジア遊学」二六・二七、二〇〇一年四月・五月、浜田耕策『新羅国史の研究』第四章「王権と海上勢力――特に張保皐の清海鎮と海賊に関連して――」(二〇〇二年)などがある。
(10)大槻健ほか訳『新版 韓国の歴史 第二版――国定韓国高等学校歴史教科書』九六・九七頁(二〇〇三年)。
(11)鎌田茂雄『観音のきた道』一七五頁(一九九七年)。
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