第四章 補陀落渡海考

一、 「此の身ながら」の渡海行
二、 
風待ち、食料携行
三、 
琉球に渡海した日秀上人
四、 二つの補陀落観

 三、 琉球に渡海した日秀上人

 熊野那智などからの補陀落渡海の記録や伝承はさまざまにあるが、渡海後の消息がわかる例は、伝説はともかく、ほとんどない。中で琉球に漂着して、琉球国の仏教の弘布に活躍したという日秀上人の場合はきわめてまれな例に数えるべきであろう。琉球の文献で日秀上人の事績についてもっともまとまった記述をもつ琉球国旧記(雍正八年〈一七三○〉成立)は、その前半生および渡琉のありさまを次のようにしるしている。

加賀国大守、姓世名富樫、其生一子。是乃日秀上人也。其年十九歳、殺人害命。然後、日則生懴悔之思、夜則長無常之心。已発菩提之大願、遂志解脱之大道。潜出城外、深隠山中、遂尋師登高野山

幸遇高僧之、剃髪改衣。而発心勇猛、修行精進、終得密法奥旨、深究両部源底。于是欲補陀落、乗槎不櫓、泛海随波、流雲游洋面、漂蕩天外、竟到琉球国、金武郡属地、富花津

其夜国王、忽見毫光四射、有一僧天而降。良久而醒、便是一奇夢也。国王甚疑之。 明朝果有人。奏聞上人漂到之事。国王便遣使崇之。

既而上人、択地于金武村、創建小宮、作弥陀・薬師・正観音三尊、以為権現正体。其霊験数応。国王聞之、以為上人功徳。遂欲長留琉球。而遣使請上人、来京都。(琉球史料叢書本による)

hspace=15 その親は加賀国大守の富樫氏で、その一子として生まれたが、十九歳のとき人を殺め、それが発心の契機となって、やがて高野山をめざし、幸いに高僧の弟子となり剃髪した。以来修行に励み、真言密教の奥義を究めたという。日秀上人の出身地については、旧記に先立つ琉球国由来記(康煕五二年〈一七一三〉成立)巻十一(注10)や後述の薩摩側資料に上野国とあるのが信憑性に富む。加賀国は誤伝であろう。

 さて上人はやがて補陀落渡海を企て、槎に乗り、櫓は用いず、海に泛んで波のまにまに、流雲のごとく洋上に漂い、天外にまで漂蕩し、ついに琉球国金武郡の富花津に到ったという。上陸した上人は、金武村に土地を選び、小宮を創建し、弥陀・薬師・正観音の三尊を熊野権現の正体として作った。その霊験はしばしばであったという。この辺の旧記の記述は簡単だが、由来記により詳しい。同巻十一の「金峰山観音寺」の項に引かれる「金峰山補陀落院観音寺縁起」に次のようにある。

南瞻部州中山国、金武郡金武村、金峰山三所大権現者、弥陀・薬師・正観音也。日秀上人自作。按開基、封尚清聖主御宇、嘉靖年中、日域比丘日秀上人、修行三密、終而欲補陀落山、随五点般若、無前期彼郡中富花津。上人自安心、歎曰、誠知補陀落山。又行何所、求之耶。留錫安住。幸哉、此地霊也。向北方者、似蓬来、有富登嶽。衆峰羅立、似児孫。 前有大湖、名池原。日洗塵垢、浮般若船。松樹竹月、照三転四徳囿。実相実有春花、 開幽窓。自性本有。造化無現。窟無窮。按、天有一門。不人力。霊跡不挙数。霊験挙不説。大悲呼有応。此洞者、龍宮千万里、誰知根源哉。上人爰刻彼三尊、 建宮、奉権現正体也。(琉球史料叢書本による)

hspace=15 尚清王の治世は西暦一五二七年〜一五五五年、嘉靖年間は一五二二年〜一五六六年。金武郡富花津に漂着した上人は、そこが補陀落であることを知って感ずるところあり、そこに安住することを決意したという。その霊地であるさまは、山や湖などの自然相に現れて、中でも深い洞窟こそが観音の住処で、霊跡・霊験は数知れず、呼べば応じ、龍宮に続いており誰にもその深さは知れないという(注11)。この洞窟は、現在も金武町の観音寺境内にある鍾乳洞を指す。観音の縁起類に洞窟がその住処や示現の場所とされることは多い。

