文化財ニュース
特選情報(2000年下半期)
●仏様もさっぱり 薬師寺で「お身ぬぐい」 (奈良新聞 12月30日)
奈良市西ノ京町の薬師寺(松久保秀胤管主)で29日、金堂の本尊・薬師三尊像(国宝)に積もったほこりを払う「お身ぬぐい」が行われた。
午後1時すぎ、鐘の音を合図に10人の僧りょが入堂。仏像の魂を抜く法要を営んだあと、薬師如来坐像や日光・月光両菩薩立像にはしごをかけるなどして清掃の準備を始めた。
はしごの上に登った僧りょは、お供え用のもち米を蒸した残り湯に浸した白布で、仏像の顔や体、台座の細かい部分まで丁寧にぬぐった。奉仕の学生が僧りょに手渡す布は、ひと拭(ふ)きすると黒く変色したが、布が交換されるたびに仏像は輝きを増していった。
参拝者は、僧りょとともに経を唱えたり、手を合わせるなどして作業を見守っていた。
●重文「空也像」のレプリカ安置 六波羅蜜寺 「踊躍念仏」に併せ (京都新聞 12月14日)
京都市東山区の六波羅蜜寺本堂に十三日、国の重要文化財「空也上人立像」の模刻像(レプリカ)が安置された。実物大で、色合いや像が醸し出す雰囲気までそっくりの像に、参拝者らは手を合わせていた。
展示は、同日から三十日にかけて行われる空也踊躍念仏に合わせて企画した。千葉県市川市の堂本寛恵さん(27)が、東京芸術大大学院の修了制作として作り、今年五月に同寺に奉納した。堂本さんは現在、彫刻や彫刻修復の仕事に携わっている。
模刻像は、二年がかりで作られた力作。大学院の修了展で展示して以来の公開に、堂本さんは「空也の生き方に共感して、題材とした。本人を思い浮かべられるように、歩きながら念仏を唱える雰囲気を作るのに苦労した。展示していただいて光栄」と喜んでいた。
空也踊躍念仏の見学に訪れた参拝者の中には、本堂にお目見えした模刻像を本物と見間違える人もあり、空也が創立した同寺の風景にすっかりとけ込んでいた。展示は三十日まで。
●ほこり払い さっぱり 法隆寺でお身ぬぐい (奈良新聞 12月9日)
斑鳩町の法隆寺(大野玄妙管長)で8日、仏像につもった1年間のほこりを払う「お身ぬぐい」が営まれ、僧りょが境内の諸堂を回って仏像を清めた。
平成5年に同寺が世界遺産に登録されたのを機に始められた師走の恒例行事。
午前10時、国宝の金堂内陣に集まった作務衣(さむえ)姿の僧りょらは、大野管長を導師に仏の魂を抜く読経をしたあと、マスクを付けて作業を開始。竹の先に和紙を付けたはたきや刷毛(はけ)などを使って釈迦三尊像(国宝)や仏具などのほこりやちりを丁寧に取り除いて行った。
堂内はすぐにほこりに包まれたが、仏像はしだいに元の輝きを取り戻した。参拝者はほこりを浴びながらも、美しさがよみがえっていく仏に手を合わせていた。
お身ぬぐいは大講堂や夢殿(いずれも国宝)でもあり、秘仏の救世観音像(国宝)なども清められた。
●国宝「鳳凰」も展示 平等院ミュージアム完成 (京都新聞 12月6日)
京都府宇治市宇治の世界遺産・平等院の境内に建設中の平等院ミュージアム「鳳翔(ほうしょう)館」がほぼ完成し、五日、関係者に公開された。国宝の梵鐘(ぼんしょう)や鳳凰など多数の宝物を収蔵、展示するほか、文化財修理の設備もある総合博物館として生まれ変わった。来年三月一日にオープンする。
平等院には、これまで宝物の収蔵を主目的とする宝物館があったが、老朽化が進んでいたことから、二〇〇二年の創建九百五十年を前に全面改築、総合博物館として整備を進めている。
鳳翔館は、鉄筋コンクリート・鉄骨造で地上一階、地下一階(延べ約二千二百五十平方メートル)。鳳凰堂の南西に位置するため、庭園の景観と調和するよう大部分を地下化、最新の空調設備や耐震構造をとり入れた。
梵鐘や鳳凰堂の屋根に飾られていた鳳凰一対、鳳凰堂内部の壁面の木造雲中供養菩薩像(全五十二体のうち二十六体)など国宝約三十点のほか、重文や府、市指定文化財、境内の発掘調査の出土遺物なども常設展示される。これまで非公開だった平等院修造勧進状(府指定文化財)や創建期の古金具なども披露する。
●唐招提寺の千手観音像 鎌倉・大正の修理で復元ミス 過去の修理、位置ずれる (毎日新聞 12月5日)
奈良・唐招提寺の金堂解体修理に伴って修理が進んでいる三本尊の一つ、国宝・千手(せんじゅ)観音立像(奈良時代末〜平安時代初期)の約1000本の手の大半が、製作当初とは違う位置に取り付けられていたことが4日、分かった。過去2度の大修理で取り外した際、元の位置に戻せなかったらしい。修理している財団法人・美術院国宝修理所(京都市)は「本来の位置が分かれば戻したいが、玉突き的にすべての位置が動き、全体のバランスが崩れる」と頭を抱えている。
立像は高さ5・3メートルの木心乾漆像。合掌したり、宝物を持つ42本の大手(だいしゅ)と、小脇手(しょうわきしゅ)と呼ばれる911本の小さな手がある。8月からの修理で、像両脇の板にクギで打ち付けた全部の小脇手と、大手のうち左右に張り出した32本を外したところ、外した位置以外にもクギを抜いた穴を大量に発見。小脇手の大半が、元の位置とは別の位置に付けられていたことが分かった。
立像は鎌倉時代と大正時代に大修理された。鎌倉の修理では手と取り付け位置に符号を記すなどし、大正の際も手を外すごとに図を描いたが、取り付けの際に少しずつずれたらしい。"余った手"を目立たない所に取り付けたようなものも数本あった。
今回は写真撮影のほか、レーザー光線による三次元計測もし、取り付け時の混乱はなさそう。しかし、元々の位置に戻すのは難しい。藤本青一所長は「先人の苦心の様子が分かる。クギ穴も記録したうえで、修理前に戻すしかないだろう」と語る。
●厳かに「結願法要」 清水寺 本尊開帳終わる (京都新聞 12月4日)
京都市東山区の清水寺で三日夜、本尊・十一面千手千眼観音立像の開帳の終わりを告げる結願(けちがん)法要が営まれ、本堂(国宝)内の厨子(ずし)の扉が静かに閉じられた。九カ月間公開された秘仏は、次回開帳までの三十三年間、再び人の目に触れることなく安置される。
法要は午後十時半から営まれ、森清範貫主が「仏の加護、本尊の守護、関係各位のおかげで無事、結願の有終を迎えた。また次も拝ませたまえ」と表白文を読み上げ、人類和平を祈った。続いて脇侍(わきじ)の毘沙門天、地蔵菩薩の御簾(みす)が下げられ、本尊の厨子の扉がゆっくりと閉められた。
三月の開帳以来、多くの参拝者に荘厳な姿を見せた秘仏が姿を隠すと、信者や門前の人たちが一心に手を合わせていた。
清水寺によると、期間中、本尊の参拝者は約百四十二万人にのぼったという。次回の本尊の開帳は二〇三三年。
●紫香楽宮の「朝堂院」跡出土 信楽町 当時最大級の橋脚遺構も (京都新聞 11月22日)
奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮跡と推定されていた滋賀県甲賀郡信楽町宮町の宮町遺跡から、天皇が国家の重要な儀式などを行う「朝堂院」の一部とみられる大規模な掘っ立て柱建物跡が出土、また、同町黄瀬の新宮神社遺跡で朝堂院に続くとみられる当時最大級の橋脚遺構が見つかったと二十二日、同町教委と滋賀県教委が発表した。同町教委は「紫香楽宮は宮町地区にあった」と断定、関係者は「なぞが多い紫香楽宮の実態解明に直結する極めて重要な発見」と評価している。
宮町遺跡で出土した掘っ立て柱建物跡は南北約九十二メートル(二十二間)、東西約十二メートル(四間)。柱跡は約三メートル幅の土間を挟んで内外二列に並んでおり、柱の間隔はいずれも約四・三メートルで、最北端だけは約三メートル。柱穴はいずれも直径約三十センチで、二カ所の柱穴にはヒノキらしい柱根が残っていた。建築様式から、建物には庇(ひさし)が付いていたと考えられるという。
