高 見 徹

第二日目

〜行程〜

11月2日(金)みやぎ沼宮内駅 天台寺(岩手県二戸市)→ 東楽寺(盛岡市) 盛岡市泊

11月3日(土)凌雲寺(花巻市東和町)→成島毘沙門堂 → 立花毘沙門堂(北上市黒沢尻町立花)
         → 水上市立博物館 → 藤里毘沙門堂(奥州市江刺区藤里) 水沢市泊

11月4日(日)黒石寺(奥州市水沢区黒石町)→ 正法寺 → 二十五菩薩堂(一関市東山町松川)

11月4日(日)

黒石寺

 黒石寺の佇まいもずいぶん変わった。
  約40年前に訪ねた時は学生時代でお金も無く、みんなで当時の堂守をされていた渡辺熊次さんのご自宅に泊めて頂いた覚えがある。現在は、尼僧が御住職をさ れているが、熊次さんのお話をしたところ、熊次さんはもう三十三回忌を過ぎたそうで、当時のお宅も周辺の道路整備で無くなってしまったそうだ。
  同行の一人も前回伺った時はちょうど尼僧が始めて着任したときだったそうで、お互い年をとったという事ですね、などと、昔話で盛り上がる。そういえば本堂 の屋根は現在鉄板葺だが、本来は銅板葺の予定だったが当時の住職がお酒好きでその分まで飲んでしまったため、鉄板葺きにせざるを得なかったとのこと。ご住 職に「そういえば昔、熊次さんの家でお酒を飲んだでしょう。そのお酒も銅板葺代金の一部だったのかも」と銅板泥棒の共犯にされてしまった。
 薬師如来坐像は本堂脇の収蔵庫に、伝 慈覚大師坐像と共に安置されている。

● 薬師如来坐像 重文 像高126cm カツラ 一木造 漆箔仕上げ 平安時代初期 貞観4年(862)
● 四天王立像 像高157.0〜169.3cm カツラ、ハルニレ 彩色 一木造
● 伝 慈覚大師坐像 重文 像高67cm カツラ 一木造 平安時代 永承2年(1047)
○ 日光月光菩薩立像 県文 像高100cm ヒノキ 寄木造、漆箔仕上
○ 十二神将像 県文 104〜116cm ヒノキ 寄木造、彩色仕上
  妙見(みょうけん)菩薩像 55cm

 薬師如来坐像は、平安時代の最古の記銘像として知られているが、大粒の螺髪とつり上がった目尻、よく通った鼻筋、分厚い唇厳しい面相が近寄りがたい森厳さを見せる。右肩に懸かる衣の端部や膝前の衣文もこれでもかという位の迫力を感じさせる。
 胎内名にある貞観4年(862)は、蝦夷の最後の英雄・アテルイの死から還暦にあたる60年後で、アテルイを模して制作されたともいわれるが、かつての畏敬の念を現した像といえるのかも知れない。
本像は肩巾が広く、正面観は量感があるが頭部や胸部は意外と薄い。これは、本堂の四天王像も同様であり、この地方の特徴と言えるのかも知れない。
  薬師如来坐像の隣には、慈覚大師と伝える僧形像が安置されている。この像は、本尊と同様に分厚い唇や厳しい面相を持ち、衣文線も平安初期彫刻を思わせる鋭 い鎬を見せるが、胎内銘により永承2(1047)年に制作されたことがわかる。本尊の制作から2世紀にわたって、このような緊張感のある像が造り続けられ ていたことは、長い間緊張感の続いていたこの地方の特殊性を表しているのであろうか。
 本堂には、薬師如来像の厨子の周りに脇侍である日光・月光菩薩立像と四天王像が安置されている。
四天王像は、本尊と同様正面からの印象に比べ側面観が薄い上に上半身が異様に小さく、お世辞にもバランスが良いとは言えないが、緊張感のある迫力を感じさせる像である。



正法寺

  黒石寺から少し山間に入ったところにある。室町時代の建立であるが、かつては曹洞宗の奥羽地方の本山であり、日本一の茅葺き屋根の本堂を持つ寺として知ら れている。重文の本堂は、長年にわたって屋根の葺き替えと修理が行われており、今年修理を終えて10年振りに公開されたとして話題となっていた。
 葺き替えられた大屋根はビロードのように輝いており美しい。本堂の木組み自体も雪の重みで傾いていたそうで、建った状態で各柱を建物ごとジャッキアップして修理したそうだ。
 本堂内の各部屋も畳や長押など新調されており、新しい建物のようだ。
 大きな庫裏や座禅堂なども渡り廊下でつながっており随分広い。修行僧さぞかし居るのかと思って聞くと、通常は三人しか居ないそうだ。
 今回の旅行で一番観光客が多かったのがこの寺で、観光バスがひっきりなしに到着していた。