 おそらく熊野から渡海した上人が、漂着した沖縄本島東部の海岸近くを補陀落と観じたということに、私は興味をおぼえる。「上人自ら心を安んじ、歎きて曰く、誠に補陀落山たることを知る。又何所に行き、之を求めんや。錫を留めて安住せん」。そして上人はその地の深い鍾乳洞にこそ観音の住処を見出し、そのそばに寺を建て熊野三所権現の正体たる三尊を自ら彫ったのである。

 日秀上人が琉球のその地を補陀落と観じたということは、この寺院縁起の文飾とばかりはいえない。上人は琉球に滞在して活躍した後、薩摩におもむき、そこでも藩主に迎えられて活躍し、その地で没したのだが、その薩摩の一史料、「日新公御譜中」によれば、一乗院に新築した多宝塔に五仏を安置したが、そのうちの釈迦如来の心柱に「本願日秀上人、従補陀洛来作之、上野国住人」と銘があり、また「天文廿四年乙卯十月十二日」と日付もある(注12)。天文廿四年は西暦一五五五年。「補陀洛より来たりて之を作る」とあるところには、琉球が補陀落そのものだったという上人自身の認識をうかがうことができる。また、たんにそれが上人単独の認識ではなく、熊野信仰の伝播を通じて琉球を補陀落とする観念が上人の渡琉以前にすでに存在していたと私は推測するのだが、その問題にはここでは深入りしない(注13)。

 さて、日秀上人は補陀落渡海を熱望し、そしてついにそれを成し遂げた人ということになる。この人もまた、補陀落を「此の世間の内」にあると考え、「入水往生」によってではなく「此の身ながら」に参詣しようとした精神の系譜に立つというべきであろう。なお、薩摩の三光院の開山日秀上人行状記には、上人の渡海について、

娑婆界塵頓到補陀落浄刹。故求一扁舟、莫櫓莫棹。而手採香炉、泛漫々海上、自任風波之流蕩。則到于大洋、頃抜舟底。厥時鮑魚塞孔、少不湖水入。然不尽夜而 向南方流矣、竟着琉球国也。

とある由である(注14)。これによれば、上人は大洋のまん中で舟底の栓を抜き、入水を企てたようであるが、その時アワビが孔を塞いで助かったという話の展開も説話的で、補陀落渡海を入水往生ととらえる立場からの伝承とみておきたい。

 

 (注記)

(10) 「波上山護国寺」の条の「権現建社勧請之由来」には、熊野三所権現の本地たる弥陀・薬師・観音の三尊の彫像の次第や願いをしるした「軸銘」の項を含む。その署名に「日本上野国住侶渡海行者広大円満無礙大悲大願日秀上人随縁正衆□松々子 大明嘉靖二十三年甲辰十二月大吉日敬白」とする。嘉靖二十三年は西暦一五四四年のことで上人滞琉 中であり、この三尊像の上人作であることは他書にも伝えられているところだから、この軸銘は信ずるに足るであろう。

(11) 山・湖・洞窟を描くこのあたりの記述は、新訳華厳経の「補怛洛迦山」の記述や大唐西域記の「布洛迦山」の記述に通う。後者を挙げれば、「山径危険、巌谷欹傾。山頂 有池。其水澄鏡流出大河。周流繞山二十入南海。池側有石天宮。観自在菩薩往来遊舎」(巻十。大正蔵五十一)。

(12) 『鹿児島県史料旧記雑録後編一』の三六号。宮下満郎「薩隅の補陀落信仰小考」(「鹿児島中世史研究会報」四○号、一九八一年十二月)により紹介された。

(13) 英祖王の時代、咸淳年間(一二六五〜一二七四)に禅鑑という禅師がどこからともな く一艘の葦軽舟に乗って飄然と小那覇津に到着し、人々は彼を補陀落僧と呼んだという。 禅鑑は王に迎えられ、浦添城の西に補陀落山極楽寺を創建した。それが琉球国への仏教 伝播の始めである(琉球国由来記巻十、琉球国諸寺旧記序)。この人もまた補陀落渡海 僧の一人であったかもしれない。なお、琉球におけるその他の補陀落僧についての伝承、 また熊野信仰の受容については、宮家準「遊行宗教者 山伏の跡を求めて」(窪徳忠編 『沖縄における外来宗教の伝播と受容』所収、一九七八年)に詳しい。

(14) 注12の論文。