高 見 徹

 

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〜行 程〜

8月25日(木):東 京駅 → (新大阪)→ 下関駅

8月26日(金):国 分寺(下関市) → 功山寺 → 下関市立長府博物館 → 住吉神社 → 覚苑寺
         → 赤間神社 → 春帆楼 → 下関泊
8月27日(土):国分寺(防府市) → 毛利博物館毛利邸庭園 → 常栄寺(山口市)
         → 雲谷庵跡 → 瑠璃光寺 → 龍蔵寺 → 山口泊
8月28日(日):大林寺(山口市) → 関水(徳地町) → 僧取淵 → 十三仏 → 昌福寺
         → 法光寺 → 月輪寺 → 西宗寺 → 石風呂 → 防府泊
8月29日(月):防府天満宮(防府市) → 阿弥陀寺 → 正護寺(山口市) → 正福寺(小郡町)
         → 菩提寺山磨崖仏(三陽小野田市) → 山口宇部空港 → 羽田空港


8月28日(日) (第三日目)

 
 大林寺
 山口市朝倉町3-14

○ 十一面観音菩薩立像 カヤ 一木造 素木 像高96.5cm 治承2年(1178)

 山口市街から少し入ったところだが、のどかな風景が広がる。
 観音像は境内の小さなお堂に安置されているが、転用されたと思われるやや小さめの厨子に入っており、天冠台から上が見えない。

 抑揚を抑えた彫り口を示す穏やかな像で、彩色を施こさず、髭を墨書する素朴な像である。
 雰囲気は的には一木造だが、頭体部ともにほぼま横で前後に剥いであり、前後二材をあわせている。
 前面内部の胎内銘により、治承2年(1178)に仏師僧禅忍十輪坊によって造立されたことがわかり、この時代の在銘像は珍しく基準作例として貴重である。

   

 徳地町 

 さて、大林寺を後にして、一路「重源の里・徳地町」に向う。

 徳地町は、今年の10月に山口市と合併するそうで、キャッチフレーズも変えるのだろうか。

 徳地町に入ると山また山、田んぼまた田んぼの山の町で、道端に車にはねられた子ダヌキが横たわっていた。
 町の中心に近づくと、「南大門」の案内板が。古代寺院の門の跡でもあるのかと思ったら、東大寺の重源にかけて、南大門を模した、観光案内所兼土産品屋であった。

 関水
 佐波郡徳地町大字深谷

 重源上人が切り倒した巨木を水運を防府港まで運んだとされるが、材木の集荷場所の木津から海に至るまで7里の間、水量の少ない時期でも木を流せるよう水路を造り、川底を石畳みとし材木を流した箇所を関水という。

 東大寺造立供養記によれば、118カ所関水を設けたとされるが、現在はただこの1つのみが残っているという。
 
 今は、びっくりするほど透き通った水が穏やかに流れている。

 僧取淵

 材木を筏に組んで川を下っている時に、筏が岩に当たり、僧が亡なったと伝える場所で、今でも坊主木と呼ばれる当時の大木が沈んでおり、大雨で川底が洗い流われる時に、姿を見せることがあるという。
 先年、この坊主木の放射性炭素法による年代測定が行われ、750±100年という結果が得られ、重源による伐採事業の時のものと考えて大過ないものと考えられている。

 付近は淵になっており、コバルトブルーの静かな水面を見せている。

 


 深谷十三仏
 佐波郡徳地町深谷

 死後の世界で死者の行況を取り調べる十王を如来や菩薩が姿を変えたものとして、大日如来を中心とする十三の仏を石仏に表したもので、室町時代以降に流行した信仰であるが、本像は鎌倉時代の制作で、十三仏の早い例として注目される。

 町のはずれのやや小高い丘の上にあり、覆屋の中にやや厚みのある石板の表に、仏像を薄肉彫りに表した石仏十三体を置く。

 回りは青々とした田圃が遠く迄広がり、先祖を守る場所として大切にされてきたのであろう。

 

 昌福寺
 佐波郡徳地町堀

 徳地町の町役場に近い山麓にあり、新しい本堂と山門が建ち、整備された境内を持つ寺である。

 ちょうど法事が始まるところで、拝観をお願いしたところ、薬師堂は開いているのでどうぞご自由にと承諾頂く。

 本尊薬師如来立像は秘仏で厨子の扉は閉じられているが、壁に写真が貼ってある。穏やかな面相に細かい切付の螺髪を刻み、衣文も浅く藤原様の像であるが、頭胴部を一木から彫り出し肩口から裳裾まで大きく内刳を施し、内部には鑿跡を荒々しく残しており、そのアンバランスが面白い。
 両脇の二天像は、人形的な素朴な像である。

