文化財ニュース

  

特選情報(2000年上半期)

 

 ●東大寺の前身「金鐘寺」跡か 若草山ろくで 創建期前の瓦 (奈良新聞 6月8日)

 世界文化遺産に登録されている東大寺(奈良市雑司町)の境内北東部の若草山山ろくで、同寺創建期(740年代)以前の8世紀前期のかわらの破片が多数見つかっていたことが、7日分かった。吉川真司・京都大助教授(日本史学)と菱田哲郎・京都府立大助教授(考古学)が境内調査中に偶然発見。かわら密集地のわきは約4500平方メートルの平たん地で、今年4月の地中レーダー探査では建物の基壇らしい反応もあり、巨大な寺院跡とみられる。
 かわらの種類、平たん地の広さなどから、吉川助教授は、寺院跡は東大寺の主要な前身で、所在地が不明だった「金鐘寺」の可能性が高いとみており、なぞの多い東大寺の成り立ちを探る上で貴重な資料だ。
 かわら片は平たん地の南・西側の急斜面などから約100点見つかった。大半が8世紀初頭に創建された興福寺で使われている物と同じ、蓮華(れんげ)紋などがあり、形式から720年代ごろ、同地にあった建物に用いられたとみられる。
 東大寺の名称は、文献上747年に初見。大仏殿を中心に大規模な寺院造営が進められた。それ以前、周辺には聖武天皇が亡き皇太子の供養のため728年に建立した金鐘寺や、光明皇后発願の福寿寺があったとされるが、場所は分かっていない。
 吉川助教授は、福寿寺は、金鐘寺建立の約10年後に造営が始まったほか、文献などから現在の法華堂辺りにあったと推定。かわらは、年代が一致する金鐘寺のものの可能性が高いとの見方だ。
 また吉川助教授は、続日本紀に「中山寺」と記されているのが金鐘寺で、750年には落雷で全焼したとみている。

方墳から三角縁神獣鏡 鴨都波遺跡 (奈良新聞 6月6日)

 弥生時代からの大規模集落跡、鴨都波遺跡(御所市三室)の一角から、三角縁神獣鏡など豪華な副葬品を伴う古墳時代前期(4世紀中ごろ)の周囲に溝を巡らせた方墳が見つかり、5日、調査をした御所市教委が発表した。南葛城地域で同時期の古墳が確認されたことや、小規模な方墳から4枚の三角縁神獣鏡が見つかったのは初めて。副葬品の豊富さから、のちに一帯を支配した豪族、葛城氏につながる勢力の中心人物が埋葬されたとみられ、葛城氏の実態や葛城地域の勢力形成の実態を解明する貴重な資料として期待されている。
 古墳が見つかったのは、同遺跡の東北すみの部分で、弥生時代以降の墓域。出土土器から、古墳は4世紀中ごろに築造されたと推定されている。
 墳丘は南北約19メートル、東西約14メートルの小規模なもの。周囲には幅約4メートルの溝が巡らされていた。埋葬主体部は、長さ約4.3メートルのコウヤマキ製のくりぬき式木棺を粘土で覆った粘土槨(かく)で形成。棺内には頭部を中心に水銀朱やベンガラが塗られていた。棺内には被葬者の歯の一部も残っていて、この歯の状態から被葬者は、壮年期の成人と推定されている。
 三角縁神獣鏡は棺内から1枚、棺外から3枚出土。棺内のものは頭部に、棺外のものは腰から下にかけて並べられ、いずれも文様面を上にして置かれていた。
 棺内の鏡は、銘帯を持った三神三獣鏡(直径約18.5センチ)で、同型のものはこれまで未確認。銘文も前例がなかった。棺外のものは二神龍虎画像鏡(同約21センチ)、三神三獣鏡(同約21.3センチ)、二神四獣鏡(同約21センチ)で、いずれも他地域で同型のものが見つかっている。
 このほか、棺内からは、大形の碧玉製紡錘(へきぎょくせいぼうすい)車形石製品をはじめガラス玉、管玉などが出土。棺外にも、大和地域に特徴的な短甲や、槍(やり)、漆塗りの靫(ゆぎ)や鉄刀、鉄鏃(ぞく)など副葬品は豊富だった。
 こうした豪華な副葬品や、出土した土器に他地域のものが少ないことなどから、被葬者はかなりの力を持った地元の中心的勢力だったと考えられ、後の葛城氏につながる勢力だった可能性が高いとみられている。
 「日本書紀」などによると、同域では4世紀末ごろから5世紀にかけて襲津彦(そつひこ)を始祖とする葛城氏が、大王(天皇)家と外戚(せき)関係を築くなど隆盛を誇った。しかし、いまだなぞも多い。
 卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡は、大和政権への従属のあかしとして与えられたともされている。今回の発見は、葛城勢力と大和政権との関係を考察する上で貴重。葛城氏と4、5世紀の同地域の実態解明の上でも資料的価値は大きく、今後の調査が注目される。
 現地説明会は10、11日両日の午前10時から午後4時。両日とも午後1時から、現場近くの御所市民会館で網干善教・関西大名誉教授による講演もある。

 網干善教・関西大名誉教授の話
 4世紀中ごろは葛城氏が勢力を蓄積していた時期と考えられ、被葬者は後の葛城氏につながる勢力の人物だろう。鏡とともに葛城勢力の成長を考える上でも貴重な資料だ。

 

地元説明会に400人 御所市・鴨都波遺跡 (奈良新聞 6月6日)

 三角縁神獣鏡など豪華な副葬品が出土したことで注目を集めている御所市三室の鴨都波遺跡発掘現場で6日、地元住民を対象とした説明会があり、約400人が詰め掛けた。
 午前10時から、御所市教委の木許守さん(36)が住民らを前に概要を説明。この後、発掘現場に入り、各所に係員を配したコースに沿って見学した。注目の三角縁神獣鏡はガラスのケースに収められ、模様などを間近で見ることができ、古墳内部でも鏡の位置が分かるよう模型が置かれるなどの工夫がされている。
 住民たちは市教委職員に熱心に質問。参加した主婦の三谷繁子さん(49)は「この辺りは昔からさまざまなものが出土していますが、今回のものは大変珍しいようですね。御所が有名になるかも」と興奮ぎみに話していた。
 一般を対象とした現地説明会は10、11日の両日、午前10時から午後4時まで。現場近くの御所市民会館で網干善教関西大名誉教授の講演もある。

 

● 原の辻遺跡の土器に日本最古の捕鯨線刻画(長崎新聞:長崎市 5月26日)

 長崎県教委は25日、1974年に壱岐・原の辻遺跡から出土した弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)のものと推定される土器のつぼに、捕鯨の様子を描いたとみられる日本最古の線刻画が見つかった、と発表した。
 捕鯨の様子を描いた遺物は、壱岐郷ノ浦町の鬼屋窪古墳と北高小長井町の長戸鬼塚古墳の石室に描かれた2例(いずれも古墳時代後期)がこれまで日本最古とされてきたが、今回確認されたつぼは、これより約600年さかのぼる。国立歴史民俗博物館(千葉県)の佐原眞館長は「船と鯨の組み合わせの絵と考えられる。2000年以上も前に船に乗り、もりを使って積極的に捕鯨をしていたことを示す貴重な発見」としている。

 

十一面観世音菩薩立像を400年ぶり公開〜平泉の達谷西光寺 (岩手日日新聞:一関市  5月25日)

 達谷窟毘沙門堂創建千二百年大祭を開催中の平泉町・達谷窟毘沙門堂の別当達谷西光寺(達谷窟浩亮別当)は二十四日、十二世紀末の作である「十一面観世音菩薩立像」を公開した。
 中世以来別当を務めた長坂氏の守り本尊として長く守り伝えてきたもので、同寺によると、間近に見られるのは約四百年ぶりという。また、達谷窟毘沙門神楽に伝わる、室町時代以前と江戸時代後期の作の「獅子(しし)頭」二体も祭っている。公開は、大祭最終日の十一月三日まで。
 十一面観世音菩薩立像は、高さ約九十センチ。木造で、顔面などに一部金ぱくが残っている。傷みもあり、頭上にある化仏(けぶつ)十面のうち二面しか残されていない。大祭開催を機に台座や後背(こうはい)などを新調。二十三日夕方、新しい厨子(ずし)に納めて魂入れをした。
 長坂城主(現在の東山町長坂)だった長坂氏の守り本尊で、慶長年間、長坂氏が達谷西光寺の別当として入山した際に、こしに乗せて移されたと伝えられる。
 一方、藤原時代の仏像の特徴を兼ね備えて平安時代の作と考えられることから、江戸時代中期に滅んだ同山の鎮守白山社の本地仏として、奥州藤原氏によって作られ、もともと同所に伝わったという説もある。
 同地を領した葛西一族の十一面観音信仰の深さ、広がりを示す貴重な資料としても注目されている。
 また、同時公開した「獅子頭」は、達谷窟毘沙門神楽に伝わる室町時代以前と江戸時代後期の作の二体。文化九年(一八一二年)の「山伏取合記録」に古い獅子頭を毘沙門堂に奉納したという記述があるが、明治維新の神仏分離で獅子舞が禁止され、今では廃れてしまった。
 達谷窟毘沙門堂創建千二百年大祭は、坂上田村麻呂公の創建から数えで千二百年目に当たる今年四月三日に開幕した。九月二十九日から三日間、昭和十八年以来五十七年ぶりに本尊の御開帳をするほか、秘蔵する「鬼の牙(きば)」などの寺宝も公開する。

