第四章 補陀落渡海考

一、 「此の身ながら」の渡海行
二、 
風待ち、食料携行
三、 
琉球に渡海した日秀上人
四、 二つの補陀落観

 一、 「此の身ながら」の渡海行

 讃岐の三位という人の乳母の夫なる人は、長年極楽往生を願い続ける入道だった。彼はこう考えた。「この人間の身体というものは、まったく意のままになるものでない。もし、悪い病気にでもかかって、死に際が思うようにならないならば、往生の素懐を遂げることは極めて難しい。今のように病気のない健康な状態で死んでこそ、臨終のときに心を安定させていられるだろう」。そして彼は「身燈」を試みる。まず火の色になるまで焼いた鍬を二つ左右の脇にはさんで、生身に押し当ててみた。肉が焼け、酸鼻な状態になったけれども、彼は「ことにもあらざりけり」ともらした。そして本格的に身燈の準備にかかっているうちに、思いが変わった。

身燈はやすくしつべし。されど、此の生を改めて極楽へまうでん詮もなく、又、凡夫なれば、もし終りに至りて、いかが、なほ疑ふ心もあらん。補陀落山こそ、此の世間の内にて、此の身ながらも詣でぬべき所なれ。しからば、かれへ詣でんと思ふなり。 (発心集第三−五「或る禅師、補陀落山に詣づる事賀東上人の事」。新潮日本古典集成本による)

 たとえ極楽往生できたとしても、死んでしまったら何になるか。また、その今はの際に極楽往生への疑念をまったく生じないという自信もない、それならば、代わりに、「此の世間の内」にある、観音菩薩います補陀落山へ「此の身ながら」に参詣することにしよう。どうやら、わが身を焼くという極限の体験が、彼の内に、生死の認識についての根本的な転回をもたらしたらしい。つまり、彼の中で、身体性の否定や死ぬことによって永遠の世界に生きるという長年とらわれていた観念への疑義が生じ、逆に「身体」や「この世」というものの価値を再認識し、その肯定へと思考が逆転したということだろう。その後彼はそうして思い切った補陀落渡海をどう敢行したか。

土佐の国に知る処ありければ、行きて、新しき小船一つまうけて、朝夕これに乗りて、 梶取るわざを習ふ。その後、梶取りをかたらひ、「北風のたゆみなく吹きつよりぬらん時は、告げよ」と契りて、其の風を待ちえて、彼の小船に帆かけて、ただ一人乗りて、南をさして去りにけり。妻子ありけれど、かほどに思ひ立ちたる事なれば、留めるにかひなし。空しく行きかくれぬる方を見やりてなん、泣き悲しみけり。是を、時の人、こころざしの至り浅からず、必ず参りぬらんとぞ、おしはかりける。

 彼はゆかりのあった土佐に行き、すぐただむやみに南海をめざしたわけでない。小船を新造し、操船術を習い、北風の吹き続く時をプロの船乗りから教わって出帆したのだ。用意周到とまでいえるかどうかはわからないが、海に乗り出しても生きる手立てをそれなりに講じたことはたしかである。その行いは、「此の世間の内」にある補陀落山へ「此の身ながら」に参詣しようという彼の意志に見合っている。

 補陀落渡海の本質を「入水往生」とする見方が、現在も依然として有力であるようだ。資料の多くは、たしかにそうした見方を支持する。「いはゆる補陀落世界に往生し、観音の眷属となりて、菩薩の位に昇らむ」(法華験記下一二八)と、補陀落への往生ということは古くから一般的な思考だったようだし、十六世紀のイエズス会宣教師たちの、補陀落渡海に関するらしい次のような見聞録も、海への投身の実際を伝えて実になまなましい。

男が往きたいと欣求している天国は海底にあり、そこには観音(カノン)と称す聖人がおり、(中略)おのおのはできるだけ早く〔海底の〕天国へ至ろうとして、背中に大きな石を縛り付け、袖にも一杯に石を詰め込むのである。私の見たのは七人の同行者が従っていた。そして私の最も驚いたのは、彼らがたいそう歓喜して船に乗り込み、海へ飛び込んでいったことである。(ガスパール・ヴィレラの書簡)

海へ身を投じた幾人かは、手に長柄の鎌を携えていた。それは道中、足元を邪魔する  荊の茂みを取り除くためと言われている。海へ投身しない人々もいるが、それらの人々は船底に大きな孔をあけ、そこへ栓をして後でそれを引き抜き船諸共に海へ沈むのである。(ルイス・フロイスの書簡)(注1)

 多くの渡海者たちは、船で沖に乗り出すけれども、入水して死ぬことを予定していた。死ぬことによって補陀落に到ることができると信じていた。しかし、そうだとすると、この発心集の入道の行いなどはどうとらえるべきだろうか。生きながらの渡海をめざしたこの入道などは、渡海の本旨からははずれた、「稀にある無鉄砲者」(注2)にすぎないのだろうか。けれどもそれにしては、資料をたどってみると「無鉄砲」の例が少なくない。げんに、発心集の著者によれば、この入道の行いは必ずしもオリジナルではないという。この条の終わりに、

一条院の御時とか、賀東聖と云ひける人、此の定にして、弟子ひとり相ひ具してまゐ るよし、語り伝へたる跡を思ひけるにや。

とつけ加えている。長明の時代には、古く一条院のころに賀東聖という人がまさに同じようにして補陀落渡海をしたという語り伝えがあり、この入道はその故事にならって渡海を敢行したのではないかと長明はいうのだ。