建物跡は、平城宮などの宮殿遺跡の朝堂院にある建物とほぼ同規模で、地形なども考え合わせて、同町教委は「建物跡は朝堂院のうちの西脇殿とみられる。これを基に東脇殿、大極殿などを探ることができる。見つかった建物は予想以上に大きく、紫香楽宮は本格的な造りだった可能性もある」としている。
一方、宮町遺跡の南約一キロにある新宮神社遺跡で出土した橋脚跡は、幅約八・五メートル、長さ約九・五メートル。掘っ立て柱式で、柱穴の直径は約七十〜四十メートル。幅約三メートル程度だった当時の一般的な橋よりはるかに大きく、橋脚跡南側には朱雀路のものとみられる側溝らしい溝跡が見つかった。県教委は「大仏造営が行われたとされる甲賀寺と紫香楽宮を結ぶ朱雀路が整備されていた」と判断している。
宮町遺跡調査は一九八三年から始まり、今回の第二十八次調査までに三千点以上の木簡などが出土。同遺跡が紫香楽宮の中心部と推定されていたが、決め手となる証拠が見つかっていなかった。
二十五日午後一時から県教委、同三時から町教委の現地説明会が行われる。
紫香楽宮(しがらきのみや)
難波宮や恭仁京を造営中だった聖武天皇が、奈良時代中期の七四二(天平十四)年に離宮として造営を開始。七四三年に大仏造立の詔(みことのり)を出し、甲賀寺に大仏の骨組みとなる体骨柱を立てたとされる。七四五年一月に正式な都と公示されたが、その後、山火事や地震が相次ぎ、聖武天皇は同年五月に恭仁京へ移り、六月には平城京へ都が戻された。
●建物跡 平城京に匹敵 「幻の紫香楽宮」全容解明へ (京都新聞 11月22日)
滋賀県甲賀郡信楽町教委などが二十二日、紫香楽宮の朝堂院・西脇殿とみられる建物跡と大型の橋脚跡が、同町宮町の宮町遺跡などから見つかったことを明らかにした。天平期に都を転々と移した聖武天皇が、ひと時だけ身を置き離宮とされていた紫香楽宮だが、建物跡の規模は予想以上に大きく、関係者からは「本格的な都づくりを考えていたのでは」と、驚きの声も上がっている。
紫香楽宮は一九二六年、宮町遺跡の南約二キロにある甲賀寺跡とされる場所が、史跡・紫香楽宮跡と指定された。しかし、八〇年代から始まった宮町遺跡周辺の発掘調査で、「王」と書かれた木簡が見つかるなど、最近では「宮町遺跡が紫香楽宮の中心」との見方が強くなっていた。
今回の調査では、田園の中から、南北に整然と並んだ長大な建物の柱跡が見つかった。地形などから役人たちが執務していた西脇殿と考えられ、以前、紫香楽宮跡調査委員会副委員長として調査した奈良国立文化財研究所の町田章所長は「これで動かぬ証拠が出た。宮町遺跡が紫香楽宮の中心だったことがやっと分かった」と喜ぶ。
史跡・紫香楽宮跡と宮町遺跡の中間点にある新宮神社遺跡から見つかった橋脚遺構について、同委副委員長の栄原永遠男大阪市立大教授は「(橋の幅から)かなり大きな道があり、甲賀寺と同宮を結ぶメーンストリートだったはず」と指摘、県文化財保護協会の畑中英二主任技師は「道は朱雀門に通じる朱雀路と考えられる」と話す。
また、建物跡が平城京の建物に匹敵する規模だったことから、恭仁京(京都府相楽郡加茂町)調査に携わる井上満郎京都産業大教授は「恭仁京の離宮として考えられていた紫香楽宮だが、聖武天皇は、甲賀寺を含んだネットワーク的な首都構想を持ち、本格的な都市計画に着手していたのではないか。奈良時代の歴史を考え直す発見」と高く評価。
文化庁記念物課の坂井秀弥文化財調査官は「地権者の了承も必要だが、今回の発見で、甲賀寺とされる史跡・紫香楽宮跡に、宮町遺跡を追加することになるだろう」と話している。
紫香楽宮はわずか半年足らずの都で、具体的な実態が分からなかったため、「幻の都」とのイメージが強かった。それだけに信楽町教委の鈴木良章文化財係長は「今後、(西脇殿の対称地にあるはずの)東脇殿などをポイントを狙って調査できる。中心部から始め、全容を明らかにしたい」と夢を膨らませている。紫香楽宮跡調査委委員長・小笠原好彦滋賀大教授(考古学)
紫香楽宮の中心部が確定したことで、史跡・紫香楽宮跡の指定根拠が薄まった。同宮跡は大仏造営が行われた甲賀寺跡地と考えられ、この地点の調査をすれば、聖武天皇がなぜ信楽に大仏を造ろうとし、この地を宮に選んだのかという最大のなぞの解明につながるかもしれない。
●「新堂廃寺」に30メートル超の塔? 法隆寺五重塔級、礎石を確認 (毎日新聞:関西版)
7世紀前半の飛鳥時代に創建された古代寺院の遺構「新堂廃寺」(大阪府富田林市緑ケ丘町)で、創建当時の塔の基壇(基礎部の盛り土)と、心柱(塔の中心の柱)を支えた石の塔心礎が見つかったと14日、同市教委が発表した。心柱跡の直径から、同市教委は「高さは法隆寺五重塔(総高31・55メートル)に匹敵する30〜35メートルの五重塔と推定され、飛鳥時代の主要な寺であることが改めて確認された」としている。
同寺は文献にはないが、1960年以降の調査で、出土瓦(がわら)や中門の基壇から飛鳥時代に創建されて焼失し、8世紀の白鳳時代か天平時代に再建されたことが判明。塔の遺構では再建後のものだけが確認されていた。今回、調査区域を広げたところ、既に発掘していた白鳳・天平時代の地面の南側地下50センチから、飛鳥時代の塔基壇の一部が出土。1辺13・5メートルの正方形だったことが分かったほか、東側地下40センチから塔心礎も見つかった。
心礎は五角形の花こう岩で、最長2・1メートル、最大幅1・6メートル、高さ約1メートル。中心に直径80センチの心柱跡があった。
市教委は、塔の高さは柱の直径の30〜40倍が有力説とされる▽法隆寺五重塔(奈良県斑鳩町)が心柱の直径90センチ、塔基壇が1辺13・9メートルで類似する▽創建当時は五重塔が一般的―などから「法隆寺並みの五重塔」と推測している。
現地説明会は18日午前10時〜午後4時。問い合わせは市教委文化財保護課(0721・25・1000)。◇中宮寺以来の発見−−堀田啓一・高野山大教授(考古学)の話
飛鳥時代の塔心礎の発見は63年の中宮寺(斑鳩町)以来だと思う。法隆寺や四天王寺(大阪市天王寺区)と並ぶ古代寺院だったことが裏付けられた。
●東大寺境内で大型建物跡 正倉院に匹敵の規模 (奈良新聞 11月8日)
奈良市雑司町の東大寺境内で、礎石立ちの大型建物跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。同寺が創建された奈良時代後半(750〜760年代)の建築で、正倉院に匹敵する規模とみられる。同研究所は、寺で使う物資を納めた「正倉」と推定している。調査地は、寺を事務的に管理した「上司(じょうし)」があった地域で、前身の「三綱(さんごう)」に付属する倉庫との見方もある。これまで調査のメスが入らなかった地域だけに、創建期の東大寺を知る上で重要な資料となる。
調査地は大仏殿の北東約300メートル。食堂(じきどう)の北側。住宅の建て替えに伴い、約110平方メートルを発掘調査している。出土した瓦(かわら)から、8世紀中ごろの遺構とわかった。
建物跡は南北に長く、東西約7.8メートル、南北11.7メートル以上。中央にほぞのある礎石(直径約1.2メートル)が4ヵ所で見つかった。礎石の柱座は直径約80センチ。建物の北東隅にあたる。
礎石は約3.9メートル間隔で並んでおり、正倉院の柱間(約3.3メートル)を上回る。地方寺院なら金堂に匹敵する大きさで、方眼状に柱を立てる「総柱(そうばしら)建物」と分かった。
床下には幅約1.8メートルの石敷きがあり、中央にかけて緩やかに傾斜。雨水を排水し、床下からの湿気を防ぐ役目があったとみられる。