 

亀形石の隣に湧水施設 明日香村・酒船石遺跡 (奈良新聞:奈良市 5月25日)

 飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594〜661年)が造営したとされる明日香村岡の酒船石遺跡の石敷き遺構で、亀形石造物などの導水施設のすぐ南側にある水源地の上に石組みの湧水(ゆうすい)施設が新たに見つかり、調査した明日香村教委が24日、発表した。同村教委は「亀形石造物をはじめとする一連の導水施設の水の流れが解明された。自然の水源を確保した遺構は類例がない」と評価しており、なぞに包まれている同遺構の性質を考える上で貴重な資料となりそうだ。
 水源地の上に設けられた湧水施設は、亀形石造物に隣接して置かれている小判形石造物の南側付近で見つかった。レンガを積むように石で組まれた貯水池とその中央部に設けられた石積みの取水塔。石はすべて黄色を帯びた天理砂岩の切り石で計200〜300個を使用していると見られている。
 貯水池は、小判形石造物の方へ開くようにしてコの字形(東西1.8メートル、南北2.4メートル以上)に設けられており、深さは1.3メートル。底部にも砂岩が敷かれており、現状では、底部のすき間から自然水が湧き出している。
 コの字形の囲いの中央部に設けられた取水塔は、高さ1.3メートル。石を筒状に積み上げて中が空洞になるように築かれている。砂岩は凸形に加工して組み合わせ、11段積み上げられており、上部には長さ45センチ、幅30センチ、厚さ15センチの蓋(ふた)石が2つ置かれていた。
 11段目の北側の石には中央部を凹形に掘り込んだ取水口があり、底から湧き上がってくる水が高さ約4センチ、幅約20センチのすき間から流れ出るように斜めに加工されていた。
 現状では、取水塔の空洞部に砂が堆(たい)積しているため、水は流れ出ない状態になっているが、当時は、貯水池の底石は粘土などで固められ地下の湧き水が取水塔に集まるようにしていたと考えられている。
 この取水口と小判形石造物の水槽との距離は2.5メートルで、20センチの落差があった。同村教委は「この取水口から小判形石造物まで木樋などを使って水を流していたのではないか」と話している。

 

一連の構造明らかに 後の時代も宗教的聖地か 明日香村・酒船石遺跡 (奈良新聞:奈良市 5月25日)

 明日香村岡の酒船石遺跡の石敷き遺構で新たに見つかった湧(ゆう)水施設は、水源からの水を取水塔の取水口から木樋などを使って小判形石造物に落とし、突起した穴から亀形石造物の鼻へと流れ、甲羅部分の水槽にたまるという一連の構造を明らかにした。また、後の時代もこれら一連の施設は、変遷を遂げながらも宗教的な性格を持ち続けた聖なる場所だったことをうかがわせている。
 湧水施設に用いられた石はすべて天理砂岩で、斉明朝の特徴が見られる。石を組み合わせて設けられた取水塔や貯水池の石と石との隙間には小石が詰められていたが、当初は粘土も充填して水が漏れないようにしていたと考えられている。
 導水施設である亀形石造物と小判形石造物に流れる水の源であり、貴重な水であることを象徴するかのように非常に手の込んだ造りをしていたことが分かる。
 平安時代の木製の曲げ物(直径50センチ)が小判形石造物の南側に隣接するように見つかっており、これを井戸枠として設置し、水源を確保していたと考えられている。このことから、9世紀末ごろには湧水施設は機能を停止していたと考えられている。
 今回の調査では、亀形石造物と小判形石造物の周辺に敷かれた小石が除去された。亀形石造物は平面が卵形をして偏平な石だったことが判明し、小判形石造物は底部が船底状に傾斜していたことが判明した。また、周辺に敷かれた小石の層からは平安時代の銅銭「饒益神宝(にょうやくしんぽう)」(859年初鋳)が出土。9世紀後半に周辺が改修されていたことが分かった。
 石敷き下層部には、幅20センチ、深さ20センチで長さ約10メートルにまで及ぶ砂岩切り石で組まれた暗渠(きょ)が確認されたことや石敷きの上で見つかった土器が9世紀末から10世紀初頭のものであることから、石造物をはじめとする遺構全体が改修で変遷を遂げながら廃絶直前まで機能していたことがうかがえる。
 酒船石遺跡の石敷き遺構は、後の時代においても水にまつわる祭祀(し)が行われていたと推定され、聖なる場所として機能していたといえそうだ。

 

国宝級の毛抜形太刀 奈良市・春日大社 若宮神社 (奈良新聞:奈良市 5月23日)

 春日大社(葉室頼昭宮司)の摂社・若宮神社で、鞘(さや)や柄(つか)の部分が金や銀などで華麗に装飾された国宝級の平安時代の毛抜形太刀(全長約80センチ)が見つかり、22日、同大社が発表した。
 毛抜形太刀は、同大社の国宝・金地螺鈿(らでん)毛抜形太刀を含め、全国で数例しか確認されていない貴重なもの。刀剣史研究のみならず当時の漆芸、金工技術を考察する上でも重要な作品として注目されそうだ。
 この太刀は、27日から6月11日まで同大社宝物殿で一般公開される。

五重塔の心柱力強く 内陣40年ぶり一般公開 奈良市・興福寺 (奈良新聞:奈良市 5月23日)

 奈良市登大路町、興福寺(多川俊映貫首)の五重塔(国宝)内陣、東金堂(同)後堂、旧食堂遺構が特別公開されている(拝観の受け付けはすでに終了)。6月9日までの間、約1万人が普段目にする機会のほとんどない文化財や遺構にふれる。
 特別公開は、平成22(2010)年の同寺創建1300年に向けて、寺の素晴らしさを再認識してもらい、中金堂再建への協力を要請する目的で行われている。
 五重塔(約50メートル)の内陣一般公開は約40年ぶり。現在の塔は、室町時代(1426年)に再建された。初層には、同時代の木造薬師、阿弥陀、釈迦、弥勒の各三尊像が、心柱を中心に東西南北の四方を向いて配置。無指定だが、藤原時代の様式を残した作品として味わい深い。須弥壇下のケヤキ製の心柱と礎石も確認でき、力強さを感じる。
 東金堂の後堂公開は初めて。本尊・薬師如来像や四天王像、十二神将像などが後ろから鑑賞できる。前面だけでなく、背面にまで神経を行き渡らせた各像の細かな造形や彩色に目を奪われる。また、正面からでは見ることのできない阿弥陀像壁画や著名人による奉納絵馬も興味を引かれる。
 国宝館地下の旧食堂遺構も初公開。創建時の礎石の上に載せられた鎌倉期の円形礎石(直径約85センチ)や、千手観音像を安置した須弥壇の創建時の地覆石などの遺構からは、同寺の伽藍の変遷を垣間見ることができる。

 

阿弥陀像など40年ぶり"目覚め 興福寺・五重塔内陣を一般公開 (奈良新聞:奈良市 5月20日)

 奈良市登大路町、興福寺(多川俊映貫首)の五重塔(国宝)内陣、東金堂(同)後堂、旧食堂遺構が、きょう20日から特別公開される(拝観の受け付けはすでに終了)。
 特別公開は、平成22(2010)年の同寺創建1300年に向けて、寺の素晴らしさを再認識してもらうのが目的。五重塔(約50メートル)の内陣が一般公開されるのは約40年ぶりで、東金堂の後堂や旧食堂遺構の公開は初めてのこと。
 室町時代(1426年)に再建された五重塔の初層で、心柱を中心に四方に配された同時代の木造薬師、阿弥陀、釈迦、弥勒の各三尊像が拝観できるなど、長き眠りから覚めた文化財が人々の熱い視線を浴びる。

 

一休さんの木造坐像  70年ぶり修復 (京都新聞:京都市 5月23日)

