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第五章 常世と補陀洛
一、 はじめに
二、 常世信仰とその変質
三、 常世神と観音
四、 補陀洛の常世化
五、 習合の様相
六、 おわりに
二、 常世信仰とその変質
上代文献にあらわれる常世信仰の例は、すでに原初のおもかげを失っているものが多い。一例として、年代としてはもっとも古いものの一つ、皇極紀三年(六四四)七月条にしるされた常世信仰を挙げてみよう。
駿河国不尽河のほとりで、大生部多(おほふべのおほ)ら巫覡の集団が橘の樹や曼椒(ほそき。山椒のこと)などにつく緑の虫を「常世の神」とし、「此の神を祭らば、富と寿(いのち)とを致す」「常世の神を祭らば、貧しき人は富を致し、老いたる人は還りて少(わか)ゆ」とふれながら虫祭りを村里の人々に勧めてまわった。「都鄙の人、常世の虫を取り清座(しきゐ)に置きて、歌ひ蒐ひ福を求めて珍財を棄捨(す)つ」とある(日本書紀の引用は新編日本古典文学全集本による。以下同じ)。この騒動は、民を惑わすものと見られ、やがて葛野の秦造河勝が大生部多を打つことによって鎮静化された――。安永寿延氏は、ここにみられる常世信仰について、「七世紀の中葉にいたって、民衆の間ですら常世に関する素朴な原初的観念がほとんど失われ、かつての共同体全体の繁栄を約束した呪術はみるかげもなく衰弱してしまい、個々の人間の富と長寿をみちびく魔術、あるいは『新興宗教』の対象に変質してしまった」と述べている(注3)。ほぼその通り、原初的な常世信仰は、後にみるように村落を基盤とした周期的共同体的な性格のものだったと考えられるのに対して、この常世騒動は「富と寿」と、個々人の欲望に訴え、突発的・非共同体的である。社会的には、大化の改新前夜の氏族共同体的な社会が崩壊し、律令制を準備してゆく時代、民衆はもはや原初的な常世信仰だけには安住できず、こうした新奇な常世信仰に狂奔したのであった。
またこの事件には、固有信仰と仏教が対決し、結局民間の固有信仰を国家仏教が弾圧した宗教間の争いという側面もある。大生部多を打ったという秦造河勝は新羅系の渡来系氏族で、長年聖徳太子に近侍し、広隆寺(蜂岡寺)の建立にもかかわったという国家仏教側の人物であった。民間の常世信仰の変質の一因には、この事件に象徴されるように、このころから強まった国家による地方への仏教の強制ということがあっただろう。
上代文献における常世信仰の例の多くは、いまの例にみたように、そこにそのまま原初的な常世信仰が保存されているというのではなく、それぞれの時代の国家社会や文化のあり方の中で常世信仰の変質または展開の相を示している。また、王権をささえる神話や伝説の中に取り込まれて語られたり、大陸の神仙思想の影響を受けて不老不死の理想郷と化したりしたものも多い。けれども、それらの中にも原初性をかいまみせる資料がないわけではない。
たとえば、「是の神風の伊勢国は、則ち常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国」(垂仁紀二十五年三月条)、「古語(ふること)に云はく、『神風の伊勢国、常世浪寄する国』といふ」(伊勢国風土記逸文)などは、古代国家の版図の中に位置づけられた伊勢の国の讃美というイデオロギーはあらわであるにしろ、その背後に、海のかなたに常世の国があり、そこから聖なる波が寄せてきて海岸を洗い、聖化するという原初の民俗的な常世信仰の一面をみせている。
早くに折口信夫が注目しているが、沖縄本島北部、大宜味村謝名城の海神祭でうたわれるウムイ(神歌)に、「ねらや潮や さすい」(ニライカナイからの潮がさしてくる)という歌詞がある(注4)。「常世浪」は「ねらや潮」と同想である。また、常陸国風土記の総記の中に、「謂はゆる水陸の府蔵、物産の膏腴(かうゆ)なり。古の人、常世の国と云へるは、蓋し疑ふらくはこの地ならむか」と述べている条も、現実の常陸の国を常世の国そのものとするのは官人意識や神仙思想の影響による強引な比喩であるにしても、「常世の国」というものが物産豊かな豊饒の国と観念されていたことはうかがえる。
だが原初的な常世信仰をかいまみせるもっとも重要な資料は、スクナビコナの神についての伝承であろう。スクナビコナは、オホアナムチノミコト(大国主の命)に協力して国造りをした神として国家神話に取り込まれ位置づけられたが、また、
