第五章 常世と補陀洛

一、 はじめに
二、 
常世信仰とその変質
三、 
常世神と観音
四、 
補陀洛の常世化
五、 
習合の様相
六、 
おわりに

 

  三、 常世神と観音

 前節でみたように、もともと村落に豊饒と幸福をもたらす共同体の神であった常世の神は文献時代にはすでに変質し、個々人の富と長寿、あるいは病苦などからの救済を願う対象になっていた。変質といっても、むろんそれは一変したというのでなく、琉球の村落では現代でもニライカナイの神を迎える古来の祭祀が毎年おごそかに行われているように、古代の村落でも伝統的周期的な常世神の祭祀は長く継続されただろう。しかし、もはや人々は、神と親しくまどいをする閉鎖的・円環的な時空にのみ安住しうる時代社会に生きていたのではなかった。古代社会におけるさまざまな矛盾の中に投げ出された人々が生きがたい世を生きるためには、新しい信仰対象に向かわざるをえなかったのである。常世神の変質は、そうした人々の欲求に対応しようとする、固有信仰の側における改革の動きであったともみられる。

 けれども、大生部多らの狂躁的な「新興宗教」が一時の騒動に終わったように、またせっかく人々の救済のためにと出現した常世神、オホナモチスクナヒコナノミコトが「薬師菩薩明神」とホトケに名を変えて祀り上げられ、以後は目立った活動がなかったらしいように、さらには平安朝以降には常世信仰そのものの語られることが乏しくなったらしいように、常世神による個々人の救済はさほど成功したようにはみえない。いうまでもなく、個々人の救済のためにはもう早くにホトケの時代が到来していた。中でも現実の苦悩を救済するホトケとしては、観音菩薩がもっとも信仰された。

 観音は、衆生が苦難に遭遇したときその名を唱えればあらゆる所に出現して救いの手をさしのべるという徹底した現世利益の仏として登場した。そうした観音観は、むろん法華経普門品(観音経)や、それにもとづく霊験説話の流行によって世間に流布したのだった。その時期は、おおよそ中国では五世紀以降、日本では七世紀以降とみられる。

 普門品には、衆生のいわゆる七難を除き、三毒を離れ、二求を満足すると観音の功徳を説き、また観音が衆生を救済するときに種々の形を以て現れると三十三身を説いている。また阿弥陀仏や薬師仏などとちがい、衆生とともにこの世にあって身近な所で常に衆生を見守っている。まことに観音は、信仰の立場からは、

コレ弥陀ハ本師ナリト云ヘドモ、浄土ニシテ化導ヲタレ、観音ハ音声円通ノ一門ヨリ出デテ娑婆世界ノ群生ヲ利益シ玉フ。(清水霊験記。続群書類従二六下)

として身近に感じられるホトケであった。そして信仰の歴史は、日本霊異記以降のおびただしい観音霊験説話などをここに持ち出すまでもなく、長い時代にわたってこの観音の普門示現という属性に人々が最大限に依存・期待してきたことをものがたっている。

 常世神と観音は人々の現世的な幸福や苦悩の救済にかかわるという、いわば両者の職能において重なるところがあった。これが常世と補陀洛を結びつける要因の一つになったと考えられる。そして観音信仰のすみやかな普及、常世信仰の変質や衰弱とともに、早くから常世神の職能はやすやすと観音菩薩の職能の一部に包摂されてしまったとみられる。たとえば、まさに常世神の領分であった海域においてすら、観音信仰に取って代わられる趨勢をみせているのが、日本霊異記の次の話であろう。

 七世紀後半のころ、百済救援に向かった伊予の国の越智直は、捕えられ唐の国に連行され、日本人八人である島に抑留された。彼らは観音像を得て祈り、やがて小さな舟を造ってその像を安置し、祈りつつ船出したところ、おかげを蒙って首尾よく筑紫に到着できた。後にこの観音は越智直によって伊予の寺に祀られ、越智氏は子孫相続いて帰敬したという(上巻十七縁)。ここでは観音は越智直らの信心に応え、彼らの小船による唐から筑紫までの決死の航海を守護したわけだ。

 他方、上代文献によれば、そのころ日本で伝統的に海上交通を支配していたのは、常世にゆかりのある海神(ワタツミ)だった。海神の神学は、記紀神話において天皇の神学の体系に取り込まれながらある程度の発達をみせているが、ここでは万葉集の数例を挙げるにとどめておこう。万葉集では「海神」の語例が二十余もみえ、海神は海の沖を領し、海中に宮を構えていると観念されていたことがわかる。その海神の宮は、高橋虫麻呂の「水江の浦島の子を詠む歌」(一七四〇)には「常世」と同一視されており、神武即位前紀においてミケイリノノミコトが海神の宮を「常世郷」として渡っていった場合と同様である。海神はまた霊威ある白玉を所持していた。そして海を支配するのみならず、雲を起こし地上に雨水をもたらして農耕に関与するのも海神であった。沖から白波を寄せ、潮流を支配し、「海神の恐(かしこ)き道」(三六九四)と、航海者には航路を支配する畏怖すべき存在であった。だから航海時には、

ありねよし対馬の渡り海中(わたなか)に幣取り向けて早還り来ね(六二)

海若(わたつみ)のいづれの神を斎祈(いの)らばか往くさも来さも船の早けむ(一七八四)

などと海神に加護が祈られたのである。

 ところが霊異記の越智直の話では、海上の守護はそうした伝統的な、常世にゆかりのある海神ではなく、観音に求められたのだった。この越智直の話はけっして特異なものではなく、中国で五世紀ころからさかんになった観音霊験説話の流れの中にあるものとして東アジア的な視野の中でみる必要があるが、それはともかく、この話は人々の生活の具体的場面で、常世神に代わって観音の加護が求められるようになったことをものがたる一例ではあろう。