 とんちで知られる一休禅師(一三九四〜一四八一)が晩年に作らせたという「木造一休和尚坐像(ざぞう)」(重要文化財)=写真=が約七十年ぶりに修理され、京都府京田辺市薪の酬恩庵一休寺で披露された。
 像はヒノキの寄木造りで等身大、いすに腰掛けた姿をしている。禅師が生前、像に自分の髪とひげを植え付けたといわれる。五百年以上たった今は髪もひげもなくなっているが、禅師の容ぼうを伝える貴重な像として地元の崇敬者や観光客の人気を集めている。
 美術院国宝修理所(京都市東山区)が約四か月かけて、像の彩色部分にはく落止めなどを施した。室町時代に禅師が住職を務めた大徳寺(京都市北区)の僧りょや地元住民ら約二百人が訪れ、面目を一新した像に手を合わせた。

 

秘仏の蔵王権現3体を一般公開 (奈良新聞:奈良市 5月11日)

 修験道の開祖・役行者の1300年大遠忌法要が奈良県吉野町吉野山の金峯山寺蔵王堂(五條順教管長)で始まり11日、寺院関係者など招待者約200人が参列し、秘仏としては国内最大とも言われる金剛蔵王権現3体(重要文化財)の開扉式や、本地堂の落慶法要が執り行われた。
 一般公開される秘仏は3体。高さ5.9〜7.3メートルと秘仏としては国内最大級で、厨子(ずし)も日本最大。ヒノキの寄木造りで、保存状態もよく極彩色が鮮やか。現在の蔵王堂の再建と併行して、天正20(1592)年ごろ完成。南都仏師の宗印の作とされる。
 金剛蔵王権現は修験道の開祖・役行者が千日の修行の末に感得したとされ、その姿を桜の木に刻んだことが同寺の始まりと伝えられる。本地仏である釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩が出現したが、役行者が悪魔を降伏させる姿をと祈り、最後に現れたのが金剛蔵王権現で、頭髪は逆立ち、威厳のある風ぼうの右手には三錮(こ)、左手に刀印を結ぶ。
 寺関係者でも特別な儀式でしか見ることができない仏像だが、きょう12日から6月7日までの間は記念参拝月間として開帳される。元日にも一時公開されたが、長期にわたっての一般公開は蔵王堂の桧皮葺(ひわだぶ)きの修理が終わった昭和60年以来15年ぶり。拝観は午前8時〜午後4時半(法要などにより拝観できない時もある)。500円。
 1300年の大遠忌法要はきょう12〜14日、金峯山寺蔵王堂で営まれる。蔵王堂では12日正午からのオープニング式典に始まり、数々のイベントが開かれる。その後も6月7日まで「役行者ルネッサンス」として境内や周辺で記念イベントが予定されている。

 

●京都で寂光院本堂が全焼 重文の仏像も焼失 (朝日新聞 5月9日)

 9日午前2時43分ごろ、京都市左京区大原草生町676の寂光院本堂から出火しているのを警備員が発見、119番通報した。約1時間後に鎮火したが、木造の本堂約82平方メートルを全焼、鎌倉時代作の国の重要文化財「六萬躰地蔵菩薩像」などを焼失した。けが人などはなかった。
 本堂や周辺は夜間は無人で火の気がないことから、下鴨署は放火の可能性が高いとみて調べている。現場は市中心部から北北東に20キロ近く離れた山間部で、京都の観光名所の1つ。 
平家物語で知られる平清盛の娘、建礼門院が余世を送った寺。6世紀、聖徳太子が用明天皇の菩提のために創建したといわれる尼寺である。本殿は16〜17世紀、片桐且元が淀君の命により再建したもので、本尊の地蔵菩薩は重要文化財に指定されている。

 

寂光院で火事 放火の疑い 本堂を全焼 重文地蔵菩薩も焼失  (京都新聞:京都市 5月9日)

 九日午前二時三十五分ごろ「平家物語」の建礼門院の悲話で知られる京都市左京区大原草生町の寂光院(小松智光住職)の本堂付近から出火、木造こけらぶき平屋約八十二平方mを全焼した。本堂内に安置していた国の重要文化財で本尊の「木造地蔵菩薩立像」(高さ約二・六m、鎌倉時代)など仏像三体を焼損した。けが人はなかった。本堂西側の土からまかれた油臭を確認、京都府警捜査一課は非現住建造物放火の疑いで下鴨署に特別捜査班を設置し、現場検証をして出火原因を調べている。
 府警の調べでは、本堂は床下に入れないように四方に木製の柵が設けてあるが、西側部分の柵だけがよく燃えていた。毎日、午前六時半ごろに本尊に線香を供える以外は、本堂に火の気はない、という。
 府警によると、重文の立像のほか、本堂にあった建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像も焼損した。消防隊員が火が弱まった際に張り子座像を外へ持ち出したが、すでに焼け焦げた状態だった、という。
 一方、京都市消防局などによると、寂光院の庫裏の火災報知器の警報音に、女性が気づいた。火災の場所を知らせる表示板のランプが本堂西側付近を示した。境内で宿直をしていた近所の男性が駆け付けたところ、本堂西側から約十mの高さまで炎が上がっており、一一九番通報した。出火当時、寺には小松住職たち六人がおり、放水銃や消火器で初期消火をした。消防車など計二十一台が消火に当たり、約一時間後に消した。
 寂光院によると、本堂の周囲に不審者の侵入を知らせる防犯センサーを設置しているが、動物などに過敏に反応するため、スイッチを切っていた。本堂を含めて午前九時から午後五時まで拝観できる。八日は午後五時に閉門し、本堂も施錠していた。宿直の住民が午後十一時半ごろに定例の巡回をしたが、異状はなかった、という。 

 

焼損した本尊重文地蔵菩薩 鎌倉の仏教彫刻の基準  (京都新聞:京都市 5月11日)

 焼損した本尊の木造地蔵菩薩立像は一九八六(昭和六十一)年に国の重要文化財に指定された。寺伝では聖徳太子の作とされているが、重文指定と併せて行われた修復事業で像の中から願文が見つかり、鎌倉時代前期の一二二九(寛喜元)年に、大原来迎院の僧寂如の発願で造られたことが分かった。
 像の高さは二・五六メートルと大型で、体内には願文のほかに、十一センチから五センチの地蔵菩薩の小像三千四百十七体や法華経など経典五巻が納められていた。像の周囲にも三千二百十体の小さな地蔵菩薩像が安置されていた。かつては約六万もの地蔵に囲まれていたといわれ「六万体地蔵菩薩」の別名がある。
 仏教彫刻に詳しい根立研介・京都大文学研究科教授は「願文で制作年代が正確に分かり、鎌倉時代前期の仏教彫刻を考えるうえで基準となる作品とされていた。胎内に多数の地蔵菩薩を納める特異な仏像でもあり、焼失は非常に残念だ」と話している。

 

焼損の本尊 修復検討 国宝修理所へ搬送

 焼損した地蔵菩薩立像の中に納められていた「像内納入品」は無事だった。右側の二つの箱には胎内仏が入っている(府教委文化財保護課提供)
 京都市左京区大原の寂光院で本堂が全焼し、国の重要文化財で本尊の木造地蔵菩薩(ぼさつ)立像が焼損した放火容疑事件で、京都府教委文化財保護課は十日、「地蔵菩薩立像の状況を詳しく調べるため、十二日に美術院国宝修理所(京都市東山区)へ搬送する」と発表した。元の姿への修復が可能かどうか、文化財の修理では全国トップクラスの技術と経験を持つ同修理所で今後検討していく。
 今回の火事では、本尊の地蔵菩薩立像と共に本堂に安置されていた建礼門院、阿波内侍(ないし)の両像(いずれも未指定)も焼損した。本尊の周囲を埋めつくすように並んでいた高さ五〜十一センチの小さな地蔵菩薩像三千二百十体も九割前後が焼けてしまった。いずれも本尊と一緒に同修理所へ運ぶ。
 一方、本尊の中に納められていた「像内納入品」は、三千四百十七体にのぼる小さな地蔵菩薩像、いわゆる「胎内仏」を含めてすべて無事だった。火事のあった九日に同修理所へ持ち込まれたが、放水で湿っているものもあり、乾燥作業を慎重に行っている。
 本尊は重文に指定された一九八六年から同修理所で二年がかりで修理され、像内納入品はその際、新たに発見された。大量の胎内仏に加え、像が鎌倉時代前期の寛喜元(一二三〇)年に造られたことを示す願文や種々の教典、連珠、刀子(小刀)、唐・宋銭、横笛などがあり、一括して重文指定に追加された。さらに、本尊の周辺に安置されていた小さな地蔵たちも「胎内仏と同じ作りで、過去に本尊の中から取り出されたらしいことが分かった」(文化財保護課)ことから、こちらは重文の付録にあたる附(つけたり)として指定されている。