夫れ大己貴命、少彦名命と力を戮(あは)せ心を一にして、天下を経営(つく)り、復顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)と畜産との為は、其の病を療(をさ)むる方を定め、又鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭(まじなひ)の法を定めき。是を以ちて、百姓今に至るまでに咸(みな)恩頼(めぐみ)を蒙れり。(日本書紀神代第六の一書)とみえるように、農業生産や医療の神でもあった。さらに、「常世にいます」酒の神でもあり(神功記紀の歌謡)、また稲種をもたらし(出雲国風土記飯石郡多祢郷)、医療のための温泉の開発も行ったとされる(伊予国風土記逸文湯郡)。その登場、退場のしかたにも注目すべきで、古事記には、
かれ、大国主の神、出雲の御大(みほ)の御前に坐す時に、波の穂より天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(ひむし)の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服にして、帰(よ)り来る神あり。……しかる後は、その少名豐古那の神は、常世の国に度(わた)りましき。(新潮日本古典集成本による)とあり、日本書紀神代第六の一書には、退場のしかたが、
其の後に少彦名命、熊野の御碕に行き至り、遂に常世郷(とこよのくに)に適(ゆ)きます。亦曰く、淡島に至りて、粟の茎に縁(のぼ)りしかば、弾かれ渡りまして、常世郷に至りますといふ。と描かれている。このような資料からうかがわれるスクナビコナの原像は、従来も考察、確認されてきたように(注5)村落の年毎の季節祭において、海のかなたの常世から来訪し、村落の人々に豊饒をもたらし、幸福を与え、そしてまた常世に去ってゆく神である。このスクナビコナの神はそのまま常世の性格、それも原初的な性格をあらわしている。すなわち、常世は海のかなたにあってこの世に豊饒と幸福をもたらす神の世界であった。
村落の年毎の季節祭――琉球の村落の祭祀空間に身を置くとしばしば感じられることだが、海を渡ってきた神を迎えての祭祀空間には、神と村人との厳粛で親しげなまどいがある。村人は神に豊饒と幸福を真摯に願い、神もそれに真摯に応じようとする。神は迎えられ、祭られ願われ、ともに遊び、そして別れを惜しまれながら帰ってゆく。毎年そうしたことが繰り返されている。祭祀の時空は閉鎖的・円環的であり、そして感動に満たされている。そしてかつてはそのような祭祀を軸として人々の一年の営みがあった。原初的な常世信仰も、神と村人とのそのようなまどいのうちに完結していただろう。
さて、常世は海のかなたにあってこの世に豊饒と幸福をもたらす神の世界であると述べてきたが、しかし、常世の他界としての原初的な性格はそれにとどまらない。従来も指摘されてきたことだが、熊野の沖で浪の秀を踏んで常世に去ったミケイリノノミコト(神武即位前紀)や、走水の海に入水してやはり常世に去ったと考えられる弟橘姫の姿(景行記紀)は、常世が死者の行く国であったことを暗示している。この点は上代文献の「常世」の用例のみを考察するばかりの立場からはみえにくい。けれども死は、記紀神話においては根の国や黄泉の国に分け持たされた常世的要素でもあった。また海のかなたの他界があらゆるものごとの根源とされ、必然的に死者の国の性格をももったことは、琉球のニライカナイの例が濃厚にそれを示している。常世とニライカナイを比較考察する方法により、谷川健一氏は、「常世はたんに死者たちの霊の住む海彼の国というだけでは十分でない。また遠来の神がそこから訪れる南のゆたかな土地というだけでも不十分である。この二つが分かちがたく癒着したものが常世である。つまり、時間としての他界と空間としての他界とがみごとにまざりあった世界、それが常世である」と述べている(注6)。ニライカナイの場合と同様、古代において人々、特に民衆が海のかなたの常世に強く引きつけられたとすれば、それは常世の世界が、豊饒(生)ばかりでなく、また死ばかりでもなく、豊饒と死が一体としてある根源的な構造をなしていたからこそである。
しかしそのような常世の信仰も、時代とともに変質していった。先には七世紀の例を引いたが、次には九世紀の例を挙げてみよう。
文徳実録、斉衡三年(八五六)十二月条に、鹿島郡の大洗の磯前に神が一尺ばかりの二つの石の姿で出現して、神がかりして、我は是大奈母知少比古奈命(おほなもちすくなひこなのみこと)なり。昔此の国を造り訖り、去りて東海に往ぬ。今、民を済はむが為に、更に亦来たり帰るなり。と託宣したという記事がある。オホナモチとスクナヒコナは先にもふれたように、記紀神話や風土記・万葉集において協力して国造りをしたとされる神々である。そしてこの神(小石)は翌年官社の預かりとなり(同、天安元年八月条)、やがて「常陸国に在る大洗の磯前(いそざき)、酒列(さかつら)の磯前の両神を薬師菩薩名神と号く」(同、天安元年十月条)と、那賀郡にある酒列の磯前の神とともに「薬師菩薩」の名が与えられた。この両神は延喜式神名帳にも、いずれも名神大社として、「大洗磯前薬師菩薩明神社」(鹿島郡)、「酒列磯前薬師菩薩明神社」(那賀郡)としてみえる。
