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〜行程〜 8月27日(木) :JR近江八幡駅集合 →
願成就寺(近江八幡市)→ 石馬寺(東近江市) 8月28日(金) :東方寺(栗東市) →
橘堂(草津市)→ 金勝寺(栗東市) 8月29日(土) :櫟野寺(甲賀市甲賀町) →
大岡寺(甲賀市甲賀町)→ 正福寺(湖南市) 8月30日(日) :阿弥陀寺(甲賀市) →
飯道寺(甲賀市)→ 少菩提寺址(湖南市) 8月28日(第二日−前半) ■ 東方寺(とうほうじ) 栗東市小柿4−5 瑠璃光山 東方寺 時宗 10世紀ごろ当地に天台系寺院として創建されたとみられる。 現在は、時宗に属している。時宗への改宗は、東方寺の本寺が改宗した1300年代と思われる。 江戸時代後半から無住寺となり、その後は地域民の手により護持されている。 ●薬師如来坐像 県指定 木造
84.6cm 平安時代 10C後半
●月光菩薩立像 市指定 木造 166.8cm 平安時代 10〜11C ●十一面観音像 市指定 木造 164.5cm 平安時代 11〜12C ●兜跋毘沙門天像 市指定 木造 103.8cm 平安時代 11〜12C ●四天王立像 市指定 木造 約100cm 平安時代 11〜12C ●聖観音立像 市指定 木造 100.2cm 平安時代 10〜11C さあ、二日目も元気を出してホテルを出発。 朝一番は東方寺。草津駅から程近いところにあり、バスで30分ほどで到着。
朝も早いのに、数人の土地の方々の顔が見える。 東方寺は無住の寺で、今日は、わざわざ迎えに待っていていただいたのだ。 お堂に上げていただき、お話を聞くと、平安時代には、大きな伽藍を構えていたようで、今も「堂の前」「堂の東」「鐘撞」といった小字名を残しているそう だ。 地域の人々で護持されてきたそうである。 近江の寺々は、無住となり地域の人々によって守られてきた寺々が数多いのが特色だ。 この東方寺も、なんと江戸時代後半頃から無住寺となり、人々の手のみによって守られてきたのだ。 いただいた数枚の説明冊子の「由緒書き」の最後は、このような言葉で結ばれていた。 「東方寺は、地域の寺として地域民の手により
守られ、また地域は東方寺を核として千年の歴史をきざんできたのである」
なにやら胸に熱いものがこみ上げてくるような言葉で、土地の人々の東方寺への深い信仰と愛情を知らされたような気がした。 堂内には、数多くの古像が肩を並べるように安置されている。 一具のものではなく、つくられた年代に差はあるようだが、こんな小堂に10体以上の平安仏が立ち並ぶのは、なかなか壮観。 すべて、ヒノキの一木造り。 ![]() 東方寺本堂内 東方寺 安置諸仏 眼を惹くのは、本尊薬師如来像と月光菩薩像。 薬師像は、なかなか古様だ。 二尺七寸余(84.6cm)というこの薬師坐像の像高は、天台系の薬師坐像にしばしば近い値が見出され、比叡山根本中堂の根本薬師(5尺5寸)を意識し て造られた可能性が大きいそうである。 まさに天台系の薬師坐像。 朱衣金体であったのだろうか?今では古色の素木像のように見える。 その昔、風雨にさらされっ放しだった時期でのあったのだろう。木肌が荒れてすり減って、あしゃれて、木目が浮き立ったようになっている。 それでも、重量感があり、磨耗したなかにも堅く引き締まった造形を十二分に感じさせるものがある。 何故か、目鼻立ちや唇の線刻だけは、くっきりとしっかり表現されている。 きっと当初のものではなく、一度すり減ってから後に、再度彫り起こしたのではないだろうか? その辺を加味すると、立派な平安古仏だが「県指定」でも仕方ないかと、一人納得。 ![]() 東方寺 薬師如来坐像
エキゾチックな顔つきは、なかなかの魅力。 無理筋承知で大胆に言えば、東寺観智院の唐請来・五大虚空蔵菩薩の顔つきに似ている感じがする。 近いところにある常教寺の聖観音像も、天台系でインド風エキゾチックな容貌。 この種のエキゾチックな顔つきは、密教請来初期の像容の系譜にあり、その頃の像を模した古様像なのかもしれない。 ■ 橘堂(たちばなどう) 草津市志那町 室町時代に兵火により焼かれたといわれ、小堂のみが残る。 ●十四面六臂観音立像 市指定 木造
107cm 平安時代 10C末