雨落ち溝から推定できる軒の長さが約1.5メートルと短いことから、正倉院のような校倉(あぜくら)ではなく、板倉の可能性が強い。円面硯(すずり)の破片や墨書土器などの遺物も見つかった。
調査地の西側には江戸時代まで2つの油倉があり、同寺本坊と奈良市の手向山八幡宮に移築されている。総柱の構造や床下の石敷きなどから、今回の建物も倉庫の1つと推定できる。
天平宝字7(763)年の正倉院文書には、銭や紙を「寺正倉」から、綿や布を「司正倉」から写経所に納めたことが記されている。
寺の事務的な管理機構である「上司」が文献に現れるのは平安時代ごろからで、奈良時代には、寺の三役が詰める「三綱」がその役目を果たしたと考えられている。
「司正倉」は、伽藍(がらん)の維持管理を行う役所「造東大寺司(ぞうとうだいじし)」の関連施設とみられることから、同研究所は「寺正倉にあたる可能性が最も強い」としている。
奈良時代の井戸跡も見つかり、井戸枠に石臼(うす)の破片が組み込まれていたことから、「東大寺要録」にある「碓殿(うすどの)」の可能性も浮上している。
現地説明会は、11日午前10時から午後4時まで。栄原永遠男・大阪市立大教授(日本古代史)の話
総柱や石敷きなどの構造は、正倉と考えるのが妥当ではないか。上司の前身である三綱所は東大寺の管理機構であり、正倉があってもおかしくない。正倉院文書に何度も登場する正倉が、具体的にイメージできる貴重な資料。
◆国内最古の石臼破片も 東大寺 大型建物跡 (奈良新聞 11月8日)
県立橿原考古学研究所が行った東大寺境内の発掘調査では、奈良時代の井戸跡に組み込まれた石臼(うす)とみられる破片も見つかった。時代を確認できる石臼としては国内最古の発見例で、「東大寺要録」に記された「碓殿(うすどの)」との関連が注目される。謎(なぞ)の大型建物は「正倉」か「碓殿」か、まったく未知の建物なのか−。研究者の論議を呼びそうだ。
石臼の破片は井戸枠に組み込まれており縦約25センチ、横約10センチ。粉をひくための線が刻まれており、直径約1メートルの円形に復元できる。
石臼は仏教とともに、朝鮮半島から伝わったとされ、福岡県太宰府市の観世音寺には、天平期のものとされる巨大な石臼(直径約1メートル)が残っている。巨大な石臼を備えた製粉工場は碾磑(てんがい)と呼ばれ、東大寺転害門(国宝)の語源とする説もある。
同志社大の三輪茂雄名誉教授(粉体工学)は、「(破片は)石臼以外のものではあり得ない。当時の日本では大変珍しく、『七大寺巡禮(れい)私記』に現れる石唐臼かもしれない」と話す。
平安時代に記された「七大寺巡禮私記」は、東大寺の見所の1つとして、「碾磑亭は食堂(じきどう)の北にあり。亭内に石唐臼を置く」と記している。食堂の北は、まさに今回の調査地にあたる。
調査を担当した県立橿原考古学研究所の今尾文昭主任研究員は「水車を回す水も確保できる場所で、石敷きが排水用だとすれば、碓殿の可能性もある」と考察。「正倉」に次ぐ、第2の可能性として「碓殿」を挙げる。
一方、宮内庁正倉院事務所の杉本一樹保存調査室長(日本古代史)は、食堂跡と調査地の間を小川が流れることに注目。「碓殿は食堂に付属する施設と考えられ、川を越えた場所にあるのは不自然。二月堂など、山のブロックに属する施設の物資を集中的に管理していた倉庫かもしれない」と指摘する。
大阪市立大の栄原永遠男教授(日本古代史)も「しっかりした建物で、規模的にも倉庫では」と話す。
造東大寺司(ぞうとうだいじし)との関係に注目するのは、写経所を研究している宮城学院女子大の大平聡教授(日本古代史)。
東大寺には、伽藍(がらん)の維持管理を行う役所、造東大寺司が天平18(746)年に設置された。東大寺建立にあたり、建物の建設や仏像の制作、写経などを行った。正倉院に伝わる「東大寺山堺四至図」は、今回の調査地周辺を「経坊」と記している。
大平教授は「建物の構造から写経所とは考えにくい。ただ、造東大寺司のセクションが分散していたとすれば、倉庫を管理する部門がここにあったのかもしれない。学術調査で全容を明らかにしてほしい」と期待する。
一方、東大寺図書館の堀池春峰・東大寺史研究室長は「油倉は一段高い西側にあり、今回の遺構が正倉とは考えられない。公文所など、いろいろな遺構が眠っている地域で、もう少し調査しないと何とも言えない」と慎重な姿勢を示している。
●表情穏やか 秘仏公開 あすから六波羅蜜寺 (京都新聞11月2日)
京都市東山区の六波羅蜜寺に秘仏として伝えられてきた本尊「十一面観世音菩(ぼさつ)像」が三日から開帳される。本尊が開帳されるのは、寺を守るとされる龍にちなみ、十二年に一度の辰年(たつどし)と住職の就任時だけで、昨年の国宝指定以降、初の公開となる。
六波羅蜜寺の本尊はヒノキの一木造りで、高さ二・五九メートルある。仏像様式が中国風から和風へ移る十世紀半ばの作で、中国風の力強さが見られる一方、表情に和風の穏やかさがある。
これまでの開帳は三日間だけだったが、今回は三十三日間に延長する。期間中には白拍子舞や平家琵琶、寺を開いた空也を起源とする「六斎念仏」を奉納するほか、十八日夜には笛と小太鼓を奉納後、本堂をライトアップして、開帳を多彩に祝う。最初の三日間は連日、先着二千人に御符も配る。
開帳に合わせ三日から九日までの一週間、インターネットのホームページで本尊の映像を紹介し、ネット上で参拝してもらう。本尊開帳は十二月五日まで、拝観は無料(宝物館の入場料は五百円)。六波羅蜜寺ホームページ http://www.rokuhara.or.jp/index.html
●魂運ぶ?木製の鳥 翼を伴う出土初めて (奈良新聞11月1日)
埴輪として墳丘の周囲に立てられた
鳥形木製品と笠形木製品の予想図
(県立橿原考古学研究所提供)奈良県橿原市四条町の四条遺跡で、埋没した古墳(5世紀後半〜6世紀前半ごろ)の堀から、鳥形木製品がほぼ完全な形で見つかった。柄(え)に通して立て、埴輪(はにわ)のように使ったとみられる。県立橿原考古学研究所が31日、発表した。翼を伴う完形品は珍しく、使用目的を探る重要な資料となる。
鳥形木製品は胴部の長さが約90センチ。翼は長さ約1メートル、幅約18センチ。紡錘(すい)形の胴部に四角い穴を開け、翼を差し込んでいた。
以前に同遺跡で見つかった鳥形木製品は胴部のみで、翼を伴う出土は初めて。完形品は長野市の石川条里遺跡と岐阜県大垣市の今宿遺跡で見つかっているが、板を組み合わせた簡単な構造で、胴部に翼を通す立体的な完形品は出土例がない。同じ堀から、柄のついた笠形木製品3点も見つかった。
四条遺跡は、藤原京の造営に伴って破壊された古墳群で、これまでにも多数の木製品が出土。埴輪の一種か、葬送の儀礼に使ったと考えられている。
河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長の話
鳥には死者の魂を運ぶ意味があり、思想的な背景を持った葬具だったのでは。葬送の風習が確立されていたことが分かる。
●重文の秘仏3体を常時公開 石馬寺 大仏殿完成を機に (京都新聞10月31日)
滋賀県五個荘町石場寺の「石馬寺」(石馬祖俊住職)は、新しい大仏殿が十一月三日に落慶法要を迎えるのを機に、これまで部分公開だった役行者大菩薩尊像と、前鬼、後鬼の脇立像(いずれも重文、鎌倉時代)の三体を常時公開する。
役行者像は作者不詳だが、修験道の祖とされる行者の荘重な表情が見事な木彫で表現されている。前鬼、後鬼の脇立がそろった像としては、国内でも第一級、という。これまでは秘仏の扱いで、毎年春と秋の二回だけ時期を限って公開していた。