関連記事(京都新聞)

2000.5.11
 ▼多量の灯油まく 18リットル前後 容器の特定急ぐ
 ▼焼損の本尊 修復検討 国宝修理所へ搬送
 ▼寂光院火事でコース変更 大原女まつりの行列

2000.5.10
 ▼着火方法など捜査
 ▼火元、本堂西側の縁側 外部から侵入容易
 ▼黒こげ本尊の菩薩が守った 像内の仏は無事
 ▼修復方法を検討 本尊焼損で京都府教委

2000.5.9
 ▼大原・寂光院で火事 本堂を全焼 重文地蔵菩薩も焼失
 ▼一瞬のうちに炎の海 住民らあ然
 ▼再建すぐには… 京都観光の名所 地元に打撃
 ▼焼損した本尊重文地蔵菩薩 鎌倉の仏教彫刻の基準
 ▼消火設備完備のはずが… 文化財防火に課題

雲を貫く巨大神殿出現 古代の巨大神殿が姿を現す

出雲大社境内遺跡発掘調査速報  (出雲大社ホームページ 4月28日)

 

●巨大柱3本 一つの柱穴から発見 出雲大社(毎日新聞 4月28日)

 島根県大社町杵築(きづき)東の出雲大社境内の発掘で、直径1メートルを超える巨大柱3本が一つの柱穴から見つかった。28日発表した同町教委によると、12世紀ごろ(平安時代末)の古代の大社本殿の一部とみられる。3本の柱は束ねて直径3メートルの柱にしていたと推測され、大社が世界最大の木造建築、東大寺大仏殿の15丈(約45メートル)を上回る16丈(約48メートル)の高さを持つ掘っ立て柱建物だったという平安時代の文献や、本殿の平面図「金輪造営図(かなわのぞうえいず)」を考古学的に裏付ける発見。建築史、宗教史上の超一級資料で、出雲神話が伝える古代国家の成立の過程を考える上でも重要な手掛かりになる。 

 地下祭礼準備室建設の事前調査として昨年9月から約450平方メートルを発掘。その結果、地下約1メートルで、柱を支える「裏込め石」とみられる、こぶし大以上の石が詰まった柱穴を東西2カ所で検出。調査域外を含め南北8・5メートル、東西6メートルと推定される西側の柱穴で柱3本が見つかった。いずれも杉で、1本は長径1・35メートル、短径1・1メートル、長さ約1・2メートル。他の2本もほぼ同じ大きさとみられる。
 これまでの一本材で最大の柱は青森市の三内丸山遺跡(縄文期)の直径約1メートル。3本を束ねた例はなく、1本の柱の周りに板を巻いて直径約1・5メートルにした大仏殿の柱を上回る。
 12世紀前後の土器約10点が出土した地表面から柱の下端までは約1・7メートル。2カ所の柱穴の距離は約7メートル。見つかった柱は大社造りの建物で「田」の字形に並ぶ柱9本のうち、南側中央の棟持柱(むなもちばしら)の可能性が高い。
 大社に伝わる「金輪造営図」は、柱3本で直径3メートルにしていたことなどを伝え、発掘結果とほぼ一致。古代の本殿の高さについて、社伝が現在の本殿(1744年造営)の倍の16丈としていることや、平安貴族の子弟の教科書「口遊(くちずさみ)」(970年)が「雲太(うんた)−出雲大社、和二(わに)−東大寺大仏殿、京三(きょうさん)−平安京大極殿」とし、大仏殿や平安京の大極殿を上回ると記していることも裏付けそうだ。

 現地説明会は5月6日午前10時半〜午後4時、7日午前9時半〜午後4時
一畑電鉄出雲大社前駅から徒歩10分。

 日本海文化の結晶 森浩一・同志社大名誉教授(考古学)の話
 日本海沿岸地域で、三内丸山遺跡(青森市)など縄文時代の巨木を使った遺跡もしくは構築物の発見が相次ぎ、縄文の巨木文化として注目してきた。出雲大社はまさにそうした縄文以来の古代日本海文化の結晶であり、私は「口遊(くちずさみ)」にあるような高い建物の存在を想定してきた。それだけに今回の巨木柱の発掘に、驚くとともに喜んでいる。

 出雲大社(島根県大社町)は、古事記や日本書紀の神話に登場するオオナムチ(大国主命)を祭った日本を代表する神社で、創建年代は不明。現在の本殿は1辺10・9メートルの正方形で、高さは24・2メートル。切り妻造りで妻側に入り口があり、本殿中央に「心御柱」を立てる「大社造」の建築様式で知られる。縁結びの神として信仰を集める。
 文献上、出雲大社の本殿は高さ16丈(約48メートル)に達し、東大寺大仏殿(奈良)や平安京大極殿(京都)をしのぐとされ、一部には100メートル近い“超高層建築”だったとの説もある。
 今回の発掘調査では、平安時代末期のものとみられる、3本の杉を束ねた直径3メートルの柱が柱穴とともに見つかって「16丈」説を裏付けた。建築物に高さを追求する古代人の世界観、宗教観を示唆するものとして注目されている。
 今回見つかった巨大な柱は、出雲大社が、現代人の想像を超える規模だったことを絵空事ではなく現実のものとし、古代日本国家にとって出雲が重要な地域だったことを立証した。
 「古事記」「日本書紀」に国の成り立ちの物語として記された神話の中で、ヤマタノオロチ退治や国譲りなどの出雲神話がほぼ3分の1を占めており、出雲が極めて重要な地域として描かれている。
 これは記紀の大きななぞで、一つの有力な解釈によれば、記紀神話が成立するころ、大和の南東に伊勢神宮、北西に出雲大社を配置するとともに、伊勢を高天原(天上世界)、大和を葦原(あしはら)の中つ国(地上世界)、出雲を根の国(地下世界)として描き、天皇による全国統治の理念を体系化したからだという。
 その時期は、「日本書紀」の斉明天皇5年(659)の条に、(天皇が)出雲国造に命じて神の宮を造らせたと書かれていることなどから、斉明天皇から天武天皇にかけての時代(7世紀後半)だった。
 今回の発見は、古代の出雲大社が、天皇の宮殿だった平安京の大極殿(政治の中枢)、国家宗教である仏教の総本山、東大寺大仏殿(宗教の中枢)をしのぐ規模だったことを裏付けた。大極殿や大仏殿が6世紀末以降の新しい建築様式の礎石建物であるのに対して、出雲大社は弥生以来の伝統的な形式の掘っ立て柱建物にこだわりながら高さを追求している。
 3本の柱を束ねて太い柱にし、柱穴に石を詰めて根固めをする工法は、掘っ立て柱建物を高くするための工夫とみられ、ほかに例がない。記録によれば、古代の出雲大社はあまりの高さのために何度も倒れては建て替えられたという。
 なぜそこまでして、平安時代末にいたるまで、出雲の地に高い建物を建て続けたのか。7世紀後半に成立した天皇制国家・日本にとって、出雲が極めて重要な聖地だったのは間違いないだろうが、それだけでは説明がつかないなぞを古代出雲大社の巨大柱は秘めている。

 

東寺のお大師さん 国宝に格上げ 冷泉家の「明月記」も (京都新聞 4月21日)

 文化財保護審議会は二十一日、東寺(教王護国寺、京都市南区)の「木造弘法大師坐像」と、冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)が所有する藤原定家の自筆の日記「明月記」の二件を重要文化財から国宝に格上げ指定するよう中曽根弘文文相に答申した。
 さらに、悪人正機説などで知られる西本願寺(京都市下京区)の「歎異抄(たんにしよう)」、石山寺(大津市石山寺)多宝塔(国宝)内部の柱絵、東京芸術大(東京)が所蔵する上村松園の日本画「序の舞」など四十五件を重要文化財に指定するよう求め、近代以降の建造物の保存を図る登録文化財に新たに九十五件を選んだ。
 これで、国宝(美術工芸品)は彫刻百二十三件、古文書五十五件など計八百四十七件になる。
 京都では、昨年四月の「木造十一面観音立像」(京都市東山区・六波羅蜜寺)に続いて、二年連続で国宝が指定された。
 「木造弘法大師座像」は、運慶の四男で鎌倉時代の仏師康勝法眼の作。像高九十八・五センチ。右手に金剛杵(こんごうしよ)、左手に数珠を持った大師を写実的に表現しており、現在、東寺御影堂に安置されている。康勝の代表作であり、中世以降広まった大師信仰と数多く作られた弘法大師像の根本としての意義は大きい。
 「新古今和歌集」などを編さんした和歌の大家、藤原定家の「明月記」は子孫の冷泉家に伝来。一昨年、約十二年間をかけた全面修理が完了した。重文指定は五十四巻だったが、附(つけたり)指定などのうち四巻一幅を格上げし、五十八巻一幅が一括して国宝に指定された。源平の騒乱から承久の乱後までの公家社会の実相や武家の動静、所感を簡潔に記した日記で、鎌倉時代前期の第一級資料とされる。

