|
|
〜行程〜
8月24日(金)
名古屋駅新幹線北口改札口前集合 名古屋 →
円鏡寺(本巣郡北方町)→舎衛寺(岐阜市城田寺)
→佐野普門寺(山県市佐野) → 岐阜(泊) 8月25日(土)
岐阜 → 薬師寺(各務原市那加雄)→ 真長寺(岐阜市三輪)→
弥勒寺跡、関市円空館(関市池尻) → 願成寺(岐阜市大洞)→ 浄土寺(岐阜市福富)→ 岐阜(泊)
8月26日(日) 岐阜→ 美濃和紙の里館(美濃市)→ 清水寺(加茂郡富加町)→
可児郷土歴史館 → 明鏡寺(加茂郡八百津町)→ 願興寺(可児郡御嵩町)→ 美濃加茂市(泊) 8月27日(月) 美濃加茂市 → 市之倉さかずき美術館 →
永保寺(多治見市虎渓山町) → 下半田川保存会(瀬戸市町下半田川)→ 名古屋駅解散 8月26日(日)(第三日目) 美濃和紙の里会館うだつの上がる町並み 美濃市は岐阜県のほぼ中央に位置し、美濃和紙の産地であると共に、「うだつの上がる町並み」をはじめとする国選定美濃町重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして、火災の延焼を防ぐために造られた屋根のある防火壁のことで、美濃市には日本で最も多く「うだつ」が残されている。 最初に「美濃和紙の里会館」に立ち寄る。美濃和紙の歴史や製造工程、紙すきに使う道具などの展示と共に、ちょうど美濃和紙のあかりコンクールの作品展が行われており、美濃和紙を色付け加工した色とりどりのルームライトなどの照明器具が並べられている。和紙をとおして漏れるやわらかな光と志向を凝らした意匠は見ていて心和まされる。ショップには模様を漉き込んだ色とりどりの美濃和紙や、それを加工した便箋や小袋などの小物が並べられている。 隣の部屋では一人500円で、手漉き和紙の体験が出来る。沢山の小学生が並んで手漉きを行っている。手漉きした状態の紙をシャワーで洗う時にスポンジに水を含ませて紙の上に垂らすと、紙に水玉模様が残る。これを乾燥させると模様の入った和紙が出来るのだそうだ。 我々も和紙を使うことはもうほとんど無いが、過去の歴史を展示するだけでなく、このように手漉きの体験や和紙を使った間接照明などの良さを若い人に知ってもらうということも必要なのだろう。 美濃和紙の里会館から美濃市街に入り、バスでうだつの上がる町並みのメイン通りに入る。お土産屋さんなどもあると聞いていたので、竹下通りくらい賑やかなのかと思ったら、朝早いこともあるのだろうが通行人はほとんどいない。バスでゆっくりと通り抜けることにしてブラブラ歩きは省略。 清水寺 岐阜県加茂郡富加町加治田 二天門 県文 江戸時代
十一面観音坐像 重文 一木造 彫眼 像高92.0cm 平安時代後期 地蔵菩薩立像 県文 檜材 寄木造 玉眼 像高73.0cm 室町時代 県道沿いに駐車場があり、ここから山に向かう参道を進むと楼門がある。入母屋造りの二層の正面に唐破風をつけた珍しいものだ。門の左右には持国天・増長天像を安置し、二天門と呼ばれている。 天門をくぐると清流沿いに結構長い石段が続き、登り切ったところに城郭風の石垣が築かれ、鐘楼と本堂、社務所が並んでいる。高速道路に近い場所なので平地なのかと思っていたが、結構厳しい高さだ。 現在は、無住となっているが、町の人々が共同してお守りしているという。 今回一番に返事をいただいたのが清水寺であったのでてっきりご住職がおられるものと思っていたが、お守りの方が頻繁にお参りされているのであろう。 聞くところによると、この寺には檀家はなく、町の有志の方々の篤志で守られているのだという。 十一面観音坐像は本堂の裏手の収蔵庫に安置されている。十一面観音像の坐像は珍しく、重要文化財に指定されているものも数体しかないが、その多くが右手を膝に、左手に華瓶を執る姿をしており、この像のその例にもれない。但し、本像の場合、華瓶を失っており、蕾をつけた蓮の枝を執る。 肩幅や胸に厚みを持ち、腰を細く絞り全体的に穏やかな像であるが、やや華奢な上半身に対し、膝前の張りは広く厚みを持っている。彩色は黒漆の上に朱を置き、その上に金箔を貼っているが、剥落は進んでいるものの当初の彩色や金箔を所々に残している。 頭頂の化仏も細部は摩滅しているが、当初のもので、素朴な表情が見られる。 本像は頭胴部を両肩まで含めて一木から彫り出しており、両肘から先を別木とするものの、肘から曲げた指先まで一材で彫り出している。通常は手首から先や指先などは木の年輪に沿って折れやすいため別木にすることが多いが、一木造の意識を残しているといえよう。また、膝部の衣文は深く明瞭で鎬立っており、翻波式衣文も見られる。 台座は八重蓮華座で、吹き寄せ式の蓮弁は薄く、平安時代の優美な柔らかいもので、本像と一具のものと考えられる。 ![]() ![]() 本尊に並んで安置される地蔵菩薩立像は、小像ながら、漆下地の上に細かな切金が全身に施されている。延命地蔵として信仰が篤く、普段は十一面観音像よりも地蔵菩薩像のお参りの方の方が多いそうだ。 平成元年庫裏から承和5年(838)に書かれた清水寺縁起の写しが発見され、これによると、京都・清水寺の縁起と共に、清水寺開山の延鎮上人が美濃で奇譚を得、坂上田村麻呂の協力でここ清水寺を建立した旨が記されているという。 このことから、全国の清水寺の会に唯一僧職の無い身分で参加し、平成10年には、京都・清水寺の森清範貫主をはじめ数百人の清水寺関係者が来山したという。 ![]() 可児郷土歴史館 岐阜県可児市久々利 大日如来坐像 県文 檜材 寄木造 彫眼 像高78.0cm 平安時代末期 無量寺蔵