石馬寺には、ほかにも阿弥陀如来座像(平安時代)など計八体の重文と美術品が多数あり、寺では、万一の火災被害から守るため、古い本堂を取り壊して跡地に美術工芸品収蔵庫としての大仏殿を新設することを決定。四年前から総事業費一億三千九百万円で着工していた。工事はこのほど終了、落慶法要が十一月三日に営まれる。
新大仏殿は鉄筋コンクリート建てで、床面積百七十一平方メートル。内部に役業者像などの重文指定の仏像が収められた。三日以降は、これまで通りの拝観料で、計十一体の重文像をすべて鑑賞できる。
石馬住職は「役行者像は秘仏だが、国民全体の財産と考え、公開することにした」と話している。
●繊細、優雅、天平の至宝 きょうから正倉院展 (奈良新聞10月28日)
聖武天皇の遺愛品など天平時代の宝物の数々を展示する第52回正倉院展の招待者特別公開が27日、奈良市登大路町の奈良国立博物館で行われた。招待者は双眼鏡で細部を確認するなど、じっくりと宝物を味わっていた。同展は、きょう28日から来月13日までの17日間開催される。
初出陳19件を含む78件の宝物を公開。楽器や儀式用具、調度品、武器、武具類、染織品、文書、献物箱など正倉院宝物の種類と技法における多様性がうかがい知れる内容となっている。
螺鈿(らでん)の技法で装飾された「螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)」やスッポン形の容器「青斑石鼈合子(せいはんせきのべつごうす)」、繊細な技法や装飾性の高さが見られる「白葛胡禄(しろかずらのころく)」など目を引かれる宝物が多い。
入館は午前9時から午後4時半(金曜日は午後7時半まで)。観覧料は、一般830円、高校・大学生450円、小・中学生250円。問い合わせは同館(電0742−22−7771)へ。テレホンサービスは0742−22−3331。
●福山・明王院五重塔の壁画を調査 (中国新聞10月29日)
広島県福山市草戸町の国宝明王院五重塔内に残る南北朝時代の柱絵や壁画が、保存状態が極めて良く、国の重要文化財級の価値があることが、広島大文学部安島紀昭助教授(仏教絵画史)らによる初の学術調査で分かった。調査チームは、赤外線ビデオも使い、約六百五十年前に極彩色で描かれた浄土の世界を解き明かす。
柱絵や壁画があるのは五重塔の初層(一階部分)。中央の仏像を囲む四隅の柱には、優雅なほほ笑みをたたえた三十六体の菩薩(ぼさつ)が描かれている。四方の壁には、真言宗の八祖が教えを伝授したり、祈りをささげたりする物語を表した行状図が残っている。
調査チームによれば、彩色の剥落(はくらく)や落書きもあるが、当時の多彩な色や繊細な図像を解明できる部分が多い。いずれも五重塔が建立された一三四八(貞和四)年の作品と認められ、時代が特定される点でも貴重という。
元東京国立博物館主任研究官の安島助教授は「見事な保存状態で、宝の山に遭遇したよう。南北朝時代の仏教建築の荘厳画としては質、量ともに国内最高レベルで国の重文級」と評価している。専門家やカメラマンら十人で編成するチームは、三十一日まで調査する。
《明王院》真言宗大覚寺派の寺で、寺伝では八〇七(大同二)年に弘法大師の開基と伝えられる。一三二一(元応三)年に紀貞経の寄進で僧の頼秀が再建した本堂と、その二十七年後、頼秀が広く民衆の寄進を募って建立した五重塔が国宝に指定されている。
●宝塚古墳王のまつりを再現 (三重県松坂市ホームページ)
伊勢地方最大の前方後円墳・国史跡宝塚1号墳の発掘調査がほぼ終了し、当時のまつりを彷彿とさせる発見がありました。
古墳本体は、葺石が3段に階段状に葺かれ、葺石と葺石との間2ヶ所の平坦部に埴輪が整然と巡っています。
造り出しは東西18m、南北16m、高さ2mの規模をもち、斜面には古墳全体と同様に葺石が葺かれて殊に東、西、北の3面は葺石が2段となり、下段の葺石は古墳全体の葺石につながります。
また、葺石と葺石の間の平坦部は埴輪列を伴います。
造り出しの周辺から3体の囲形埴輪がみつかりました。東側から家型の中に導水的ミニチュア土製品を伴う囲形埴輪が、西側から井戸的ミニチュア土製品を2個伴った囲形埴輪がいずれも原位置でみつかりました。
このようにまつりの際、水が重要な役目を果し、その行事が行われたことが明らかになったといえます。
埴輪は日本最大の船形埴輪だけでなく、王のまつりを行うにふさわしいいろいろな埴輪が出土しました。
●祭祀の場に埴輪ズラリ/松阪・宝塚1号墳発掘調査 「作り出し」から140点 みそぎ利用?の埴輪も (伊勢新聞10月26日)
三重県松阪市宝塚町から光町にまたがる国の史跡「宝塚1号墳」(五世紀初頭)を調査していた同市教育委員会は二十五日、「造り出し」(東西18m、南北16m、高さ2m)と呼ばれる当時の祭祀(さいし)の場から円筒埴輪(はにわ)や家形埴輪、十二種およそ百四十点が整然と配列した状態で出土したと発表した。
「造り出し」部から数多くの埴輪群が配列状態で出土したのは全国初。今回の調査で「造り出し」部が二段の構造になっていることも明らかになっており、古墳時代の祭祀の舞台装置が明らかになった。
宝塚古墳保存整備指導委員会委員長の八賀晋・三重大学名誉教授(考古学)は記者会見で「今回の造り出し部の発見は当時の古墳の祭祀を考える上で重要なもの」とし、前回出土した船形埴輪とともに「学問的に非常に貴重な資料だ」と、高い評価を示した。
今回出土した埴輪群のうち「囲形(かこいがた)埴輪」と呼ばれる水の祭祀にかかわると推測される埴輪が「造り出し」部を挟むように東西に配置された状態で出土したのは全国で初めて。「個々に見ても素晴らしいもの」と、宝塚古墳保存整備指導委員会委員長の八賀晋三重大学名誉教授らは絶賛する。
同埴輪は東に一点、西に二点出土したが、東側のものは両端にくぼみのようなものが設けられ、水をくみ上げて流し出す「導水」、先に出土した船形埴輪近くで出土した西側二点のうちの一点は埴輪の中にミニチュアの井戸のような「湧水」を表す細工が見つかった。
このうち「導水」を表す囲形埴輪は九月に大阪府八尾市の心合寺山古墳で出土したものと類似していることも判明した。 下村登良男・宝塚古墳保存整備指導委員会副委員長は「祭りの場には洗い清めるという意で水は必要だったのだろう」と推測。
八賀委員長は「『造り出し』を挟んで両サイドに据え付けたのには大きな意味があるはず」とし、「水をつかさどる例えば"みそぎ"のような祭祀の行事をほうふつさせる」と話した。また、船形埴輪の近くから家形埴輪と囲形埴輪が出土したことが重要だと考え「船形埴輪で霊魂を迎え入れ、家形埴輪に安置した際に水が必要だったのではないか」と、推測した。
これまでに、木樋(もくひ)などで「導水」の水路を設けた実物の祭祀場が奈良県御所市の南郷大東遺跡で見つかっていることから、辰巳和弘・同志社大学助教授(古代学)は「南郷大東遺跡とまるきり同じものが立体で現れており驚いた。豪族の祭り事を立体的に証明してくれる大変貴重な史料」と、話した。
囲形埴輪のほかに出土したのは先に出土した船形をはじめ、円筒、壺形、盾形、蓋形(きぬがさがた)、甲冑形(かっちゅうがた)、家形、靭形(ゆぎがた)、柵形、冠形(かんむりがた)の各埴輪と二重口縁壺(にじゅうこうえんつぼ)。
「造り出し」前面中央に位置し、同古墳に祭られた王の家を象徴するといわれる家形埴輪については全容は再現できなかったものの、出土した長さおよそ二十?の堅魚木(かつおぎ)と、長さおよそ十?の半円形をした棟飾りから高さおよそ百二十?の入り母屋造りであることが判明。堅魚木には細かな細工が彫り刻んであった。野呂市長 古墳、史跡公園に