 

快慶と行快の作風混在 胎内文書 修復中に貴重な発見 (京都新聞 4月21日)

 京都府城陽市内の寺から見つかった阿弥陀如来立像の胎内文書で、大仏師・快慶の没年がわかった―。同市教委の二十日の発表は、文書の調査がさらに進めば、快慶にせまる貴重な材料となり、今後の仏教美術史研究に新たな光を当てることになりそうだ。
 同像は、一九九六年十月に見つかった。鎌倉時代の安阿弥様のすぐれた彫刻であると判明。翌年四月には市の文化財に。だが、傷みが激しく昨年九月から、美術院国宝修理所(京都市東山区)で修復作業が行われていた。胎内の文書は、この時に初めて見つかり、約七百七十年ぶりに人の目に触れた。
 「まるでタイムカプセルを開けたようだ」。調査に当たった中野玄三・嵯峨美術短期大名誉教授は、興奮を隠しきれない。「明らかに快慶の主導による作成だ」。法華経などを三十日かけて読んだことを示す文書もあることから、「仏像を三十日で造ったと思われる。文書の途中に快慶の名があり、この日に快慶が死亡したとも考えられる」と推測する。
 像は「顔つきは快慶の作風で、行快のそれとは全く違う。一方、流れるような衣の表現は、行快のもの」と二人の仏師の特徴が混在する仏像の特異性を話す。「こんな仏像を見たのは、初めて」と、同名誉教授は声をはずませた。
 同市教委は、今回の発表を受けて四月二十二日から同市寺田の市歴史民俗資料館で「胎内からのメッセージ−新発見の仏像内納入文書−」と題した同像と文書の特別公開を行う。五月七日まで、午前十時〜後五時。二百円(中学生以下は百円)。問い合わせは同館 電話0774(55)7611へ。

 

仏師・快慶の没年?示す古文書 阿弥陀如来立像の胎内から発見(京都新聞 4月21日)

 鎌倉時代の代表的な仏師、快慶が、生涯最後に制作に関わったとみられる仏像「阿弥陀如来立像」が、京都府城陽市富野南垣内の浄土宗極楽寺(徳光孝雄住職)で見つかり二十日、同市教委が発表した。像の胎内には、これまで不詳だった快慶の没年が推測できる文書もあり、同市教委は「中世美術史の研究に大きく寄与する貴重な発見」としている。
 阿弥陀如来立像は、高さ七十九・五センチで、一木割矧(わりはぎ)造。柔和な顔の表情などに快慶の到達した「安阿弥(あんなみ)様」の作風がよく表れている。
 文書は「法華三十講経御名帳」「現在過去帳」「過去訪名帳」など十四点。このうち「現在過去帳」には、弟子・行快のものと見られる筆で快慶の号の「安(原文は安の梵字)阿弥陀仏」と、「法橋行快造之」の記述が併記されていた。
 さらに、一二二七(嘉禄三)年の表記のある「法華三十講経御名帳」には「過去法眼(げん)快慶」とあり、故人を示す「過去」の文字が記され、この文書の書かれた極めて近い時期に快慶が死去した、と推定される。調査にあたった嵯峨美術短期大学の中野玄三名誉教授(日本仏教美術史)は、「快慶が像の制作に取りかかったが、完成せずに死亡。弟子の行快が完成させた、共作では」としている。
 快慶の晩年については、醍醐寺(京都市伏見区)に残る「醍醐寺新要録」に、一二二三(貞応二)年に仏像を制作したとの記述があるほか、一二三六(嘉禎二)年前後に唐招提寺(奈良市)の塔頭(たっちゅう)・西方院の「阿弥陀如来立像」(重文)を制作したともされるが、正確な没年は分かっていない。
 快慶とは 鎌倉時代を代表する慶派の仏師。ダイナミックな写実表現の運慶と並び称され、流麗でおだやかな作風の「安阿弥様」を確立した。快慶の作とされる仏像はこれまでに東大寺(奈良市)の「僧形八幡神像」(国宝)や浄土寺(兵庫県小野市)の「阿弥陀三尊像」(同)など約四十体が確認されている。  

中尊寺1150年祭、秘伝を公開 (岩手日報:盛岡市  4月20日)

 平泉町の中尊寺(千田孝信貫首)開山1150年祭は20日から行われる。11月10日までの期間中、記念事業として国指定重要文化財の秘仏「一字金輪仏頂尊(いちじきんりんぶっちょうそん)座像」が平成9年11月以来、約2年半ぶりに公開される。
 19日は公開場所となる不動堂に仮安置する遷座法要が営まれた。一字金輪仏は藤原秀衡の念持仏で像高76センチ。秀衡は朝夕拝み、みちのくの平安を祈ったと伝えられる。肌色と優美な曲線から「人肌の大日」とも呼ばれる。平安時代の作。
 一般公開は9年の金色堂国宝指定百年記念祭以来。公開は午前8時から午後5時まで。拝観料は大人800円、高校生500円、中学生300円、小学生200円。
 中尊寺は慈覚大師が嘉祥3(850)年に開山したと伝えられる。1150年記念事業として期間中、「法話と映像」が本堂で行われる。新讃衡蔵(しんさんこうぞう)企画展も開かれ、普段公開しない寺宝や、秀吉によって持ち出された国宝・紺紙金銀字交書一切経の一部の里帰り展など多彩な内容が予定されている。
 千田貫首は「慈覚大師が築いた下地なくして藤原文化は成り立たなかった。開山1150年祭を通じて検証したい」としている。

 

●平泉町中尊寺で秘仏・一字金輪仏頂尊坐像の開眼法要 (岩手日日新聞:一関市)

 二十日の「中尊寺開山千百五十年祭」開幕を前に、平泉町・中尊寺(千田孝信貫首)の不動堂で十九日、国指定重要文化財の秘仏・一字金輪仏頂尊坐像の開眼法要が厳かに行われた。

 天台密教最高の秘仏で、藤原秀衡公がみちのくの平安を朝夕拝んでいたという念持仏。法要によって入魂された秘仏は、その尊貴な「智慧」と「慈悲」の姿を、祭り最終日の十一月十日まで見せてくれる。

 秘仏・一字金輪仏頂尊坐像の御開帳は、九年に開かれた金色堂国宝指定百年記念祭以来三年ぶり。昭和六十一年の秀衡公八百年御遠忌特別大祭にも一般公開している。
 一字金輪仏頂尊の「一字」とは、御真言が梵字(ぼんじ)「ボロン」の一字で表されるためで、諸仏の持つすべての徳を一身に集めた最高の仏頂尊を意味する。肌色の面に弧を描く優しいまゆや、肩から両わきに掛けての豊艶(ほうえん)な線、左手の人さし指を立て右手でそっと結ぶ智拳(ちけん)の印には体温のぬくもりすら感じられ、「人肌の大日」と親しみを込めて称される。
 平安時代の作で、カツラ材の寄せ木造り、像高は七六センチ。精巧な宝相華唐草文様(ほうそうげからくさもんよう)透かし彫りの五智宝冠をいただく。半眼に開かれたまぶたの奥には、水晶の玉眼が埋め込まれ、慈悲の涙にぬれているように見えるという。背面がなく、横から拝むと浮き彫りのような半身の体で光背(こうはい)に密着している。
 面の彩色は当時のままだが、首から下は延宝四年(一六七六年)に修復された。
 中尊寺開山千百五十年祭は、二十日の開闢(かいびゃく)法要で開幕する。慈覚大師の開山趣旨に立ち戻り、宗教的、歴史的意義を多くの人に知ってもらおう−と、秘仏御開帳のほか、五十年目になる昭和二十五年の四代公御遺体調査記録映画の上映、法華経一日頓(とん)写経会、金字般若心経写経会などを多彩に開催する。
 また、三月二十四日に開館した宝物館・新讃衡蔵では、落慶と開山千百五十年祭を記念して企画展(「寺宝綜観」四月一日−七月三十一日、「復元への試み」八月一−三十一日、「金銀字経里帰り展」九月十日−十月九日、「信の美、写経のこころ」十月十日−十一月十日)を開催する。

 

●気品漂う平安座像/重文の秘仏公開/岩手・中尊寺 (河北新報:仙台市)

