第五章 常世と補陀洛

一、 はじめに
二、 
常世信仰とその変質
三、 
常世神と観音
四、 
補陀洛の常世化
五、 
習合の様相
六、 
おわりに

 

  五、 習合の様相

 次には、その常世と補陀洛の習合の様相について考察してみよう。先には常世信仰の変質や衰弱について述べたが、しかしだからといって海のかなたに神の世界があるという、民族の深層意識にも根ざすような観想がたやすく滅びてしまったとみるのは誤りである。常世信仰が人々の現実生活のうえに及ぼす効力は減退したとしても、海のかなたへの思念は潜在的にも生き続け、世々、人々の思考や社会現象に影響を及ぼし続けてきたのではないか。補陀洛の常世化は、その一つの顕著なあらわれではなかったか(注11)。

 その習合の様相をうかがう資料として、いま平安時代以降の寺院縁起、および補陀洛渡海の史実を取り上げてみたい。

 観音を本尊とする寺院の中に、いわば「海上がりの観音」とも称すべき縁起をもつ類型がある。その本尊、あるいはその本尊を刻んだ霊木が補陀洛から海岸に流れ着いたとするのである。

 たとえば、有名な東大寺二月堂の観音の縁起には、天平勝宝三年(七五一)のころのこととして、実忠和尚が十一面の悔過の行儀を行うのに必要な生身の観音を難波津で勧請したと伝えている。

実忠和尚攝津国難波津に行て、補陀落山にむかひて香花をそなへて海にうかべ、懇誠をぬきいでて祈精勧請す。かの閼伽の器はるかに南をさして行て又かへり来る。かくする事百日ばかりを経て後、つゐに生身の十一面観音まのあたり補陀落山より閼伽の器にのりて来給へり。(二月堂絵縁起。続群書類従二十七下所収)

 実忠和尚は難波津に行って、補陀落山に向かって香花を供えた。不思議なことに、その閼伽の器は難波津と補陀落山の間を何度も往復した。やがて和尚の熱心な祈請が通じ、「補陀落山」から「生身の十一面観音」がはるばる難波の海にやって来たというのだ。ここには、海のかなたに補陀洛があり、海路を通じてそこと往復できるということが信じられている。

 香川県の白峰寺など四カ寺の千手観音像も、「補陀落山より流れ来れり」とされる(白峰寺縁起。群書類従二十四所収)。東京の浅草寺の観音像が、漁夫の網にかかってきたことは有名だ(武蔵国浅草寺縁起。続群書類従二十七下所収)。沼義昭氏は、さらに東京品川の品川寺・千葉県銚子の飯沼観音・神奈川県鎌倉の長谷寺・同大磯の高麗寺・三重県津市の御厨観音・和歌山県の道成寺・広島県の阿伏兎観音なども海から出現した観音の伝承をもつことを指摘し、さらに「尊像そのものではないが、霊木を海から得て彫刻したという伝説も多い」として、千葉県の那古寺・香川県の志度寺・大阪府茨木市の総持寺の観音を挙げている。那古寺・志度寺は、山号を「補陀洛山」とする(注12)。それらの寺院縁起や伝説において、観音や霊木が流れ来るその出所は必ずしも補陀洛に限られるわけではないが、基本的なモデルは補陀洛にある。

  このような、私にいう「海上がりの観音」の類型の存在は日本独自とはいえないまでも、沼氏もふれているように、海から神が寄り付いてくるという古い民俗信仰と関係が深いにちがいない。常世信仰に補陀洛信仰が重層、習合したのである。

 次に、補陀洛渡海の視点からながめてみよう。補陀洛渡海は小船に乗って海のかなたの補陀洛へ到ろうとする企てであり、平安時代から江戸時代にかけて行われた。その発船地としては、那智・室戸・足摺・那珂湊(茨城県)などの太平洋岸、玉名・加世田などの九州西岸が挙げられ、さらに堺・松山・博多などでも行われたことが知られる(注13)。

 いくらか便宜的な分類だが、私は、補陀洛渡海には二つのタイプが認められると考えている。補陀洛をあくまでもこの世にあるとして、生きながら補陀洛への到達をめざすもの(「生きながらの渡海」)と、補陀洛をあの世にあるとして、「入水往生」をするものとである(注14)。

 では、前者の「生きながらの補陀洛渡海」をめざした場合は、渡海者たちはいずれの補陀洛をめざしたというのだろうか。観音信仰の発祥の地、南インドの補陀洛なのか、それとも東シナ海に浮かぶ中国の普陀山なのか。そのことをうかがいうる資料は、しかし必ずしも多くない。

 発心集の「或る禅師」は、「補陀落山こそ、此の世間の内にて、此の身ながらも詣でぬべき所なれ。しからば、かれへ詣でんと思ふなり」として、次のように渡海した。

土佐の国に知る処ありければ、行きて、新しき小船一つまうけて、朝夕これに乗りて、梶取るわざを習ふ。その後、梶取りをかたらひ、「北風のたゆみなく吹きつよりぬらん時は、告げよ」と契りて、其の風を待ちえて、彼の小船に帆かけて、ただ一人乗りて、南をさして去りにけり。妻子ありけれど、かほどに思ひ立ちたる事なれば、留めるにかひなし。空しく行きかくれぬる方を見やりてなん、泣き悲しみけり。是を、時の人、こころざしの至り浅からず、必ず参りぬらんとぞ、おしはかりける。(新潮日本古典集成本による) 