さあ、次は期待の橘堂。
他にも半径2キロ以内に、平安前期〜中期の古仏が残る、常教寺、宝光寺、川原観音堂、集堂などが密集している。 きっと、近江からの水運積出拠点の要地であったのだろう。 狭い道を往くと、ちょっとした遊び場のような小さな広場に、ぽつんと真四角のお堂が立っている。 橘堂だ。このお堂の中に、「あの美しいお顔の観音像」が祀られているのだ。
滋賀県立近代美術館で開催された「近江路の観音さま」展だ。 この展覧会は、平安期を中心とした近江の観音像50躯ほどが一堂に会した、大変充実した仏像展であった。 なんと展覧会ポスターに、橘堂観音像のクローズアップ写真が使われ、図録の表紙を飾ったのだった。 「橘堂・観音像、そんな仏像あったっけ?」 仏像好きでも、あまり知られていなかった仏像が、一躍展覧会のスターの座に大抜擢。 写真に写し出された観音像のお顔の、穏やかで心惹き込まれるような美しさに、多くの人が魅了されたのであった。 左右両脇面をもつ、十四面六臂の観音像だ。 バランスが良く取れ、技巧面も含めて「出来が良い」という言葉がそのままあてはまるような、1メートルほどの仏様。 もとより素木像だったのだろうか、本面の髪のところには細かいノミ痕を残している。 この仏様を拝していると、 「おだやかな気持ち、落ち着くような気持ち、ほっとしたような気持ち」 になることが出来る。 迫力とかダイナミックなモデリングとは縁遠く、やや平面的な造形だが、程よい大きさ、バランスの良い造形、シャープで洗練された刻線に、親近感と心温ま る美しさを感じる。 ![]() 橘堂 観音菩薩像 両脇面を持つ観音像は多くは無いが、有名な像には、近江では渡岸寺十一面観音、善勝寺千手観音があり、京都には法性寺千手観音がある。 橘堂観音像は、法性寺千手観音のお顔、雰囲気に似ている。 もとより平安中期を代表する国宝像、法性寺千手観音の造形の素晴らしさの足元にも及ばないが、「おだやかさ」というフレーズで語られる平安中期仏像の魅 力を、我々に訴えかけてくる好もしい仏様だ。 これだけの仏像が、どうして重要文化財ではないのだろうか? 「草津市、市指定文化財」なのである。 どうも、正面の本面が寛文13年(1673)の補修と解されているからのようだ。 拡大写真を見ると、確かに、何故か本面は別材だ。 展覧会を企画した高梨純次は、 「本面は、丸々とした全体感を持ち、天冠台の
形式や表現も古様であり、眉から鼻にかけてのカーブも明快で、引き締まった唇の表現もバランスが整い・・・・・・・・」
と記して、別材ながら当初制作の時代のものと考えているようだ。この観音像がお気に入りの私も、「きっとそうに違いない」と、つい観音様の肩を持ってしまう。 お堂に案内いただいたのは、吉田家の奥様。 聞くと、この観音像「吉田家の個人蔵」なのだそうだ。 吉田家は、近江国守護佐々木氏の支流の土豪で、長らく庄屋役を努め、代官ともなった名家。 元の母屋は「吉田家住宅」として、県指定文化財になってい る。
そして、橘堂観音様は、吉田地区の人々の厚い信仰を集めているのだそうだ。 立派な黒漆塗り、金色の装飾金具のお厨子の中に、祀られている。 「個人で、こうしてお守りしていくのも、結構かかりもあって大変なのですよ」 と、奥様はあまり大変そうでもなく、明るく話された。 観音像は、限られたときにしか開扉しない「秘仏」として、守られている。 今日は、観音様が祀られるお堂やお厨子を観るだけでも満足という心持で、美しい観音様の姿に思いを致したのでありました。 ■ 金勝寺(こんしょうじ) 栗東市荒張1394 金勝山金勝寺 天台宗 寺伝によると、聖武天皇勅願により東大寺初代別当の良弁僧正が開基し、8世紀中ごろまでに近江の25別院を総括するする金勝山大菩提寺として、法相宗興 福寺の仏教道場となった。 古文書等からは、奈良時代、金肅菩薩と呼ばれた応化聖人がこの地に開山、その遺地に弘仁年間(810〜824)興福寺僧・願安が国家鎮護のための伽藍を 建立したのが、金勝寺の始まりとされる。 この金肅菩薩が、良弁その人とされている。 平安後期には天台宗に改宗したと考えられる。 文治元年(1185)、天文18年(1549)に諸堂を消失、現在の本堂は、約400年前の仮堂。 ●軍荼利明王立像 重文 一木造 古色
