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第四章 補陀落渡海考
一、 「此の身ながら」の渡海行
二、 風待ち、食料携行
三、 琉球に渡海した日秀上人
四、 二つの補陀落観
四、 二つの補陀落観
補陀落をあの世ではなくこの世にある世界と考え、補陀落渡海を、「入水往生」ではなく生きながらに成就しようとした人々があったことを述べてきた。そこには当然、「入水往生」の場合とは異なる精神のあり方が認められよう。前提には、まず厳しい修行がある。そしてこの国土の南海に面する海岸や岬に出て、ある者は操船術を習い、北風の吹き続く時を選んで、多くは小船に一人か二人で乗り込み、南海をめざした。船には数十日分の食料を積んでいた。そうした彼らは、もとより死は覚悟の上であっただろう。しかし死は彼らにとって、入水往生の場合とはちがって企ての失敗を意味した。
海の果てにある未知の世界をめざしたからといって、もちろん彼らの精神は冒険家のそれではなかった。捨て身の行と観じ、一気に聖地に到らんとした点で、中国やインドをめざした求法者のそれともちがっていただろう。彼らは自らの修行の力をたのみ、観音の加護を信じた。そして果ては、すべてを海に、観音にゆだねたのだ。
南海に面した岬の突端に立つと、はてしない蒼海がひろがる。岩打つ波音は観音の声かとも聞かれ、海の奥は浄土へと誘うようだ。やがて北風の日、小船に帆を張って、沖へと乗り出す。あとはすべてゆだねるしかない。海に誘われ、小船を浮かべ、ゆだねる。そうした行為や精神のあり方は、必ずやこの海に囲まれた島国の人々が長い間に育んできた精神の基層のどこかに根ざしているだろう。記紀や風土記にいう常世や沖縄におけるニライカナイへのあこがれに、それは似ているだろう。今までにもくり返し言及されてきたように、たしかに、常世の観念など仏教以前に存在した他界観や死生観の上に、熱烈な観音信仰が重なって渡海行の実践は成立しているとみられる。
「生きながらの渡海」と「入水往生」。補陀落渡海にはこうして二つのタイプがあったのだ。そして、二つながら、仏教以前の他界観や死生観に根ざしながら、次のように、また仏教の教義に即してもいた、ととらえられる。
そもそも経典において、補陀落は阿弥陀仏の極楽浄土のように死して行くべき浄土として説かれたのではなかった。華厳経に、善財童子が求法の旅をする中で観音菩薩の住処として補陀落が説かれたので、それは南インドにある海上の山とされた。玄奘の大唐西域記にもその所在がしるされている。
奈良時代以前からの観音経(法華経観世音菩薩普門品)にもとづく観音信仰は、時代をふるごとに社会に浸透し、熱烈になるにつれ、補陀落信仰へも大きなエネルギーを与えた。そして平安時代以降の浄土教の隆盛にともない、阿弥陀仏の脇侍としての観音菩薩が強く観念され、六道輪廻する衆生を救うという六観音の信仰もさかんになる中で、観音の住処たる補陀落も来世的色彩を強く帯びるようになったと考えられる。そのようにして、結局は補陀落に二つの見方が成立したのだと思う。すなわち、一つは補陀落をあくまでもこの世にあるとする見方で、それを華厳経的補陀落観といってもよい。もう一つは補陀落をあの世にあるとする見方で、いわば浄土教的補陀落観といえるだろう。歴史的には、後者は前者を基盤として成立したはずである。そして、二つの補陀落観に即して「生きながら」の渡海と「入水往生」が敢行されたわけだ。阿弥陀信仰を背景にもつ後者は、極楽往生の一形式とも考えられた。那智の浦で平維盛が極楽往生を願って入水した例や、梁塵秘抄の、
観音大悲は船筏 補陀落海にぞうかべたる 善根求むる人しあらば 乗せて渡さむ極楽へ(仏歌)という歌はそのことを示している。
むろん、教義の面でも実践的なあり方においても、ここでいう華厳経的補陀落観と浄土教的補陀落観は密に関係、交渉しただろう。
(注記)
(1) 三橋健「イエズス会宣教師のみた補陀落渡海」(「日本思想史」五、一九七七年十月。 後、速水侑編『観音信仰』〈一九八二年〉に再録)の引用による。早く、臼井信義「補 陀落渡海」(「日本歴史」七一、一九五四年四月)も宣教師たちの補陀落渡海の見聞録 について述べている。
(2) 五来重『仏教と民俗 続』(角川選書九九、一九七九年)
(3)・(4) 日野西真定「室戸岬と足摺岬の補陀落渡海」(「今月の寺」五・六合併号、一九 八四年六月)の引用による。
(5) 松田修「補陀洛詣での死の旅」(「伝統と現代」一六号、一九七二年七月)
(6) 宮家準「補陀落渡海考」(「神道宗教」八八、一九七七年十月)
(7) 尾畑喜一郎「補陀落渡海」(「国学院雑誌」第六五巻一○・一一合併号、一九六四年 十一月)
(8) 注5の論文。
(9) 橋川正「わが国に於ける補陀落信仰」(『日本仏教文化史の研究』所収、一九二四年)
(10) 「波上山護国寺」の条の「権現建社勧請之由来」には、熊野三所権現の本地たる弥陀・薬師・観音の三尊の彫像の次第や願いをしるした「軸銘」の項を含む。その署名に「日本上野国住侶渡海行者広大円満無礙大悲大願日秀上人随縁正衆□松々子 大明嘉靖二十三年甲辰十二月大吉日敬白」とする。嘉靖二十三年は西暦一五四四年のことで上人滞琉 中であり、この三尊像の上人作であることは他書にも伝えられているところだから、この軸銘は信ずるに足るであろう。
(11) 山・湖・洞窟を描くこのあたりの記述は、新訳華厳経の「補
洛迦山」の記述や大唐西域記の「布
洛迦山」の記述に通う。後者を挙げれば、「山径危険、巌谷欹傾。山頂 有池。其水澄鏡流出大河。周流繞山二十入南海。池側有石天宮。観自在菩薩往来遊舎」(巻十。大正蔵五十一)。
(12) 『鹿児島県史料旧記雑録後編一』の三六号。宮下満郎「薩隅の補陀落信仰小考」(「鹿児島中世史研究会報」四○号、一九八一年十二月)により紹介された。
(13) 英祖王の時代、咸淳年間(一二六五〜一二七四)に禅鑑という禅師がどこからともな く一艘の葦軽舟に乗って飄然と小那覇津に到着し、人々は彼を補陀落僧と呼んだという。 禅鑑は王に迎えられ、浦添城の西に補陀落山極楽寺を創建した。それが琉球国への仏教 伝播の始めである(琉球国由来記巻十、琉球国諸寺旧記序)。この人もまた補陀落渡海 僧の一人であったかもしれない。なお、琉球におけるその他の補陀落僧についての伝承、 また熊野信仰の受容については、宮家準「遊行宗教者 山伏の跡を求めて」(窪徳忠編 『沖縄における外来宗教の伝播と受容』所収、一九七八年)に詳しい。
(14) 注12の論文。
付記:本稿は『水門』(みなと)19号(2001年2月刊)に発表したものの再掲である。なお、補陀落渡海については2001年11月、根井浄氏の大著『補陀落渡海史』 が出版された。
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