 岩手県平泉町の中尊寺で19日、奥州藤原氏の3代秀衡の念持仏とされる秘仏「一字金輪仏頂尊座像(いちじきんりんぶっちょうそんざぞう)」が、報道陣に公開された。座像は平安末期の作で、国の重要文化財。カツラ材の寄せ木造り、像高76センチ。優しくひかれたまゆ、締まった朱色のくちびるが気高さを漂わせる。
 この日は収蔵先から不動堂に移された秘仏を前に、千田孝信貫首らが遷座法要を営んだ。
 秘仏の公開は、中尊寺と毛越寺の開山1150年祭の一環。20日から11月10日まで、一般にも公開される。

 

国宝仏像の素顔戻る 東寺 3年がかりの修復終わる (京都新聞 4月17日))

 京都市南区の東寺(教王護国寺)は、三年がかりで実施した国宝と重要文化財の仏像計二十体の修理を終え、このほど、すべての仏像を元通りに講堂に安置した。古くは空海(弘法大師)の時代からの仏像が堂内に整然と並べられ、荘厳な雰囲気をかもし出している。
 講堂の大半の仏像を対象にした修理は、鎌倉初期に運慶らが行って以来、八百年ぶり。東寺は一九九七年から、仏像を順次、境内の工房に移して修理した。
 今回、修理されたのは、弘法大師の構想で講堂に並べられた仏像二十一体のうち、不動明王座像や帝釈天半跏像(たいしやくてんはんかぞう)などの国宝十五体と、大日如来座像などの重要文化財五体の計二十体。
 大日如来など如来座像五体は解体修理、他の仏像もゆがみを直し、はく落を止め欠損部品を新調した。国宝の多聞天は、破損が目立たないよう施されていた彩色を落とし、建立時の「素顔」に戻した、という。
 また、修理に伴うエックス線撮影で、大日如来座像の頭部から仏舎利を納めた金属容器が見つかった。直径四センチ、高さ二センチの筒状で、額の白毫(びやくごう)の下に埋められていた。同座像は一四九七年の再建で、東寺は「弘法大師以来の仏像に仏舎利を納める伝統が、室町期まで連綿と受け継がれていたことを示す」としている。
 修理を終えた仏像は一般公開されている。開眼法要は三十日に営まれる。

 

酒船石遺跡発掘成果を語る 明日香村でシンポ (奈良新聞 4月17日)

 亀形石造物などが見つかった明日香村岡、酒船石遺跡の石敷き遺構の発掘成果についてのシンポジウム(同村教委・同村観光開発公社・飛鳥保存財団共催)が16日、同村川原の中央公民館で開かれ、古代史ファンなど約200人が参加した。
 京都橘女子大の猪熊兼勝教授をコーディネーターに、国際日本文化研究センターの千田稔教授と滋賀県立大の菅谷文則教授、同村教委文化財調査室の納谷守幸室長の3人が同遺構の性格などについて意見交換。
 猪熊教授は「遺構の石敷きの下層部分を見ると、斉明天皇の時代に3回にわったって改修されているようだ」と指摘。また、菅谷教授は「発掘された遺構は、天武・持統朝の時代の状態ではないか」とし、斉明朝以後も何らかの形で同遺構が利用されていた可能性があることを示唆した。
 また、猪熊教授が「遺構は斉明天皇の両槻(ふたつき)宮の一部ではないか」と問うと、菅谷教授は「日本書紀には、観(たかどの)を建てたとあるが、それにしては酒船石のある山は低すぎる」としたものの「宮の入り口の施設だったのではないか」と指摘した。
 さらに千田教授は「遺構からは亀形石造物が見つかったが、中国には亀が仙人の住む不老不死の世界を支える神仙思想を描いた画像石がある。斉明天皇は道教との深くかかわった女帝だったのだろう」と話した。
 納谷室長は「近く、遺構の南側と北側を重点的に調査していく予定だ。進展があれば、報告していきたい」とし、今後の調査への注目を呼びかけた。

 

池の建物に華麗な装飾 池の遺構から出土した金銅製の金具  (奈良新聞 4月14日)

 奈良市法華寺町、平城宮跡に隣接する法華寺阿弥陀浄土院推定地から極楽浄土の世界を立体的に表現した奈良時代後期の最古の浄土庭園跡が見つかり、13日、奈良国立文化財研究所平城宮発掘調査部が発表した。池の中に建てられた建物は、華麗な装飾が施されていたとみられる。池の遺構から、垂木(たるき)の先に取り付けられていた宝相華文が透かし彫りされた精巧な金銅製の金具(縦11.4センチ、横11.3センチ)や、半球形の縁が花形になった金銅製のくぎ隠し、円筒形の金銅製軸端金具などが出土。当時の代表的な寺院に勝るとも劣らない作りの製品ぞろいで、往時の豪華さがうかがえる。 

優雅な姿がよみがえる 石山寺の本堂修復 (京都新聞 4月14日)

 国宝の石山寺本堂(滋賀県大津市石山寺一丁目)の修復工事がこのほど終了、紫式部ゆかりの優雅な姿がよみがえった。
 同修復工事は県教委が一九九七年から取り組み、老朽化のため雨漏りもしていた礼堂と本堂全体の屋根を、桧(ひのき)皮と竹くぎを使う伝統工法でふき替えた。また、朽ちていた隅木を補修、しっくいの白壁を塗り替えるなど本格的に保存修理した。総事業費は三億千四百万円。 石山寺は七六二(天平宝治六)年、東大寺の僧良弁が建立したと伝わる。現存する本堂は、一度、焼失した後一〇九六(永長元)年に建立され、木造建築としては県内最古。本堂の前の礼堂とは寄せ棟造りでつながっており、一六〇二(慶長七)年に再建された礼堂と合わせ、異なった時代の建物が接続する希少な建築例から、一八九八(明治三十一)年、国宝指定された。

●法華経の経石出土 塩山・恵林寺 鐘楼基礎部から大小50個 (山梨日日新聞 4月14日)

 塩山・恵林寺の鐘楼(しょうろう)の基礎部分から、法華経の経文が書かれた経石約五十個が十三日までに見つかった。一八五六(安政三)年の鐘楼改築の際に「地鎮具」として据えられたとみられ、日蓮宗と他宗派との当時のかかわりを示す資料となりそうだ。
 見つかった経石は縦横十センチから二十センチ、握りこぶし大から人頭大まで大小さまざま。石の全面にびっしりと法華経が墨書されている。同寺による鐘楼の改築工事で確認された。
県埋蔵文化財センターの田代孝次長によると、今までに法華経二十八品のうちの数品が確認されており、出土した五十石の文字数は、少なくとも二万字になるという。「全体に経が書かれた経石は非常に珍しい。 恵林寺は臨済宗だが、日蓮宗が広く他の宗派にも受け入れられていたことを裏付ける資料となる。経の一文字が書かれた一字一石も法華経の例が多く、法華経が広く浸透していた江戸時代の信仰形態をみることができる」としている。
 同寺の鐘楼は、一七○五(宝永二)年に柳沢吉保が創建した永慶寺(現甲府市岩窪町の護国神社一帯)から、一七二四(亨保九)年、恵林寺に移された。田代次長は「移築の際に柳沢家の供養、地鎮を祈願して経石を据えた可能性もある。いずれにせよ、柳沢家の由緒ある鐘だからこそ丁重に扱われ、地鎮行為が行われたのだろう」と話している。

 

●1200年目のお出かけ (読売新聞 4月12日より)

 奈良市五条町の唐招提寺金堂に安置され、仏教美術の粋といわれる国宝・薬師如来立像(平安時代初期)が、奈良国立博物館で公開されるため、造立後1200年で初めて寺の外に運び出された。
 金堂の解体修理に伴い、同館が3年間預かって展示することになったもの。「木心乾漆造り」の像は高さ3.6m、台座を含めると5m近い。体の線をたっぷりと見せる天平彫刻の特徴を尊重したことがうかがえる。
 同博物館は、薬師如来立像の展示に合わせ、本館の展示内容を彫刻ばかりに一新した。

 

宝塚古墳から日本最大の船形埴輪が出土 ! (松坂市ホームページより)

 古墳のまつりの場とされる「造り出し」と古墳の中心部をつなぐ通路「土橋(どばし)」が、全国で初めて発見された三重県松坂市宝塚1号墳で、今度は日本最大の船形埴輪(ふねがたはにわ)が見つかりました。この船形埴輪は、その大きさだけでなく、これまでにない装飾がなされていることから、第1級の埴輪資料であることは間違いありません。