今後は価値にふさわしい史跡公園として整備させていただきたい―。二十五日、松阪市の宝塚1号墳の「造り出し」部で当時の祭りをほうふつとさせる埴輪群の出土について、八賀晋宝塚古墳保存整備委員長とともに会見した野呂昭彦松阪市長は、このように語った。
八賀委員長は「造り出し」部の全容が明らかになったことに加え「これまで古墳の中での位置付けが解明されていなかった囲形埴輪も最大発見のうちの一つ」と、声を弾ませ、同古墳の「造り出し」部から伊勢湾が見渡せたことについて、推測の域だがと前置きしながらも「東北に向けての拠点の港があったかもしれない」と語った。
野呂市長は「同古墳は子どものころ遊んだ場所」とし、「祭りの場としての大発見に市民も驚くでしょう」と話した。船形埴輪の今後については「国の宝としてぜひ松阪に預からせていただきたい」として、現在計画中の展示施設の建設を一日も早く実現させる考えを示した。
また、国宝認定について鈴木八郎教育長は「宝塚2号墳が平成十三年から十五年まで調査を実施した後に報告書を出したい」と、語った。祭事の場ほうふつ/辰巳和弘・同志社大学助教授(考古学)の話
古墳時代の王のマツリゴト(祭事、政事)の場をほうふつとさせる形象埴輪群だ。これまでは個々の遺構として見つかっているが、これだけトータルで見ることができるのは素晴らしい。古墳の持っている精神性や宗教性をよく示している。作り出しの規模分かる/坂靖・橿原考古学研究所主任研究員の話
「造り出し」の規模と配列がつぶさに分かる非常に貴重な史料だ。当時の祭りを集中的に舞台装置上で表現していることは面白い。屈指の大豪族だ/福永伸哉・大阪大学文学部助教授(考古学)の話
福永伸哉・大阪大学文学部助教授(考古学)の話 非常に残りの良い「造り出し」だ。配置されている埴輪の種類が豊富で場所がよく分かる。船形、囲形、家形がそろったことで被葬者が一介の豪族ではなく、日本のトップクラスの大豪族だったことを物語っている。■宝塚1号墳■
宝塚1号墳 全長百十一?の前方後円墳で伊勢地方最大の古墳。墳丘部は昭和七年に、同五十三年に周辺も含めたおよそ二万六千七百平方?が国史跡に指定された。平成十一年から調査が始まり、ことし一月に古墳本体と「造り出し」を結ぶ「土橋」と呼ばれる通路が全国で初めて出土、四月にはこの「土橋」から約二?離れた所で国内最大の「船形埴輪」が見つかっている。被葬者は近畿地方とつながりがあり、伊勢湾西岸の広い範囲を強い力で支配した人物と推定されている。
●現存最古の寺院建築部材 元興寺・禅室に保管の「巻斗」(奈良新聞10月18日)
奈良市中院町、元興寺の禅室に保管されていた建築部材が、奈良国立文化財研究所の年輪年代測定調査により、現存するわが国最古の木造寺院建築部材であることが分かり、17日、元興寺文化財研究所が発表した。7世紀初頭に建立され、これまで現存最古とされていた法隆寺の五重塔心柱の年代を数10年さかのぼるもので、寺院建築の歴史などの研究にとっても貴重な資料になるとみられている。
調査されたのは、建物の桁(けた)を支える「巻斗(まきと)」と呼ばれる部材。縦横38センチ、高さ27センチの大きさで、582年に伐採された木材を利用したものと結論付けられた。
日本書紀には、日本最古の本格寺院とされる飛鳥寺(明日香村)が588年に建立されたとの記述がある。同寺は平城遷都の際に移築されて元興寺となったが、元興寺の屋根かわらに飛鳥寺のものが使用されていることがこれまでにも知られていた。今回、建築部材に関しても飛鳥寺の木材が使われていたことが判明。主要伽藍(がらん)を除く一部の建物が移築されていたこともほぼ確実となった。
元興寺文化財研究所では「表面の状態などから、巻斗はもともと柱材だったものを加工した可能性が高い。禅室などで現在も使用されている建築部材の中にも、調査部材と同時期のものとみられる部材があり、元興寺の歴史を探る上でも重要な資料だ」と話している。
今回調査された部材は、29日から来月12日まで同寺総合収蔵庫で開かれる秋季特別展で一般公開される。
●創建当時の金堂基壇跡出土 法輪寺 (奈良新聞10月17日)
聖徳太子ゆかりの法輪寺(奈良県斑鳩町三井)境内で、創建当時(飛鳥時代)の金堂基壇跡が現金堂を取り巻く形で出土し、16日、発掘調査を行っている斑鳩町教委が発表した。創建時の金堂規模が法隆寺金堂の3分の2であったことが確認されたほか、基壇を創建後に修復したことなどが分かった。文献にあまり登場せず、解明されていないところが多い同寺の創建過程に迫るきっかけになりそう。
出土した基壇は、宝暦11(1761)年に再建着手した現金堂より一回り大きく、南北約13メートル、東西約15メートル。法隆寺の金堂基壇(南北18.8メートル、東西22.1メートル)の3分の2の規模だった。南端は黄褐色の土を版築(はんちく)によって築き、北側に向かうにつれて褐色の地山の土を削って造るなど、創建前に境内が斜面だったことが分かった。
また、基壇に沿って立てられた石列も出土したが、石と基壇の土の間に奈良時代の瓦(かわら)がはさまっているのが同時に見つかり、創建時に基壇に用いた石列ではなく、後世に基壇周辺を修復した跡と考えられる。
基壇周辺では、創建当時の金堂の屋根に使われたと推定される7世紀後半の法隆寺式の軒瓦のほか、それ以前の7世紀前半と思われる軒瓦も一部出土。発表した同町教委の平田政彦技師は「昭和46年の塔周辺の発掘調査でも、現在の寺の前身とされる掘っ立て式建物が確認されている。今後も境内の発掘調査を続け、寺の成立の過程を解明したい」と話している。
金堂基壇は昭和25年、元奈良国立博物館長の故石田茂作氏が確認調査を実施し、法輪寺の伽藍(がらん)規模について法隆寺の3分の2とする説を唱えていた。今回の調査により両方の寺の金堂規模の比較ができたことで、石田氏の説はほぼ確認された形。
法輪寺の創建時期については、推古30(622)年に聖徳太子の病気平癒を願い、山背大兄王らが創建を命じた説と、天智9(670)年の太子死後に建てられたという2説があるなど、成立過程にはなぞが多い。
現地説明会は今月22日午前10時〜午後3時。町教委による説明は午前10時から1時間ごとに計5回行われる。
森郁夫・帝塚山大学教授(考古学)の話
基壇の土のようすから創建当時の整地の方法などが分かる。北側からは新旧の瓦が交ざって出土しており、大きな修理の回数や時期などが今後の調査によって分かるのではないか。
●新たに絵画土器片 楼閣の実在濃厚に 田原本町の唐古・鍵遺跡
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弥生時代最大級の環濠(かんごう)集落、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、大型の高床式建物を描いた弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の土器片が見つかった。4日発表した町教委によると、平成4年に出土した楼閣(ろうかく)の絵画土器片と同じ壷(つぼ)の一部で、集落中枢部の建物構成を探る重要な資料となる。同遺跡に高床式の建物があったことは柱穴などの遺構で確認されており、同じ土器に描かれていたことで、楼閣も実在した可能性が強まった。
(詳細は、特選情報で)
土器片は縦7センチ、横4.5センチ、厚さ1センチ。小学校の通学路整備に伴う発掘調査で、集落内を区画する溝から見つかった。寄せ棟造りの屋根の一部と3本の柱が線刻されており、楼閣と同じ渦巻き状の棟飾りがあったと推定できる。
