貞観の息吹き 
高見 徹

8. 金剛定寺 聖観音立像(滋賀県蒲生郡日野町) 

 

 金剛定寺は聖徳太子が建立した48精舎の一つで、奈良時代からの大寺であったと伝える。康永元年(1342)の年銘の金剛定寺伽藍図(江戸時代の模写と考えられている)によれば、広い境内に金堂、三重塔など多くの堂塔伽藍や坊舎が立ち並ぶ様子が偲ばれる。
 しかし、度重なる戦火に遭い、織田信長による焼き討ちや、文亀3年(1503)に起った領主蒲生氏にかかわる兵乱で一山ことごとく焼亡した。現在は本堂である大悲閣と茅葺きの庫裏、鐘楼を残し、手入れの行き届いた美しい寺である。
 大悲閣は内部を土間とし、中央に一段高い厨子を安置する。この形式は鎌倉時代以降、禅宗様の仏殿で主流となるが、古くは飛鳥時代、奈良時代から見られる形式である。

 厨子内に安置される本尊十一面観音坐像は、室町時代の作で眼は玉眼であるが、カヤ材を用い髪や唇に彩色を施す他は全くの素木像で、平安時代の造像法に則って造られたとされる。永年秘仏とされているため、彫ったばかりのような美しい木肌を見せている。

 厨子の背後には、不動明王及二童子立像及び聖観音立像(共に重文)をはじめとする諸尊を安置している。
 不動明王立像は、両目を開き上下牙を表し髪を総髪とする古様を示しており、総髪は毛筋を線描のみで表す。制迦、矜羯羅の二童子は、表情豊かで動きがあり愛らしい。

 聖観音立像は、諸尊の中では最も古様で、平安時代も早い頃の制作と考えられる。見る方向や照明によって印象が随分異なる像で、一見すると茫洋とした面相は穏やかであるが、意外に無骨な面相を持つ。高く大きく結い上げた宝髻と柔らかな面相の表現は、どこか天平時代の塑像を彷彿とさせる。また、上半身の彫りは浅く簡略化されているが、膝前の衣文は深く丁寧で翻波式衣文を表すなど古様な面をみせている。

 湖東地方には、石馬寺、長命寺、瓦屋寺など、聖徳太子建立と伝える寺が多く、四十八精舎と伝えており、聖徳太子が仏法を広めた観音の化身と言い伝えられるように、これらの寺には平安の古様を伝える観音像が残されている。行基や良弁開基の寺院と同様、歴史的事実かどうかは兎も角、早くから仏教文化を受容し霊験寺院として敬われてきた背景があり、これらの像のもつ的確な造形表現には、奈良文化を受け継いだ当地の仏教文化圏の奥深さを感じさせる。


 金剛定寺の野條叡信御住職は、音楽大学を卒業され、天台声明の研究家として名高い方で、密教声明を研究するために48歳の時に僧侶になられたという経緯の持ち主である。現在も合唱団の指導、作曲などを手掛けておられる。

 御住職が20年前に比叡山から来られた時は寺は荒れ放題、庫裏はあばら屋であったそうで、御住職のご尽力によって、やっと今の美しい境内になったという。

 御住職の暖かい人柄に接し、声明への思い入れをお伺いしていると、御本尊や聖観音像の穏やかな姿が多くの人々の尽力によって守り継がれてきた事がわかる