託宣には国造りの記憶が持ち出され、国造りが終わった後、神は東海に去ったのだとしている。スクナヒコナの去ったのは常世の国であったが、ここでの東海も、その常世の国をさすと考えてよい。折口信夫の説いたこと(注7)にも関するが、東へ東へと版図を広げていった大和国家の東の果てが青波洗う常陸の海岸であった。この神の神体たる小石もその海岸に漂着したとある。常陸もまた常世の国から神が訪れるという常世信仰の根づいた「常世の浪の重浪寄する国」であったのであり、このたびの来訪はそれを基盤としていたと考えられる。
しかしながら、ここにみられる神には原初の常世神のおもかげはいかにも乏しい。このたびの神の帰来は突発的であり、そしてその目的は「民を済はむが為」であり、また「薬師菩薩」と名づけられたところにも後世的な性格があらわである。先の引用中に「顕見蒼生と畜産との為は、其の病を療むる方を定め、又鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭の法を定めき」とあったように、オホナモチとスクナヒコナはもともと救済的性格をもっていたともいえるが、しかしそれは「方を定め」「禁厭の法を定めき」とあるように、神授の「方法」として共同体に対して与えられたものであった。
その与えるかたちや内容は、琉球の村落の祭祀で今も各戸を訪れている仮装神のふるまいを髣髴とさせる。たとえば石垣島の川平で行われている節祭(シツ)では、当地の古風な農耕暦における大晦日の前夜に、蓑・笠・覆面の神、マユンガナシが東方の島から来訪し、村内の各戸を巡るが、各戸の庭先で六尺棒を突く姿勢で唱えるカンフツ(神口)の内容が農作・畜産・子孫の繁栄などに関する教授であり(注8)、すなわち共同体への「方法」の伝授である。
ところが、ここでの救済は、そうであるよりも、薬師如来との習合からすれば、個々人の病苦や不安を対象とするものらしい。薬師如来との習合は、病苦を除くという両者の職能の共通項が媒介となったわけだが、同時にこの神のその職能への特化は、共同体全体に対して農作の豊饒や幸福をもたらすというこの神の原初的な性格がすでに失われつつあることをものがたっている。人々にとってのこのカミのありかたはもはや、同じく九世紀に書かれた日本霊異記の多くの説話にみられる、個々人の苦を救うホトケのありかたに近かったわけだろう。
また、ここで民間的な神々を代表する常世神がホトケに同化していることの意味も小さくない。それは常世信仰の衰弱をものがたると同時に、常世神の属性や機能がホトケのそれに包摂されてゆく神仏習合の過程を例示している。
そして、この例でホトケの浄土が海のかなたに考えられた点にも注目すべきである。薬師如来の浄土、東方浄瑠璃世界は途方もない無限のかなた、ガンジス河の砂数の十倍に等しい仏国土を越えたかなた(「東方過二仏土一、十恒河沙等仏土之外」、薬師如来本願経)にあるとされる。それがここでは常世神の東海に重ねられている。それは、遠方はかならず海であるという日本の地理上の条件と、他界を現実的にこの世の延長に考えるという日本的思惟による変容であり、ホトケの浄土の常世化にほかならない(注9)。
ここに登場しているのは病苦を除くことを中心的な機能とする現世利益のホトケ、薬師仏だが、現世利益という点ではもっと幅広い功徳をほどこす観音菩薩が歴史上ではもっとも信仰された。そこで常世の神と観音との習合、常世と補陀洛の習合というテーマが浮かび上がってくる。
(注記)
(3)安永寿延「常世の国――日本的ユートピアの原像――」(「文学」、一九六八年十二月号)
(4)折口信夫「琉球の宗教」(『全集』第二巻所収、初出は一九二三年)。また、比嘉政男『沖縄民俗学の方法』一一六頁(一九八二年)。
(5)参考、注3の論文。また、吉井巌「スクナヒコナの神――神統譜から締め出された神――」(『天皇の系譜と神話 二』所収、初出は一九六八年)、神谷吉行「少名毘古那神と王権伝承――常世国からの顕現をめぐって――」(「相模国文」二〇、一九九三年三月)、西澤一光「上代文献における「常世」をめぐって」(「青山学院女子短期大学紀要」四八、一九九四年十二月)。
(6)谷川健一『常世論』六二頁(講談社学術文庫版。単行本は一九八三年)
(7)折口信夫「妣が国へ・常世へ」(『全集』第二巻所収、初出は一九二〇年)
(8)川平村の歴史編纂委員会『川平村の歴史』(一九七六年)。
(9)このような仏教的他界観の日本の民俗的風土による変容については、山折哲雄氏に論がある(「仏教的世界観と民俗的他界観」、『仏教民俗学大系 3 聖地と他界観』所収、一九八七年)。
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