町教委は、色や厚さ、仕上げに使われたはけの痕跡などから、楼閣の土器片と同じ個体と断定。壷の高さは約50センチと考えられ、中央よりやや上に、楼閣と並ぶ形で高床式建物が描かれたとみている。
楼閣を描いた土器片は、北西に約250メートル離れた環濠から出土した。2層以上の楼閣を線刻しており、弥生時代の高層建築物が初めて確認された。
中国大陸との交流を裏付ける資料だが、研究者の間では、「中国で見てきた建物を描いたのではないか」とする見方もあり、実在の可能性について意見が分かれている。
町教委文化財保存課の藤田三郎・調査係長は「同一個体である以上、楼閣だけ実在しなかったとは考えにくい。集落の中枢部は複数の大型建物で構成されていたのではないか」と話している。
森浩一・同志社大教授(考古学)の話
楼閣が実在したことを補強する資料で、小さな破片だが大きな意味を持っている。単なる農村ではなく、都市的な機能を持った「マチ」としての姿が見えてくる。
●最古の曼荼羅図公開 東寺できょうから (京都新聞 9月20日)
密教美術の宝庫、東寺(京都市南区)の宝物館で二十日から、秋の特別展「東寺のマンダラ図―描き続けられた仏達」が開かれる。重要文化財の「両界曼荼羅(まんだら)図・元禄本」など約三十点の曼荼羅図を展示する。
曼荼羅図は、真言密教の教えと宇宙の真理を、視覚的に示している。日本には空海(弘法大師)が初めて中国から伝えた。
展示される両界曼陀羅・元禄本は、空海が持ち帰った現図曼荼羅の流れをくむ江戸初期の写本。また、国内で最大、最古の「敷曼荼羅」(重要文化財)を十年ぶりに一般公開するなど、東寺に残るほとんどの曼荼羅図を出展しているという。
十一月二十五日まで。開期中は無休。大人五百円。中学生以下三百円。
●「水の祭祀場」の埴輪が出土 八尾の古墳 建物と塀を水路で貫く (京都新聞 9月18日)
大阪府八尾市の前方後円墳・心合寺山古墳(しおんじやまこふん、全長百五十七メートル)で、建物と塀を水路が貫いた、水の祭祀(さいし)場を表す家形の埴輪(はにわ)が初めて出土、十四日、同市教育委員会が発表した。
建物は祭殿とみられる。塀、水路とのセットは、古墳時代の王がみそぎなどを行った祭祀場を表現したらしく、古代の精神世界を解明する資料として注目される。
同市教委によると、これまで塀だけの埴輪が全国で二十七例出土、なぞの埴輪とされていた。
埴輪は後円部と前方部の境にある造り出し部付近で出土した。塀は縦四十二センチ、横四十四センチ。建物は高さ二十四センチ。塀の隅に入り口が作られている。
建物は切り妻屋根で、入り口が一カ所あるが、上部の煙出し以外に窓はなく、塀と建物を貫いて水路が設けられている。塀を支えた柱や、建物の棟木柱、横木なども表現されている。
木樋(もくひ)などで導水路を設けた実物の水の祭祀場は近畿地方の古墳時代の遺跡を中心に見つかっており、特に奈良県御所市の南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡では塀、祭殿、水路跡からなる祭祀場があった。出土した埴輪はこれらの祭祀場を忠実に表現したとみられる。
心合寺山古墳は古墳時代中期(五世紀前半)で、後円部では木棺を粘土で覆った埋葬部が三基見つかり、甲胄(かっちゅう)、銅鏡、刀剣類、玉類など豊富な副葬品が出土、大阪の中河内地方の豪族の墓とみられている。
出土した埴輪は二十三日から十月九日まで、八尾市立歴史民俗資料館で展示される。
●みそぎの起源探る手がかり 「水の祭祀場」埴輪 (京都新聞 9月18日)
侵入者を遠ざける塀、窓のない建物、床面を貫く水路。心合寺山(しおんじやま)古墳で出土した埴輪(はにわ)は、他者の目から隠れるようにして行われた古墳時代の支配者の祭りをうかがわせ、今年見つかった飛鳥時代の亀形石造物(奈良県明日香村)をはじめ、現代のみそぎにもつながる水の祭祀(さいし)のルーツを探る大きな手掛かりだ。
塀と建物の柱跡、それを貫く水路跡が見つかった奈良県御所市の南郷大東遺跡(古墳時代)では、水路に異物を沈殿させる木製の浄化槽があり、雨ごいや水神へのささげ物とされる馬の歯なども出てきた。清水で身を清める「みそぎ」のような祭りが行われたとする説が有力だ。
和田晴吾・立命館大教授(考古学)は「埴輪は古墳の出入り口とされる造り出し部分から出土している。古墳という祭祀の場に入るため、身を清める場所を表現したのでは」と推測。
堅田直・帝塚山大名誉教授は「建物の構造から人に見られたくない行為が行われたと推測でき、死者を仮に祭った『もがり』が行われた可能性も」とみている。(共同通信)
●甲斐善光寺の「燈篭仏」を9日から公開 127年ぶり (朝日新聞 9月6日)
鶴屋南北の「東海道四谷怪談」のせりふにも登場する甲斐善光寺(甲府市、吉原浩人住職)の秘仏「燈篭仏(とうろうぶつ)」が5日、報道陣に公開された。江戸時代は占いに使われて庶民の人気を集めたが、明治6年(1873年)に当時の県令(知事)が「人心を惑わす」として占いを禁止し、それ以来、同寺の金堂に安置されていた。公開は127年ぶりとなる。県の大型観光キャンペーンに合わせ、9日から11月5日まで、金堂で一般公開される。
甲斐善光寺によると、高さ約37センチの燈篭の中に入っていたとされる秘仏は、阿弥陀(あみだ)如来、観音菩薩(ぼさつ)、勢至(せいし)菩薩が一体になった一光三尊形式の善光寺如来像。銅製で、光背を含めた高さは9.3センチ。形などから鎌倉時代につくられたとみられている。
江戸時代は寺への寄付を集めるため、幕府の許可を得て繰り返し公開された。「極楽に往生できるなら、軽く上がって下さい」と願をかけ、燈篭仏が軽く持ち上がれば往生できる、などと占ったという。後には商売や人事なども占い、霊験があると信じられた。
甲斐善光寺は、戦乱で信濃(長野県)の善光寺が焼失するのを恐れた武田信玄が、永禄元年(1558年)、本尊などの寺宝を移して建立した。武田氏滅亡後、本尊は信濃善光寺に戻り、甲斐善光寺は前立仏を本尊としている。
問い合わせは、甲斐善光寺(055―231―0934)へ。
●保存修理へ作業着々 事現場を公開 奈良市・唐招提寺金堂 (奈良新聞 9月7日)
平成21年度を目標年度に保存修理工事が進められている奈良市の唐招提寺・金堂(国宝)の工事現場が5日、報道陣に公開された。現在、金堂解体のために堂を覆う素屋根の組み立てに着手した段階で、工事は順調に進行している。
鉄骨造り3階建ての素屋根は、東西52メートル、南北約36メートル、高さ28メートル。風雨から金堂を守り、空調を完全にするため鉄板張りにされる。組み立てた部分を先送りしていくトラベリング工法が用いられ、来年3月完成の予定。
金堂内の仏像に関しては、梵天・帝釈天像と四天王像を昨年8月に講堂に移動。薬師如来像は、ことし3月に奈良国立博物館に寄託されている。また、盧舎那仏像と千手観音像=いずれも国宝=については、境内に建設中の修理作業所で部分解体の上、漆箔(しっぱく)のはく落止めなどの本格修理が2年をかけて行われることになっている。
盧舎那仏像は光背と台座を、千手観音像は光背と脇手の一部を外し、実測を行った後に運び出されることになっていて、足場が組まれた堂内では搬出準備が進行している。
金堂は工事期間中拝観できないが、同寺では今月末から講堂内陣の特別拝観を実施。25日からは、新宝蔵の特別拝観が予定されている。
●仮面土偶の腰に丸い模様 掘り出し成功 (信濃毎日新聞: 9月1日)