  

 法光寺
 佐波郡徳地町鯖河内

□ 石造十三重塔 一基 
○ 阿弥陀如来坐像 像高は128.7cm ヒノキ 一木造 平安時代後期
○ 菩薩形立像 像高は142.2cm ヒノキ 一木造 鎌倉時代
○ 十一面観音立像 像高130.2cm ヒノキ 一木造鎌倉時代中期
○ 不動明王立像 像高187cm ヒノキ 一材 鎌倉時代
○ 毘沙門天立像 像高188.5cm ヒノキ 一木造 鎌倉時代


 法光寺は、文治2年に重源上人が創建した安養寺跡地である。
 ご住職から、お寺の歴史と、重源上人にまつわるお話を伺う。

 当地の地名である鯖河内(さばこうち)は、海からはなれた当地で材木の切り出しに従事した職人たちの鯖を食べたいという願いを聞いた重源上人が、木の切れ端を鯖に見立てて池に投げたところ、鯖になったという伝説から来ているという。ご住職が当地に赴任された時、当地には池が無くその伝説を確かめるべく探したところ、古い井戸の中から魚の形の木切れが見つかり、その地を造成した際に、池があったことを示す泥の層が現れたという。
 ご住職の探究心に感心すると共に、重源上人の偉業が色々な形で伝えられていることに感動に似たものを覚えた。

 本尊の阿弥陀如来坐像は、鎌倉初期様式を示す堂々たる像であるが、東大寺の仁王像を解体修理した際に、仁王像の肩の部材とこの寺の阿弥陀如来坐像の年輪変動パターンがほぼ一致し、両像の制作年代が判明すると共に、仁王像の用材が徳地町から切り出されたことが判明したことで一躍脚光を浴びた。
 いわゆる年輪年代法による年代測定であるが、ご住職が、年輪のグラフのコピーを片手に説明されるのを聞いて、年輪年代法もー般的になったものだと感心。

 ご住職が「徳地町から重源上人の遺跡を除くと、何も残らない」と言われたが、正に重源と共に歩み育まれてきた町であった。

  

 月輪寺
 佐波郡徳地町上村572

◎ 薬師堂(附 厨子1基 棟札2枚)桁行・梁間三間、一重入母屋 桧皮葺 元応二年(1320) 
◎ 本尊薬師如来厨子 桁行3尺6寸3分 梁行2尺6寸6分 入母屋造 板葺 文明13年(1481)
○ 聖観音菩薩立像 像高167.5cm 一木造 漆箔 平安時代後期
○ 四天王立像 像高167.3〜175.7cm 平安時代後期
□ 銅造鰐口 一口
□ 銅造経筒 一口

 現在本堂を建替えるため取壊し、整地中であった。これも新築の庫裏兼仮本堂に訪問を告げる。

 少し時間が早かったが、今から掃除をしようと思っていたのに。と言いながら薬師堂の石段を駆け足で上がってこられる。

 薬師堂は、文治5年(1189)重源が現鹿野町にあった清凉寺から移したと伝え、県下で最古の木造建造物であり、山門を通して拝する茅葺きのお堂は、鎌倉時代の質実剛建な気風をよく表わしており、さすがに風格がある。

 内陣には、室町時代の墨書銘を持つ大振りの厨子の左右に等身大の四天王立像、聖観音菩薩立像及びひな人形のように小さな十二神将が安置されている。四天王像と聖観音菩薩立像は手先や腕を失うものも多く、彩色も剥げ落ちているが。穏やかな表情や衣文に藤原時代の様式を伝える像で、特に四天王像の凛とした表情には作者の心意気を感じさせる。

 我々の拝観中に他の参拝者が入ってこられ、ご住職が、四天王像の名前を「持国天、増長天、広目天、多聞天、地蔵さんを買うた、と覚えるんですよ」と、軽妙に説明されていた。さすがに我々には言わなかったが・・・。

 