可児市のはずれにある郷土歴史館に無量寺の大日如来坐像が寄託されているということで、歴史館に立ち寄る。 いくつかの近世の仏像に混じって、大日如来像坐像が安置されている。鎌倉時代の像であるが、写真で見るよりも立派な像で、慶派の中央風の像のように見える。 この像を眺めていると、担当の方が見えられて近世の仏像の解説や、歴史を説明してくださるが、次の予定まで余り時間が無いため早々に引き揚げる。 明鏡寺 加茂郡八百津町伊岐津志 観音堂
重文 貞治7年(1368)
聖観音坐像 県文 檜材 寄木造 漆箔 玉眼 像高50.0cm 貞治7年(1368) 可児市から一山超えた木曽川沿いにある。 峠超えの道は狭く、マイクロ一台が通るのがやっと。対向車が来ないことを祈るばかりでひやひやしながらつづら折の道を越えていく。 ちょうどお寺の前に国道のバイパス工事が行われており、仮道路を通ってお寺に入っていく。 境内は広く明るい正面に禅宗様式のこじんまりとした仏殿が建ち、本尊聖観音坐像は厨子の中に安置されている。仏殿の四方上部に設けられた波形の格子窓が仏堂の雰囲気を和らげている。 本尊は典型的な宋様の像で、制作は室町時代と思われるが、崩れた部分は無く、面相や衣の表現も丁寧で、観音堂と同時期の制作と思われる。 本坊で冷たいお茶を頂くが、玄関は太い虹梁を縦横に用いた古様の建物で、奥に真新しい座敷が増設されている。お寺の敷地をパイパスに提供したことによって新築したのであろうか。主柱はケヤキ、梁はヒノキを使った贅沢な建物である。 峠越えの道をまた引き返し、願興寺に向かう。 ![]() ![]() 願興寺 岐阜県可児郡御嵩町御嵩 本堂 重文 天正9年(1581) 鐘楼門 重文 釈迦三尊像 重文 文殊菩薩45.0cm 釈迦如来79.6cm 普賢菩薩45.0cm 鎌倉時代 寛元二年(1244) 十二神将立像 重文 寄木造 彫眼 像高約116〜123cm 平安時代後期 阿弥陀如来立像 重文割矧造 素地 彫眼 像高164.2cm 平安時代後期 阿弥陀如来坐像 重文 寄木造 漆箔 玉眼 像高82.5cm 鎌倉時代 薬師如来及両脇侍像 重文 寄木造 彫眼 素地 漆箔 像高薬師如来137.3cm 鎌倉時代 日光・月光菩薩 像高206.6cm 平安時代 四天王立像 重文 寄木造 彫眼 彩色 各像高257.6〜271.5cm 平安後期(多聞天のみ鎌倉時代) 名鉄御嵩線の終点御嵩駅からすぐの場所で、かなり広い境内には土産物屋さんまである。 周りに広い縁側を巡らせた本堂は、民衆が浄財を持ち寄って建てたと伝えられるように、不揃いな柱や梁など、無骨な姿ながら圧倒的な存在感を持っている。 庫裏に伺うと、作務衣をきた大黒さんと思われる女性が本堂に案内して下さる。その後、隣の宝物館に入り、般若心経を唱えて下さる。これが力強く抑揚があり、聞いていて惚れ惚れとするお経だ。同行者にも般若心経を唱える人がいるが、その勢いには押されっぱなしである。宝物館には、28体の仏像が、所狭しと並べられている。東濃の正倉院と呼ばれるだけのことはある。特に四天王像は3mを越える巨像で、堂内を圧倒している。これでもかという位太造りな体躯はやや粗造りながら、破状のない姿は本尊の守り神に相応しい。 本尊薬師如来は、12年毎の秘仏で、来年の4月1日から12日迄御開帳されるという。十二神将はややおとなしい像であるがほぼ等身大の像で、十二体揃っているのは貴重である。 壇上にはその他、二組の来迎形式の観音勢至菩薩が残されており、本来はもっっと多くの尊像が伝えられていたことが分かる。釈迦三尊像は獅子に乗る文殊菩薩と、象に乗る普賢菩薩を左右に従えた説法印を結ぶ釈迦如来の三尊である。中尊の底板に1200年の銘記があり、基準作例として重要である。少し前に水野敬三郎氏と大津歴博の寺島氏が調査に来られたという。 寺伝で運慶作という阿弥陀如来坐像は、姿勢もよく品のある像で、運慶かどうかは兎も角、鎌倉時代の慶派の正統仏師の作と思われる。 このお寺は、江戸時代に兵火によって堂宇のほとんどを焼失しているが、それでもなおこのように平安時代から鎌倉時代までの多くの像を有していることは、この仏たちがいかに地元の人々によって大切にされてきたかを物語っている。
|
|
|