 宝塚1号墳から出土した船形埴輪は、ほぼ完全な形に復元でき、全長140センチメートル、高さ90センチメートル、最大幅25センチメートルあります。船形埴輪そのものは、大阪府や奈良県などで29の出土例がありますが、今回出土した船の大きさは日本最大です。
 さらに特筆すべきは、これまでの船形埴輪にはない豪華な装飾がなされていることです。船の船首と船尾には、権威を象徴する鰭(ヒレ)状の突起が多数付けられています。また船体には、同じく権威を象徴する日傘のような蓋(きぬがさ)、王者のもつ杖(つえ)とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀(たち)が、マスト状に立てられていました。
 こうした飾りを持つ船は、古墳の石室に描かれた壁画や古墳の周りに立てられた円筒埴輪に描かれた絵などでは知られていましたが、船形埴輪として出土したのは全国で初めてです。このため、古代の葬送(そうそう)の儀式に使う船は様々な権威を示すものをマスト状に飾り立てるという、今までの絵画による資料を裏付ける、全国でも最高水準の埴輪資料と言えます。
 もちろん船は、漁などをするために縄文時代から存在していましたが、その頃の船は、大木の中をくりぬいた丸木舟でした。それが弥生時代になると、くり舟の上に部材を足して大型化を図ったものがみられます。これが準構造船と呼ばれるものです。
 宝塚1号墳が造られた今から1600年前の船も準構造船で、船首と船尾が大きくせり上がっており、これは大波を乗り切れるように造られているためです。奈良時代から平安時代にかけて、中国に日本から遣(つか)いを送った遣唐使(けんとうし)船の絵などでも外洋航海を可能なものとするため、船首と船尾がせり上がっています。
 ただ、宝塚1号墳の船のせり上がりはあまりに激しく、また、船の大きさに対する大刀の巨大さからも誇張した表現がみられることが分かるように、あくまでも実際の船ではなく埴輪として作られたものです。楕円形の埴輪2個分の形をしている船底部分からもそれが言えるでしょう。
 船を進めるろの穴は、左右に3対ずつ計6か所ありますが、左右で一定の方向に開けられ、推進方向が分かります。また船本体はもちろん、威厳を示す鰭飾りや船に描かれた模様も丁寧に作られていて、美術的にも大変すぐれたものです。
 なお船は、楕円形の底の部分が土に埋められた状態で見つかり、隠れていた部分を除き、赤色の塗料が塗られていました。赤色は従来から「神聖なものを守り、邪悪なものを退ける」意味があるとされていますので、古墳に埋葬された人の霊魂が何者にも妨げられず黄泉(よみ)の国へ旅立てるよう、祈ったものかも知れません。
 以上のことから考えると、宝塚1号墳から出土した船形埴輪は、松阪市民のみならず国民全体の貴重な財産として位置づけられ、後世に伝えられるものとなることでしょう。

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●開祖・性空の木彫像を発見 書写山円教寺 

 西国三十三霊場の一つで「西の比叡山」とも呼ばれる、姫路市の書写山円教寺(大樹孝啓住職)で僧形の座像が見つかり、十世紀後半から十一世紀前半に制作された同寺開祖の性空の木彫像であることが三日、早稲田大学東洋美術史研究室の調査で分かった。現存する性空の画像や木彫像よりも古く、同研究室の桜庭裕介講師は「同じ平安時代の仏像に比べても、芸術性、写実性に優れ、肖像彫刻としてのレベルは高く、国の重要文化財級だ」としている。
 性空像は、塔頭仙岳院の蔵で白布に包まれた状態で発見された。高さ七十八センチの座像で、材質はヒノキで表面には胡粉(ごふん)などが塗られていた。胸の表面が虫に食われるなど傷みがひどく、両耳や 両手、ひざ前の部分は作り替えられていた。頭部から胴体部分は、ほぼ完全な形で残っていた。
 桜庭講師によると、頭頂部分が極端に大きい▽くちびるが薄く中央部分が突き出ている▽まゆ骨が盛り上がっている―などが同寺の開山堂に本尊として安置されている性空像と共通していることから、性空像と 断定。一木造りや、大きな衣のひだの間に小さなひだを入れる翻波式 衣紋(ほんぱしきえもん)といった平安期に特徴的な技法が確認できた。性空が九十八歳で亡くなった一〇〇七年前後の制作と推定され、性空の弟子で仏師の安鎮が刻んだと考えられるという。
 大樹住職は「素晴らしいものが見つかり、緊張している。若いころの姿だと思える」と話している。五月三日から五日まで同寺食堂で公開される。同寺TEL0792・66・3327。

 ●最古の前方後円墳  (3月28日 奈良新聞)

 桜井市箸中、纏向遺跡東南部の前方後円墳、ホケノ山古墳(全長約80メートル)が、のちの大型古墳につながる要素を持った最古級の古墳であることが分かり、27日、調査をしていた大和(おおやまと)古墳群調査委員会(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が発表した。棺を保護する木槨(もっかく)に石囲いを施した二重構造の埋葬施設は、弥生時代と古墳時代前期の特徴を併せ持ち、築造年代は出土土器などから大型前方後円墳・箸墓古墳(3世紀後半)より古い3世紀中ごろとみられている。同時代は「魏志倭人伝」に記述のある邪馬台国に女王・卑弥呼が君臨した時期とも重なることから、大型古墳の成立過程を探るだけでなく、被葬者を含めた邪馬台国論争にも一石を投じる資料として注目を集めそうだ。
 直径約60メートルの後円部の南北方向に設けられた埋葬施設は、内径で長さ約7メートル、幅約2.7メートル。木材を並べて構築した長方形の木槨の周囲に石が積み上げられる前例のない形式だったとみられている。積み石は天井部にもされ、高さは1.5メートルほどと推定。石積み上には、穴が開けられた二重口縁壷(つぼ)が一定の間隔で方形に並べられていたと考えられている。
 木槨内部には長さ約5メートル、幅約1メートルのコウヤマキ製のくり抜き式木棺を収納。棺中央付近には多量の水銀朱跡があった。
 棺内からは、中国・後漢末の製作とみられる鮮明な画像の画文帯同向式神獣鏡(約19センチ)や鉄剣が出土。周囲からも呪(じゅ)術的色彩を帯びた鏡片や鉄・銅鏃(ぞく)、農工具といった鉄製品、土器などが大量に見つかった。 同古墳は、コウヤマキ製くり抜き式木棺の使用や副葬品の多さ、壷の方形配列など古墳時代前期の前方後円墳の様式につながる要素を有する。一方で、木槨の埋葬施設や追葬、鏡の出土位置から後の主流の北まくらではなかったことなど弥生時代の墳墓的要素も残している。こうしたことから同古墳は、弥生と古墳時代をつなぐ中間的なものと位置付けられている。
 さらに、当時としては国内最大級の墳丘を持つ古墳とみられることから、同時代に存在した邪馬台国や、のちの大和政権との関連も指摘されている。
 現地説明会は4月8、9日の午前10時から午後3時。

 河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長の話
 定型化する大和の前方後円墳の源流となる古墳が同じ大和にあったということがはっきりした。大和で最古の古墳であり、出現期の古墳の直接的な資料として貴重な成果を得た。 

  

●清水寺本尊 33年ぶり開帳 荘厳 秘仏お出まし (京都新聞 3月3日記事)

 京都市東山区の清水寺で三日、本尊の十一面千手千眼観音立像が三十三年ぶりに開帳された。本堂(国宝)内の厨子(ずし)の扉が静かに開けられると、秘仏が荘厳な姿を現した。
 本尊は高さ約百七十センチの寄せ木造りで、鎌倉時代の作とみられる。「清水の舞台」で知られる本堂・内々陣の厨子に安置され、四十二本の手の法力が、あらゆる現世利益をかなえるとされている。
 ご開帳は堂寺にとって最重要、最大の行事で、江戸時代には参拝者の人並みで圧死者が出たこともあるという。一九六七年以来となった今回の平成のご開帳は、十二月三日までの九カ月間にわたり行われる。
 三日は、午前十一時に僧りょや来賓三百人以上が席を埋めた本堂で開白(かいびゃく)法要が営まれ、森清範貫主や僧りょが読経し声明を唱えた。僧りょが黒い厨子の扉をゆっくりと両側に開くと、手の一対を頭上高く上げ、仏の化身をいただいた本尊が姿を現した。
 同寺では、開帳期間中、境内や門前を竜が練り歩く「青龍会」や、お堂の床下の暗やみを参拝する「胎内巡り」など、新しい行事を予定している。

 

●古墳時代金色の輝き 春日居平林2号墳馬具や玉、多彩な副葬品 (山日新聞2月28日付)(山梨県)

             