 その賀東聖の渡海のことは、諸書に断片的にみえるが、良寛続編地蔵菩薩霊験記の説話(古典文庫第二○三冊)にもっとも詳しい(適当に句読点を補う)。

長徳三年ニ、賀登上人阿波ノ国ヨリ来テ、彼寺ニ籠レリ。一両年ノ間ニ観音浄土補陀  落山ニ参ヘキ由ヲセメ祈玉フニ、感アリテ示現度々蒙テ、ツイニ長保三年八月十八日ニ弟子栄念ト虚舟ニノリ、午ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ガ如クニ去リ玉フ。男女貴賎、肝ヲ消ス。後ニノコル御弟子達、足ズリヲシテ哀ミケリ。ソレヨリ彼トコロヲ、足摺ノ御崎トハ申也。人皆所願アラバ、先地蔵菩薩ニ祈リ奉ルヘシ。

 巻六第十七話の後段である。前段には土佐国室戸津にある津の寺の、本尊地蔵菩薩の霊験が語られている。したがって後段中「彼の寺」は津の寺のこと、「示現」あったのは地蔵菩薩で、賀登上人はその地蔵菩薩の冥助によって補陀落渡海ができたということになっている。さて、ここには発心集の入道のように渡海の準備は語られていないけれども、「弟子栄念ト虚舟ニノリ、午ノ剋ニトモヅナヲトキテ、遥ナル万里ノ波ヲシノギ、飛ガ如クニ去リ玉フ」という渡海の描写は入水往生のようではない。「うつほ舟」、つまり丸木舟に乗って、地蔵・観音の冥助によって補陀落の方へひた走ったさまが見送った人々の驚きとともに語られている。できごとは古く一条朝の長保三年(一○○一)のこととされている。

hspace=15 いったいに、四国南部の岬、室戸や足摺からの渡海伝承には死のかげが薄い。「有漏の身をもて、ふだらく山を拝んと誓ひて、一千日の行ほうを始めて」、足摺より弟子とともに船出したが、吹き返され、さらに百日の行法を修して、今度はただ一人うつほ船に白帆をかけて船出したという理一上人(長門本平家物語巻四)。康元二年(一二五七)正月二十七日、土佐室戸の津から一身一葉の舟で補陀落往詣の素懐を遂げたという実勝上人(四座講縁起。注3)。十五世紀半ば、長年の修行の末、足摺から渡海した「補陀落渡海行者」、阿日上人(蹉蛇山縁起)。これらは伝承の域に属するけれども、いずれも生きながらの渡海がはかられている。蹉蛇山縁起(続群書類従第二十八輯上)には、「凡南方生身大士不退に影向あり」、「金剛福寺は去斯不遠の補陀洛界也」と足摺の地が補陀落に近く、その一部であるかのごとくに述べられている。また南路志(巻上)の最御崎寺(室戸岬にある)の項には、「南は則ち補陀落山に通じ、行者常に渡るを得」とあるという(注4)。今に伝えは残さないけれども、室戸や足摺の岬から生きながらの渡海成就を信じて、小船に身を託し、南海の波濤にもまれていった多くの名もない行者たちがあったのではなかろうか。

 補陀落を他界ではなく「此の世間の内」ととらえ、補陀落渡海を「入水往生」ではなく「此の身ながら」の参詣ととらえる精神の系譜があったのだと考える。そしてそれは本来的な「入水往生」からの逸脱なのではなく、それ自体も本来的であった。歴史的にも賀登上人や発心集の入道のように平安・鎌倉期からあり、現存資料からすれば補陀落渡海の一つのピークであったと考えられる戦国期にもそれは貫流している。

 さてこうした関心で研究史をふりかえってみると、すでに早く松田修氏が補陀落渡海に「信仰の名における自殺行をのみみること」に反対し、発心集の入道の例なども引用しながら、「補陀洛渡海における自殺的要素は、極めて稀薄である」と極言している(注5)。また宮家準氏も入水往生説を批判して、修験道研究と関連づけ、補陀落は「本来は修験者などに導びかれれば誰でもが行きうる、身近な山、島、海、湖、窟、滝などがある観音をまつった霊地」であり、補陀落渡海についても、「本来は渡海船に乗って、実際に存在する補陀落に到達することを目的としたもの」と述べている(注6)。現在の時点で、松田氏の補陀落渡海に自殺的要素は極めて稀薄であったという論は一面的だと思えるし、宮家氏の補陀落の本来が身近な霊地であったという論にもなお疑問をもたざるをえない。けれども、両氏がともに補陀落渡海の本質を入水往生には収斂しえないとし、生きながらの渡海の方を本来的と見ている点は重要だと考える。取り上げる資料に新味はないが、私もまた以上のような関心から、なおいくつかの事例を追ってみたい。

  渡海船

 (注記)

(1) 三橋健「イエズス会宣教師のみた補陀落渡海」(「日本思想史」五、一九七七年十月。 後、速水侑編『観音信仰』〈一九八二年〉に再録)の引用による。早く、臼井信義「補 陀落渡海」(「日本歴史」七一、一九五四年四月)も宣教師たちの補陀落渡海の見聞録 について述べている。

(2) 五来重『仏教と民俗 続』(角川選書九九、一九七九年)

(3)・(4) 日野西真定「室戸岬と足摺岬の補陀落渡海」(「今月の寺」五・六合併号、一九 八四年六月)の引用による。

(5) 松田修「補陀洛詣での死の旅」(「伝統と現代」一六号、一九七二年七月)

(6) 宮家準「補陀落渡海考」(「神道宗教」八八、一九七七年十月)