360.5cm 平安時代 9Cor10C後半 二月堂
●毘沙門天立像 重文 一木造 彩色 55.1cm 平安時代 10C後半 虚空蔵堂 ●虚空蔵菩薩半跏像 重文 一木割矧造 彩色 194.0cm 平安時代 11C後半 虚空蔵堂 ●釈迦如来坐像 重文 寄木造 漆箔 218.8cm 平安時代 12C 本堂 ●僧形八幡神坐像 県指定 ー木造 彩色 55.1cm 平安時代 10C 里坊 ●女神坐像 県指定 ー木造 彩色 29.4cm 平安時代 11C〜12C 里坊 軽い昼食を済ませたあとは、金勝寺へ。 金勝寺への道は、狭すぎてバスが入れない。登り口にある道の駅「こんぜの里」からはタクシーに分乗、曲がりくねった急坂を10分ほど登って、やっと到 着。 金勝寺は、湖南に連なる峰々の中でもひときわ目立つ竜王山(金勝山:標高605m)の山頂にある。
眼の前を、大きなオニヤンマがゆったりと横切っていく。オニヤンマをみるなんて、何十年ぶりではないだろうか? 参道は、連なる緑濃き杉の大樹かこまれ、苔むす自然石の石段が続く。 「深山幽谷に佇む、密教寺院」の言葉が、ぴったりくる。 何時きても、吸い込まれるような自然の霊気のようなものが、あたりに漂っている。
この金勝寺は、東大寺初代別当、良弁僧正の開基と伝えられる。 近江の「良弁のテリトリー」を象徴する寺院なのである。 そして、湖南の古代の山岳信仰を伝える寺なのである。 参道を往くと右手に小堂がある。二月堂と呼ばれているお堂だ。 そこには、金勝寺の山岳信仰の神秘性をそのまま表現したような仏像が遺されている。 巨大な軍荼利明王立像。 見上げると、3m余の巨像で、強烈な迫力で眼前に迫ってくる。 でかい!そして得もいわれぬ、不思議で異様なパワーを発散してくる。 ![]() 金勝寺 軍茶利明王立像 田中日佐夫は、 「この軍荼利明王の巨像を仰ぎ見るとき、私は
山岳仏教のもつ、山の神秘な力と人間の意志の力がぶつかり合いながらせめぎあい、そして人間は自然の知恵のなかに包み込まれていく、なにものともしれぬ力
を感じるのである。」(近江古寺風土記)
と、述べている。 そのとおりで、良弁開基を伝える山岳信仰の地、金勝寺に相応しい仏像だと、私には思える。
それまでは、近世の拙悪な彩色に覆われ、像容が大きく損なわれていたため、誰からも注目されていなかった。 像の修理の話が持ち上がり、江戸時代の修復時に施された彩色と下地の布張りをはがしたところ、驚いたことに下から平安時代の優れた彫り口が現れたので あった。 ヒノキの一木造で、背中から両腿部に亘って大きく内刳りが施されている。 まさに平安期の堂々たる軍荼利明王像であることが判明し、急遽、重要文化財に指定されることになったのである。 ところで、この像の制作年代は何時頃なのであろうか? 金勝寺草創期を物語る9世紀の作と見方と、10世紀後半の作との見方があるようだ。 10世紀後半とみる宇野茂樹は、このように述べている。 「刀法は巨像にふさわしく量感を持ち、風貌は
鋭く引き締まり、裳の衣文の彫り口は粘り強い刀の跡を見せて、太く力強い襞のさばきを行なっているが、すでに9世紀の明王部にみられた迫力は影を潜め、こ
の像が平安初頭の作風の流れを汲みながらも、次期への方向付けを示している10世紀末の造像であることをにおわせている。」(近江路の彫像)
残念ながら、この宇野茂樹の解説のほうが、的を得ているように感じられたというのが正直な本音。 金勝寺を味わうには、参道を往き深山に佇む寺院の霊気の漂いに触れ、この軍荼利明王巨像の迫力を目の当たりにすれば、もうそれで十分と云っても過言では ない。 間違いなく、そんな気がする。
本堂(江戸時代建築の仮堂)には、藤原風の釈迦如来坐像。 本堂の屋根を見下ろす虚空蔵堂(昭和に建築)には、平安期の毘沙門天像、虚空蔵菩薩半跏像が安置されている。 いずれも、往時の金勝寺伽藍の壮大さをしのばせる古像だ。 ![]() 釈迦如来像 毘沙門天像 虚空蔵菩薩像 そろそろ、金勝寺を後にする時間。 この巨樹繁る金勝山頂の地に立っていると、ここが「良弁のテリトリー」を象徴する地であったのだとの強い思いに至る。 第二日目 前半 了
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