 山梨県埋蔵文化財センターが調査していた、東山梨郡春日居町鎮目の古墳「平林2号墳」から出土した副葬品の保存処理がこのほど終わった。金色に輝き、豪華さを伝える馬具や鏡、玉などの副葬品は多彩。六世紀後半から七世紀にかけた県内の古墳時代後期を代表する出土例という。
 同古墳は六世紀前半に造られ、八世紀後半まで追葬された円墳。一九九八年度に調査し、本年度出土品の保存処理を進めていた。副葬品は馬具二十四点、甲ちゅう類五十点、ガラス製の首飾りの玉など三百点以上、金環十二点、鏡二点などに及ぶ。
 このうち、馬具の一つでくつわ付近に付ける花形鏡板は県内では初の出土。縦約八センチ、横約九センチ。鉄板を加工し、鍍金(ときん)された青銅版をかぶせた作り。九葉の花をかたどり、直径約一センチの円形文が施されている。中心付近に文様がある「櫛目文鏡」(直径約六センチ)も県内で初めて出土した。
 発掘を担当した同センターの吉岡弘樹氏は「豊富な副葬品は、支配者層と思われる被葬者の優位性を示すのに十分で、県内古墳研究の貴重な資料」と話している。

 

●お水取り本行入り 奈良市 (奈良新聞 2月1日記事)

 古都に春の訪れを告げる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ=お水取り)は1日、1249回目の本行入り。ことし初めて長さ約6メートルの「おたいまつ」がともされ、二月堂の舞台の欄干から赤い火の粉が舞った。
 おたいまつは、11人の練行衆が夜の行のため参籠(ろう)宿所から二月堂に上堂する際の道明かり。先導役の「童子」が持ち、練行衆の足元を照らす。
 午後7時、練行衆は炎に導かれるようにゆっくりと二月堂へ。役目を終えたおたいまつが舞台の欄干越しに突き出されて振られると、まばゆい火の粉が舞い落ちた。火の粉を浴びると無病息災をもたらすとの俗信もあり、火の粉が落ちるたびに観客から歓声が上がった。
 おたいまつは、14日までの毎日午後7時からともされる(12日は午後7時半、14日は午後6時半から)。 

 

●石敷きの広場、水溜める石造物発見 酒船石遺跡   (平成12年2月22日 毎日新聞より)

 奈良県明日香村岡の酒船石(さかふねいし)遺跡で、石段のある飛鳥時代の石敷きの広場が見つかった。22日発表した同村教委によると、石材の用い方から、さまざまな土木工事に取り組んだと伝わる斉明天皇時代(在位655〜61)の築造という。広場の中央に亀と小判の形をした水を溜(た)める石造物2点が見つかり、複数の専門家が「水を用いた祭祀(さいし)の場(祭場)」と指摘。また、日本書紀に記述があり、斉明天皇が道教的な思想を背景に築いたとされる両槻宮(ふたつきのみや)の一部だったとも考えられるという。神格化が進んだ飛鳥時代の天皇の権威を示す重要な遺構で、天皇を中心とした国家形成の過程を解明する一級資料となりそうだ。 
 現場は「岡の酒船石」(国史跡)のある丘陵の北側ふもとにあり、二つの尾根に挟まれた谷にあたる。村教委は、県が近くで建設を進める「万葉ミュージアム」への進入路造成工事の事前調査として、約750平方メートルを発掘した。
 近くの飛鳥川の河原石を用いた12メートル四方の石敷きの広場が見つかり、同県天理市産の砂岩の石列で区画、西側は砂岩が敷き詰められていたらしい。砂岩は斉明天皇の後飛鳥岡本宮とみられる遺構から大量に出土したものと同種で、遺構の時期を決める根拠となった。
 広場の東の尾根すそには幅6メートルの石段(8段)とテラス、砂岩を敷いた溝などがあり、西の尾根すそには高さ1メートルの花こう岩と砂岩の石垣と溝などがあった。
 亀形と小判形の石造物はいずれも、付近で採れるせん緑岩の一枚岩。亀形は全長2・4メートル、幅2メートル。頭は南向きで鼻と口、しっぽに穴があり、甲羅に水が溜まる構造。小判形石造物は全長1・65メートル、幅1メートル、深さ20センチの水槽状で、北側の穴から水が流れ出て亀の鼻の穴に注ぎ込む仕組み。甲羅の水はしっぽの穴から流れ出て、広場中央を南北に走る溝を伝うようになっていた。
 道教の世界観で仙人が住む蓬莱山(ほうらいさん)を支える大亀をモデルにしたと考えられ、遺構は道教の神仙世界を再現したともみられる。
 南北溝の延長線上の南75メートルの丘陵上に「岡の酒船石」があり、斉明天皇が斉明2(656)年に築いた、と日本書紀が伝える「宮の東の山の石垣」とみられる石垣が、既に近くの斜面から見つかっている。
 専門家の中には、石垣は斉明天皇が「田身嶺(たむのみね)」に建てたとされる道教風の両槻宮の一部とする説もある。石垣と今回の遺構が同じ石材だったことから、村教委は「広場は以前に見つかっている石垣と同時期に造られた一体の施設」とみている。
 現地説明会は26、27日午前10時〜午後3時。近鉄橿原神宮前駅と、JR・近鉄桜井駅から臨時バス(有料)が運行される。車での来場はできない。 【奥野 敦史】

 

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●「近江観音の道」発行

湖国の仏教文化をたどってみては

 滋賀県の「淡海文化を育てる会」(代表・西川幸治県立大教授)はこのほど、近江歴史回廊指定の十ルートのうち「湖南観音の道」と「湖北観音の道」に点在する観音像や歴史的背景を紹介するガイドブック「近江観音の道」を発行した。

県内の各団体などで組織する「淡海文化を育てる会」が毎年、東海道や湖西湖辺の道など各ルートのガイドブックを発行している。

今回の「近江観音の道」は、木村至宏大津市歴史博物館長ら十二人が寄稿。滋賀県高月町渡岸寺の国宝十一面観音など主要寺院の観音像を紹介しているほか、県内の仏教文化の歴史的背景を解説している。

A5判、二百四十二頁で、一部千五百円。県内の主要書店などで販売している。問い合わせは同回廊推進協議会事務局 電話077(528)3334へ。

 

●東本願寺 次回以降の企画 白紙に

 寺宝失い 展示困った蓮如の肖像画など貴重な寺宝を企画展示してきた京都市下京区の東本願寺内のギャラリーが、ピンチを迎えている。真宗大谷派(本山・東本願寺)が、前門首の四男、大谷暢道氏に大量の寺宝を引き渡した影響で、次回展示の企画は白紙となった。宗派は「これから宝物を中心にした企画展は難しくなる」と頭を抱えている。

ギャラリーは昨年春、宗派が約二十四億円かけて建設した参拝接待所の一階入口と地下一階にオープンしたばかり。「宗派の歩みや現代社会へ広くメッセージを発信する重要な場」(参拝部)として、東本願寺の所蔵品やパネルによる企画展を開いてきた。  ところが、寺宝の所有権をめぐって、大谷家との間で長年争われた訴訟でこのほど判決が確定。約三百九十点が今月中旬に宗派から大谷家に引き渡された。

今年一〜三月にギャラリーが企画した「蓮如」展で公開した幼年時の蓮如肖像画や直筆書「御文」をはじめ、名庭園「渉成園」展(同五―七月)の展示品全十一点のうち八点、「聖徳太子」展(八月〜九月)の太子の衣の断片とも伝わる「御衣切(おんぞきれ)」などを失った。

こうした事態に、総務部幹部は「宝物に頼った企画は、事実上できなくなった」と悩みをもらす。「今後は写真やパネルなどを活用し、展示を工夫する」(参拝部)としているが、現在開催中の「親鸞の御絵伝」展(来年二月末まで)からあとの企画は、めどがたっていないという。

 

●高台寺で「蒔絵の世界」展

大胆で自由な意匠

 京都市東山区の高台寺・掌美術館は「桃山の美 高台寺蒔(まき)絵の世界」展を開いている=写真=。大胆で自由な意匠の工芸品から、天下統一のおおらかな時代の空気が伝わる。

高台寺は豊臣秀吉の妻ねねの建立で、展示では所蔵する桃山時代の蒔絵の工芸品二十点が並ぶ。漆(うるし)地に、金箔(ぱく)細工を直接施した簡素な技法は、「高台寺蒔絵」と呼ばれている。

 重要文化財の「竹秋草蒔絵文庫」などの作品は、黒と金色を対比させ、花などの文様を大胆に図案化している。新しい時代を切り開いた人たちが、伸び伸びとした表現を好んだ様子がしのばれる。九月二十四日まで。有料

 京都新聞 1月7日記事より

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●箱根・二十五菩薩

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【行き方】

小田原駅からバス、「六道地蔵」下車。車なら箱根の旧国道1号沿い。駐車場は少ない。