 西宗寺
 
佐波郡徳地町伊賀地

□ 阿弥陀如来坐像 平安時代
□ 聖観音菩薩立像 平安時代
□ 地蔵菩薩立像 平安時代
□ 毘沙門天立像 平安時代

 時間の都合もあって直前に電話で拝観をお願いしたにも拘らず快くご了解を頂いた。

 指定文化財4体を安置する阿弥陀堂は、山門から一段下がったところにある。庫裏の方に訪問を告げると、冷たいものを用意したから是非上って下さいと言われ、今日の最後なのでお言葉に甘えお茶とお菓子をごちそうになる。

 ご住職は入院中とのことで、大黒さんが恐縮しながら次々とお茶やお菓子を出して下さる。

 今年山口で行われた曹洞宗の梅花流殿国大会に、105歳になられる宮崎曹洞宗管長が来られた時のお話や写真など、全てに一生懸命お話下さる。

 阿弥陀堂に安置される4体の像は、いずれももと浄土寺にあったものであるが、火災により廃寺になり、明治4年に当地に移されたと伝えている。
 阿弥陀如来坐像は、根幹部を一木から彫出し背面から内刳を施すなど、法光寺同様古様な構造を持つが、意志的な奥行きのある面相や厚い肩や胸など、法光寺像に比べてより鎌倉時代の特徴が表れてきている。

 境内に山桜の大木があり、昨年の台風で枝が数本折れ、樹形を損ねたというが、春には見事な花を咲かせるそうだ。

 

 

 岸見の石風呂(いわぶろ)
 佐波郡徳地町岸見

 重源上人の遺跡の一つであるが、防府へ向かう県道沿いにあるため、最後に訪ねる。

 田んぼの上を無数の赤とんぼが、山に向かって傾きかけた太陽に羽を光らせながら飛び回る。

 防府から徳地町にかけて、石風呂と称する遺跡が数十カ所残されているが、これは重源上人が東大寺再建の用材をこの地に求めた際、人夫たちの治療と保養のため多数の蒸し風呂を造ったのが起源と伝えられている。
 今でもそのうち10ヶ所以上の石風呂が使用されているそうだ。

 岸見の石風呂向って歩いていると、石風呂を見るのかねと、近所のおじさんが声をかける。と思ったら、石風呂の世話をしている人だった。
 石風呂は、ちょうど焼き物の登り窯のように正面に人が入れるだけの穴を開けて石をドーム状に積み上げ外を粘土で覆ったもので、内部の広さは約4畳半位。一番上の大きな天井石に梵字が刻まれているというが、摩滅して判読出来ない。
 使い方は、床の下に薬草を敷きつめて水をかけておき、中に枯れ木を入れて火をつけ何時間か燃やした後、灰などを掻き出して中にゴザを敷いたら出来上り。囲りの石や粘土の余熱でー日中暖かいという。
 この中に入って薬草の蒸気の中で汗を流す。いわば原始的サウナ。十分汗をかいたら隣の部屋でくつろぎ、それを何度かくり返すという。
 隣の部屋には、重源上人像が祭られている。この石風呂は現在でも使われており、秋から冬にかけては、けっこうな予約があるという。料金は、一人でも何人でもー日貸し切りで一万円だそうだ。

 冬の湯田温泉もよいが、鎌倉時代の石風呂で、重源上人の徳に触れるのも捨て難いかも。

 帰りに、おじさんの家の前の、裏山から引いているという自然の水をごちそうになる。盛んに「自然の水だから美味しいだろう」と、聞かれる。おいしいと答えないわけにはいかない。

  

石風呂入り口                           内部より

 

 今日は防府の一流のホテルに泊まるが、フロントで聞いたところ、防府の繁華街は駅の反対側になるとのことで、そぞろ歩いて食事に向かうことにする。駅前は大きなショッピングモールが建ち並ぶが、その周りは未だ区画整理中。十数分歩いたとことにあったのは、飲み屋、バーなどを含めても10軒程度の飲食街、しかも日曜の夕方というのにほとんどの店が閉まっている。

 フロントで聞いた寿司屋が辛うじて開いていた。店の中の入ると生け簀があり、アジやタイが泳いでいる。その横にはなんとこの3日間振られ続けたイカが泳いでいるではないか。漁から揚ったばかりのイカではないが、生きイカなら良いとしよう。

 またもや2階貸し切りの夕食となった。ジャガイモの間に明太子を挟んだポテトメンタイ、アジの刺身、もちろんイカ刺と、お酒の勧め上手の若女将の術中にもハマり、結構散財してしまった。

  

(2005年10月10日)

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