![]()
第四章 補陀落渡海考
一、 「此の身ながら」の渡海行
二、 風待ち、食料携行
三、 琉球に渡海した日秀上人
四、 二つの補陀落観
二、 風待ち、食料携行
康治元年(一一四二)八月十八日、藤原頼長は、千手経の師である権僧正覚宗から聞いた次のような補陀落渡海の話を日記に書き留めた。覚宗がまだ若年であった堀河院のときのこととする。
少年籠二那智一之時、有二独僧一云、我現身、祈レ参二補陀落山一。小舟上、造二立千手観音一、奉レ令レ持レ楫、祈請已及二三年一。祈二北風七日不一レ止也。如レ此経二数日一、得二大北風一。僧慶乗レ舟、向レ南礼拝無二止時一。差レ南遙行。僧都以為二希有一、登レ山見レ之。覚宗同見。七ケ日之間風不レ止。料知二願成就一矣。(台記。史料纂集本による)覚宗が那智籠りをしたとき、一人の僧がいて、こう言ったという。「私はこの現し身ながらにかの補陀落山へお参りすることを祈っている。そこで小舟の上に千手観音をまつり、船舵を持ちまいらせて、祈請すること已に三年に及ぶ。北風が吹き七日止まないことを祈っているのだ」。そうしたところ、数日後大北風になった。その僧は喜んで舟に乗り、南に向かって礼拝し続け、ついに南をさしてはるかに去ってしまった。僧たちは皆それを希有のこととして、山に登ってそのようすを眺めた。覚宗もいっしょに眺めた。その後たしかに七日間、北風は吹き続けた。そこでその渡海の成就したことを知った。
この僧が生きながらの渡海を果たそうとしたことは明らかである。また補陀落は七日ほどの帆走で到りつける南海にあると信じられていたこともわかる。小船の上に千手観音をまつり、それに船舵を持ちまいらせて祈請したというのは、観音の導きを期待したからだ。そして僧はひたすら風を待った。待つこと三年。そのこと自体も、僧の渡海が入水行でなかったことを示している。
風を待つことについては、熊野年代記の渡海上人の記録において、渡海の月が十一月に集中することが以前から注目されている。九世紀から十六世紀までの十三例の渡海記録中、十一月が十一例、十二月・二月各一例である。尾畑喜一郎氏の調べを参照すると、那智に近い潮ノ岬における風向は、十一月に渡海に有利な北東・北々東・東北東・北の風が多く、翌月からは渡海に不利な北西・西北西・北々西の風が多くなってくる(注7)。尾畑氏はこうした事実を示したあと、なぜかそこでの結論を、「総括的にいつて渡海の時期頃に有利な風を期待することは、極めて望み薄である」としているが、すでに指摘があるように、十一月が有利な風、つまり船を南方または南西方へ運ぶ風の吹くころであることが経験的に知られていたからこそ、上人たちの渡海の時期がほぼ十一月に一定しているのではないだろうか。彼らもまた生きながら補陀落に渡るべく、「北風の七日止まざる」ことを願った可能性がある。
次に、これも有名な智定房の例。天福元年(一二三三)三月七日、もと鎌倉武士であった智定房が、長年の修行の末、熊野那智の浦から渡海した。発心集に書きとめられた入道とほぼ同じ時代である。その用意は、
彼乗船者、入二屋形一之後、自レ外以レ釘皆打付、無二一扉一。不レ能レ観二日月光一。只可レ憑レ燈、三十ケ日之程食物并油等僅用意云々。(吾妻鏡・天福元年五月廿七日条。新訂増補国史大系本による)
というものであった。智定房が屋形に乗り込んだ後は外からことごとく釘で打ち付け、一扉とてなかったというあたりは、屋形は棺に擬せられていると読み取られることが多い。しかし、続く三十日分の食物、燈油を用意したという部分はどう読まれようか。その用意は入水往生を予定しているにしてはなまなましすぎる。「これだけあれば現身・生身のままに、補陀洛浄土に到達しうる、必要にしてかつ十分な計算による食糧であった」(注8)。智定房もまた、入水自殺を敢行したというよりは、生きながらの補陀落渡海をめざした人というべきだろう。屋形船には水葬の様式が反映しているにしても、またそれは人力にたよらず信仰の力によって観音の導きを期待する信仰の様式ではなかっただろうか。
やはり尾畑氏によれば、文政三年(一八二○)の奥書をもつ南紀名勝略志に、熊野からの補陀落渡海について次のようにあるという。
往古は補陀落山に渡るとて、新しく船を造り、二三月の食物を貯へ、風に任せて南海へ放ちやる。是は観音の道場へ生なから至ると伝へりと。中古より此事廃せり。只今も補陀落寺の住持遷化の時、死骸を舟にのせ此浦の沖に捨てるなり。是を補陀落渡海といふ。資料の年代は新しいとしても、熊野における補陀落渡海の歴史を身近なところで総括した文として重要だ。今はそうではないが、「往古」の渡海は、「新しく船を造り、二三月の食物を貯へ、風に任せて南海へ放ちや」ったので、それは「観音の道場へ生なから至る」はずのものであった。こう語られる古の渡海にしても、むろん現実には行く側にも見送る側にも死の危険は意識されていただろう。それにしてもしかし、それは平家物語の平維盛のように当初から入水往生をめざす行為とは明らかにちがっていた。彼らは風を読んで船出し、食物をとって細々と生きながらえつつ、観音の導きによってその浄土に達し、菩薩のもとで真に生きることを欲した。智定房もそうした渡海者の一人だったので、「暗い船の中に、渡海者は燃ゆるが如き補陀落願求の心に生きた」(注9)のだと思われる。
(注記)
(7) 尾畑喜一郎「補陀落渡海」(「国学院雑誌」第六五巻一○・一一合併号、一九六四年 十一月)
(8) 注5の論文。
(9) 橋川正「わが国に於ける補陀落信仰」(『日本仏教文化史の研究』所収、一九二四年)
![]()
![]()
![]()
![]()