 正法寺から少し寄り道をして、鍾乳洞、川下りで知られる紅葉峡を通って途中昼食をとってから松川に向かう。
 今日の昼食も道の駅となった。最近はどこに行っても道の駅が整備されていて、われわれのような十数人のグループにはとても便利だ。おまけに地元の人が買いに来るような産地直売のものも多く、下手に駅前でお土産を買うよりも安く珍しいものが買える。
  昼食は「ほどいも」入りのてんぷらうどんをたのむ。「ほどいも」はジャガイモなどに比べて栄養価が何倍も入っているということで最近流行のイモの一種らし い。味はどうってことは無いが、歯応えが良い。帰りがけには試食をいっぱいした後、8個400円のりんごを思わず買ってしまった。ウーン重い。


二十五菩薩堂

  旧松川町に入り、小学校の前を通過して公民館に入る道を探すが見当たらない。よく見ると、小学校の校庭の門に小学校跡とある。廃校になった小学校をそのま ま公民館として使用しているようだ。建物の入り口を入ると右手は体育館になっており、舞台や幕もそのままだ。よく見ると校庭の部分にはブランコや滑り台も ある。
 校庭の右奥にお堂と収蔵庫があり、仏像群は収蔵庫の中に安置されている。

○ 来迎阿弥陀及菩薩像(一括)県文
○ 二十五菩薩像群 桂材 布張り漆箔仕上 平安時代中期

  収蔵庫の中は正面と左右にコの字型にガラスで仕切られた棚が作られている。正面に等身大の薬師如来坐像を安置するが、その回りは全て二十五菩薩像や飛天で 埋め尽くされている。全て頭部を失っており、剥ぎ目も緩み、朽損も激しいが、二十五菩薩の一体、一体が優美でしなやかで体躯を持っている。座った膝を緩 め、ややのけぞって身を休めているのであろうか、膝やすねに纏わり付くもの表現も心憎いばかりだ。しばらくの間、頭や手足が無いことを忘れて見とれてしま うような美しさである。
 細かく見ると、木彫の表面に薄く乾漆を置いて細かい麻布を貼り、その上に漆箔を施したあとが所々に見られる。
  ガラスの棚の下を開けてみると、おびただしい数の菩薩の手足や連弁台座の部品等、それに混じって仏像の頭体の断片などが並べられている。この中から組み合 わせれば何体もの完成品が出来るのではないかと思うほどだ。像の主要部だけでなく、これだけのパーツを保管し後世に大切に残してきたのには、人並みならぬ 苦労があったものと思われる。
 本像の伝来は不明であるとはいうものの、東北の他の尊像とは一線を画す洗練された藤原盛期の本格的な造像であることから見て、都から来た一流の仏師によって制作され、平泉文化の中心をなす寺院に安置されていたことは間違いないと思われる。
 西洋では頭部や手足などを失った彫刻をトルソと称し、失なわれた部分の想像力をかきたてるが故にその美的効果が高められるとも言われ、自らギリシア彫刻の断片に魅力を深く感じとっていた彫刻家ロダンは、意識的にトルソの彫刻を制作したという。
 奈良・唐招提寺に伝わる如来立像は東洋のトルソと称されるが、松川の二十五菩薩像もそれを凌ぐ仏像群と言えよう。
 
 




 収蔵庫の裏手には、二十五菩薩堂と額のかかったささやかな小堂が草むらに囲まれて建っている。
二十五菩薩像は、かつて村人が大雨の翌日、川に流されていたのを丁寧に拾い集め、このお堂に収めたとも伝えられるが、長年にわたりこの小さなお堂に残され護られてきたのかと思うと、よくもまあ、あれだけのものを伝えられたものだと、あらためて感心せざるを得なかった。


 



 帰りは、新幹線の時刻まで間があったため、水沢市美術館と達谷窟に寄ってから水沢駅から、帰京となった。


  今回の旅行は、最近の東京寧楽会としては久々の正統派旅行で、東北の有名処の仏像を中心に回ったが、まさに風土を感じさせる天台寺の尊像や、蝦夷との戦い の中で造られた崇高な成島、藤里両毘沙門天像、姫神権現を中心とする十一面観音信仰を伝える東楽寺の諸像、平泉文化の煌めきを伝える二十五菩薩堂の優美な 菩薩たちなど、やはり東北地方の仏像は一括りで論じることは出来ず、それぞれの風土と歴史の中で理解しなければならないとあらためて感じた次第である。

(文責 高見 徹)



 

第二日目