 「南をさして去りにけり」とあり、そのめざされた「補陀落山」が南方に位置することはわかるが、それ以上の説明はない。「時の人」も、「こころざしの至り浅からず、必ず参りぬらん」とその行き先を漠然と思ったばかりである。

 「生きながらの補陀洛渡海」の様態はこの例に典型的で、他の例でも一月分あるいは二三カ月分の食糧を携えるなどして、南方の海の彼方がめざされている。ある僧が那智から北風に吹かれて「七日」間で補陀洛に到ったらしいとされる例もある(台記、康治元年(一一四二)八月十八日条)。しかし目指された補陀洛はインドの補陀洛であるとも中国の普陀山であるとも語られず、ただ波濤を越えた南方の海のかなたというイメージのみが優越している。

 ここには日本において独自に発達した補陀洛観が認められると思う。めざされたのは現実のいずこの補陀洛でもなく(現実の補陀洛をめざした渡海は皆無だったと断じるわけではないが)、観音信仰の熱情と渡海への思念の中で独自に成立した、いわば幻想の補陀洛とでもいうべきものである。このような補陀洛観は、日本以外にはみられない。そして、渡海者たちにいだかれたはずの、海のかなたに神います異郷を思い、あこがれるという心理は、古代人の常世への思いや琉球の人々のニライカナイへの思いと同質のものである。彼らの補陀洛幻想の根底には、後世に至っても民族の心意の奥深くに流れてきた常世信仰が存在したと考えられるのだ。

 補陀洛渡海の後者のタイプ、すなわち「入水往生」をめざす渡海は、たとえば次のように、十六世紀のイエズス会宣教師たちに観察されている。

彼等の云ふ所に依れば天国中海水の下に在るものあり。右の人の行かんと欲せしは之にして其サントはカノン(観音)と称し、(中略)彼等は船に乗り、又天国の道にある荊棘を刈る為め大なる鎌を携ふ。彼等は衣を更め最も好き物を着し、各々背に大石を縛り付け袖に石を充し、速に天国に達せんとす。予が観たる人は七人の同行を伴ひたり。船に乗り海に投ずる時大に歓喜せることは予が非常に驚きたる所なり。(「一五六二年堺発(永禄五年)、パードレ・ガスパル・ビレラより耶蘇会のパードレ及びイルマン等に贈りし書簡」(注15))

 これは堺の沖で実見されたものだという。イエズス会宣教師たちに記録された同様な海への入水は、伊予でも博多でも例がある(注16)。那智の浦で平維盛が極楽往生を願って入水した例もこれに類する。

 この入水往生の場合も、船を用意し、海に乗り出すわけで、「生きながらの渡海」の場合と同様な様式がとられた。その渡海の場所は、必ずしも古来有名な海に突出した補陀洛渡りの場所ではなかったし、また沖に乗り出せばただちに入水するのだからそうである必要もなかった。けれども逆にいえば、やはり海でなければならなかった、というところに、その補陀洛観はあらわれている。すなわち、海に入水しさえすれば、魂は観音の導きによって海のかなたの補陀洛に行けるという思考がそこにはある。そのような彼らの姿は、大昔のミケイリノノミコトや弟橘姫の姿に重なるだろう。彼らがめざしたのは、前節で述べた浄土化した補陀洛であり、やはり海のかなたに幻想された。あるいは、引用中の「天国中海水の下に在るものあり。右の人の行かんと欲せしは之にして其サントはカノン(観音)と称し」、「各々背に大石を縛り付け袖に石を充し」などの記述からすれば、補陀洛浄土は海底にあると彼らに思念されていたのかもしれない。それは常世の一形態である「海神の宮」が海底に思念されたことと似ており、そこにも常世信仰と補陀洛信仰の重層をみいだしうる。

 以上、補陀洛の常世化、つまり日本古来の常世信仰に補陀洛信仰が重なり習合して海のかなた(あるいは海底)への補陀洛幻想が成立したようすを、例示とともにみてきた。

 

 (注記)

(10)第二章参照。

(11)注6の書には、「常世は死者のたましいのおもむく世界というだけではない。それは日本人の無限の経験の記憶の集積がいつしか無意識化されて沈殿しているところである。そこからして、常世は日本人の認識の祖型であると考えねばならぬ。常世は日本人の認識の祖型なのであるから、それは幾千年もまえから今日にいたるまで、たえず再生し、増幅される」とある(六三頁)、また、「補陀洛渡海は常世の観念の延長上におこなわれた行為であった」(三七頁)などの言及もある。

(12)沼義昭「海と観音」(『日本人の信仰 限りなき慈しみ 観音』所収、一九七九年)

(13)根井浄『補陀落渡海史』(二〇〇一年)

(14) 第四章参照。

(15)村上直次郎訳・渡辺世祐註『耶蘇会士日本通信 上巻』(『異国叢書改定復刻版』、一九六六年)

(16)根井浄「外国人がみた補陀洛渡海」(注13の書所収)に詳しい。