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茅野市教育委員会は三十一日、同市湖東山口の縄文時代の中ッ原(なかっぱら)遺跡から出土した仮面土偶を遺跡から取り出し、同市豊平の尖石縄文考古館に保管した。今後、土偶の周辺や内部にある土の成分分析、土偶本体の詳しい調査、復元作業などを進める。
土偶は、背面にも正面と同様、渦巻きの文様が施され、腰の部分には少し盛り上がった円形の模様が二つ。股(また)の間に直径一センチ足らずの穴が開いており、胴体は中空だと確認できた。左足の裏には格子のような文様があり、やはり穴が開いている。胴体からとれていた右足は土が付いたままだが、市教委は左足と同じ文様と穴があるとみている。
一緒に埋められた副葬品はなかったが、樹脂のようなごく小さい赤い破片が足の付近にあり、今後分析する。
腰の丸い模様について、作業を指揮した尖石縄文考古館名誉館長の戸沢充則明治大教授、立ち会った県文化財保護審議会の樋口昇一委員とも「非常に珍しい」と話している。
作業は午前九時すぎから七時間半にわたって行われ、記録写真を撮りながら、慎重に土を取り除いた。土偶の状態や周囲の状況を忠実に記録するため、「造形保存」と呼ぶ手法を取り入れ、東京の専門家が人間の目で見たように見える立体画像を撮影した。
遺跡周辺には市民ら百人余が詰めかけ、午後四時半すぎ、市教委職員が「今、取り出しました」と大声で告げると、大きな拍手と歓声が起きた。
●なぜ墓に 広がるロマン 茅野・中ッ原遺跡の仮面土偶 (信濃毎日新聞 8月29日)
茅野市湖東の中ッ原(なかっぱら)遺跡で、四千年の眠りから目覚めた仮面土偶―。茅野市教育委員会がその発掘を発表した二十八日、専門家の間では、土偶そのものの出来映え、大きさとともに、墓とみられる遺構から人為的に埋葬されたような形で出土した点を高く評価し、「ミステリーに包まれている土偶の解明が進むのでは」との期待が高まった。発掘に携わった市教委の担当者や、近くの住民らは「縄文のビーナス」に次ぐ市内で二つ目の国宝級の発見に興奮を隠せない様子だった。
仮面土偶は右半身を上にした横向きの状態で埋まり、周りの土も直径五十センチの範囲で円形に掘って埋め戻した跡があった。市尖石縄文考古館名誉館長の戸沢充則明治大学教授は「四千年前に、穴を掘って土偶を横たえ土をかぶせて埋め、そのままの状態で出土したのだろう」と推測する。
出土した場所は、当時の集落の中心部にあったとみられる墓地の中央部。幅約一メートル、長さ一・三メートル余(未発掘分も含む)のだ円形の穴が三つ並び、中央の穴からは仮面土偶が、両側の穴からは直径三十センチほどの杯を伏せたような甕(かめ)がそれぞれ出土した。縄文人の埋葬時に、遺体の頭部にかぶせたとされる。
日本各地の縄文時代の遺跡から出土する土偶は、年代や地域により形は千差万別で、目的や使われ方に定説はない。
小林達雄国学院大学教授は土偶の役割について、「断定は難しいが、単なる女神像や子どものがん具ではなく、呪術(じゅじゅつ)や縄文人の精神世界と深い関係がある、と考えられる」と推測。仮面とされる顔の造作も「わざと人間とは違う作りにすることで、人間ではないことを示したのではないか」と言う。
戸沢教授は今回の土偶は出土場所、状況などから、シャーマン(原始的宗教の司祭)のような集落のシンボル的な人、または物と関係が深いと推測。墓穴と思われる遺構に埋まっていた状況からすると、中空の土偶の内部には歯か人骨の一部が入っている可能性があるし、土偶の下の土中には遺体が埋葬されていたかもしれない、とみている。
●最大級の仮面土偶が出土 長野県茅野の中ッ原遺跡 (朝日新聞 8月28日)
長野県茅野市の中ッ原(なかっぱら)遺跡で、縄文時代後期(約4000年前)のものと考えられる土偶が見つかった。仮面をかぶった姿で高さ35センチ前後。この種のものとしては最大級。非常にていねいに作られており、完全な形とみられる。専門家の間からは「土偶の使われ方を考えるうえでも重要な発見。つくりの良さなどからみてもまさに国宝クラスの資料だ」と驚きの声があがっている。
土偶は中が空洞で、焼きは良好。胴体や腕の部分に縄文で渦巻きを表現する。顔は三角形の仮面をかぶった様子を表している。表面に擦り消し縄文などの技工が施されている。
中ッ原遺跡は面積1万3000平方メートル。長野県中部の集落遺跡で、ほ場整備事業にともなって、同市教育委員会が発掘調査してきた。
土偶は土こうの1つから出土した。長さ約1.3メートル以上、深さ約50センチの大きな穴を掘って埋めた後、その上から掘られた長さ50センチ前後の小さな穴の中に横になっている状態で見つかった。意識的に埋められたものとみられる。片足にひびが入ったほかは、ほとんど当時のままの状態。4000年の眠りから覚めたとは思えないほど精巧かつシャープな出来に見える。周辺は多数の墓が重なり合っており、仮面土偶が死者の埋葬に伴った可能性もある。
茅野市では以前、数キロ離れた棚畑遺跡から縄文中期の「縄文のビーナス」と呼ばれる長さ27センチの土偶の優品が出土しており、1995年、国宝に指定されている。当時、発掘調査団の団長を務めていた考古学者の宮坂光昭さんは「出土の状況もよく似ており、今回もそれに匹敵する発見といっていい」と評価する。
●国内最大級の仮面土偶 茅野・中ッ原遺跡で出土 (信濃毎日新聞 8月28日)
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茅野市教育委員会は二十八日、同市湖東山口の縄文時代の中ッ原遺跡で、仮面をかぶったような顔の土偶(仮面土偶)としては国内最大級の完全な形をした土偶が出土した、と発表した。同市の尖石縄文考古館名誉館長の戸沢充則・明治大教授は「国宝土偶(愛称・縄文のビーナス)と同じくらいの史料価値があり、美術的価値も高い」と評価。墓とみられる遺跡から出土した土偶という意味でも極めて価値が高い、としている。
土偶は高さ三十五センチの立像。女性器がはっきりかたどられており、右足が胴体からとれているものの、完全な形をしている。三十日にも遺跡から取り出し、復元に取りかかる予定だ。市教委によると、全体の形状は上伊那郡辰野町泉水で一九三五(昭和十)年に見つかった県宝の土偶(高さ二十センチ)とほぼ同様という。
二十三日に遺跡のほぼ真ん中にある縄文時代後期前半(約三千五百年前)の集落跡から出土。集落跡の中央部にある墓域の土坑(どこう)の底から、横たわった状態で見つかった。土坑は長さ一・三メートル、幅一メートルの東西に長いだ円形で、深さは発掘面から四十五センチ。穴の底にさらに直径五十センチほどの別の穴の跡があり、土偶はそこに安置されるように埋まっていた。
市教委によると、仮面土偶は、三千五百-三千年前の縄文時代後期前半にみられる東日本に独特のものだ。今回出土した土偶は仮面土偶としては最大級。同市米沢の棚畑遺跡で八六年に出土し、九五年に国宝に指定された大型の縄文のビーナス(高さ二十七センチ)を上回り、かなり大型の土偶だ。
市教委は三十日までに文化庁、県にも現地で土偶を見てもらい、三十日午後一時-三時に現地で一般公開した後、遺跡から取り出す予定だ。年内には復元を済ませ、尖石縄文考古館(同市豊平)に収蔵する。
中ッ原遺跡は、四千五百-三千五百年前の縄文時代中期前半から後期前半の集落跡。昭和初期から数次にわたり、発掘調査が行われてきた。今回の発掘は、ほ場整備のために、市教委が昨年六月から開始。約一万三千平方メートルを本年度までの二年間で調べる。昨年八月には、県内最大級のひすいの垂れ飾り(長さ約九・九センチ)が出土した。
●推古天皇の合葬墓か 「植山古墳」 (奈良新聞 8月18日)
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奈良県橿原市五条野町の「植山古墳」が、6世紀末〜7世紀前半に築造された2つの大型横穴式石室が並ぶ巨大な「双室墳(そうしつふん)」であることが分かった。また、西側の石室には、扉の軸受けに使われた小判形の「しきみ石」が完全な形で残っていた。扉構造のある横穴式石室が確認されたのは初めて。調査した市教委は17日、「双室墳」が推古朝に特有の形態であること、石室の構造や築造時期などから、「日本書紀に記された竹田皇子と母・推古天皇(554〜628)の合葬墓である可能性が強まった」と発表した。
(詳細は、特選情報で)
墳丘の大きさは東西40メートル、南北27メートル。丘陵の南斜面を削って築かれており、入り口を南に向けた横穴式石室が東西に並んでいた。南側を除いてコの字形に濠(ほり)が巡る。
東側の石室は全長約13メートル、玄室幅3〜3.2メートル。上半分の石は失われていたが、県内の横穴式石室の中では大型で、熊本県(阿蘇)の溶結凝灰岩で造ったくり抜き式の家形石棺1基が納められていた。同じ材質の石棺として時期的に最も新しい。
西側の石室はひと回り小さく、全長13メートル、玄室幅2.5〜2.6メートル。4段に積まれた奥壁の高さは約4.5メートルある。玄室の入り口に小判形の「しきみ石」(長さ2.5メートル、幅1.3メートル)が置かれていた。
「しきみ石」は兵庫県の竜山石を加工したもので、軸受け穴の直径は21センチ。両側に幅20センチ、深さ6センチの溝があり、板石をはめ込んで中央を片開きの扉にしたらしい。横穴式石室は石を積み上げて閉じるのが一般的で、扉構造が確認されたのは初めて。
玄室の床では東側の石室と同じ溶結凝灰岩の破片が見つかり、扉とみられる竜山石の破片も散らばっていたことから、石棺を運び出す際に扉や板石を破壊したと推定されている。
石室の築造時期について市教委は、東側が6世紀末ごろ、西側は7世紀前半としている。
日本書紀や古事記によると、推古天皇は628年に病没し、竹田皇子の陵(大野の岡)に葬られた。竹田皇子の没年は6世紀末ごろである可能性が強い。その後、科長(しなが=現在の河内地域)に改葬された。大阪府太子町には推古陵とされる山田高塚古墳がある。
調査を担当した市教委の浜口和弘技師は「竹田皇子と推古天皇を特定できる資料はないが、石室の時期差など、状況から考えると2人を被葬者として検討してもよいと思う」と話している。
河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長の話
古墳の主体は東側の石室で、当時でも最大級の規模といえる。ただ、墳丘が石室に比べて小さく、皇子クラスの墓として造営されたのでは。西側が推古天皇の石室とすれば、竹田皇子を葬る時に2つの石室を造り、7世紀に改造して扉をつけたとも考えられる。
●記紀裏付け 巨大古墳 権力背景に石室2橿原市・植山古墳 (奈良新聞 8月18日)
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2つの横穴式石室が確認された奈良県橿原市五条野町の植山古墳。これまで日本書紀や古事記の記述でしか知ることのできなかった改葬前の推古陵とする見方が強まっている。巨大な石室は推古天皇の意志と権力を背景に築かれたのか。西側の石室にはなぜ扉が付けられたのか。研究者の熱い視線が注がれている。
【被葬者】
推古天皇が即位したのは592年。日本書紀によると、在位36年目(628年)の春に病没し、「竹田皇子の陵(みささぎ)」に葬られた。「私のために陵を造ってはならない。竹田皇子の陵に葬ればよい」と言い残したという。
竹田皇子は物部氏の討伐に参加した587年を最後に文献から姿を消し、研究者の間では、6世紀末に死亡したとする見方が定着している。
2つの石室の築造時期は、これにぴったり当てはまる。堀田啓一・高野山大教授(考古学)は「天皇陵クラスでなければこんな立派な施設は造らない。一帯が『大野の岡』に含まれるとすれば、改葬前の推古陵である可能性が強くなる」と指摘する。
古事記の記録する推古陵は「大野の岡」にあり、後に「科長(しなが)の大陵」に改葬したことが記されている。
和田萃・京都教育大教授(日本古代史)は「『大野の岡』は豊浦寺の南に広がる丘陵地帯とみてよく、今回の調査地はその西端に含まれる。推古陵の可能性はある」とみる。
ただ、推定される竹田皇子の没年から推古天皇が死んだ628年まで約40年あり、「この時期差を石室の形式などで説明できなければ、敏達や欽明の皇子を葬った可能性も出てくる」と慎重だ。
【石室構造】
推古天皇を葬った可能性が指摘されている西石室では、玄室の入り口に重厚な扉構造が確認された。巨大な横穴式石室は7世紀に入ると少しずつ姿を消し、加工した石材を使った小規模な石室に移行する。
河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長は「大きさや構造から西側の玄室は6世紀末までに築かれたとしか考えられない」と指摘。一方で、羨(せん)道と玄室の幅に大きな差がなく、7世紀代の要素も合わせ持っていることから「6世紀末に2つの石室が造られ、時期を置いて扉を設置、羨道もつけ直したのでは」と推測する。
それによると、推古天皇が竹田皇子の死亡時に「同じ陵に」と言い残し、絶大な権力を背景に2つの石室を造営。天皇墓としては石室が小さいこともあり、後に扉をつけるなどして改造したというストーリーが出来上がる。
扉については「6世紀末になると、よみの国という意識から、地下宮殿的な感覚に変わってくる」と考える。古い記録などから、明日香村の天武・持統合葬陵にも金銅製の扉があったと推定されている。
一方、白石太一郎・国立歴史民俗博物館副館長(考古学)は、西石室の築造時期について「7世紀の第一4半期よりは新しくならない」とみており、「蘇我系皇族の墓」とする。
推古陵の可能性については▽7世紀初頭に自分の墓(寿陵)を造っていた▽竹田皇子が早い時期に死亡した?という2つの仮定が成立すれば、否定できないという。
【石棺】
東石室の家形石棺には、九州の溶結凝灰岩が用いられていた。縄掛け突起の形などから市教委は「見瀬丸山古墳の前棺と後棺の間の形式」とみている。丸山古墳が欽明陵とすれば、推古天皇の父と母が葬られており、関連性が出てくる。
ただ、見瀬丸山古墳の石棺は兵庫県の竜山石。掘田教授は「被葬者の身分によって石材が使い分けられていたのでは」と指摘する。
網干善教・関西大名誉教授も「大和における石棺形式の編年にとって非常に重要な資料。年代も推定できるのでは」と大きく評価している。
●史跡指定に高まる保存の声 当初計画では削られるはずだった 植山古墳 (奈良新聞 8月18日)
奈良県植山古墳の発掘は土地区画整理事業に伴う事前調査で、墳丘の北側半分が削られ、道路や農地になる予定だった。しかし、改葬前の推古陵とする見方が強まる中で、市教委は墳丘全体と北側の丘陵を保存する方向で動き始めた。文化庁も保存を強く要望。市は史跡指定を視野に協議を進めている。
区画整理の対象面積は15.4ヘクタール。約100人の権利者が市五条野土地区画整理組合(西川利一理事長)を組織、平成9年12月に仮換地が終わっている。
植山古墳は2つの石室を含めた約4000平方メートルを緑地や公園として残す計画だった。しかし、墳丘は北側の濠(ごう)の周辺から急角度で削られ、見瀬丸山古墳を眺める丘陵もなくなってしまう。
6世紀末ごろから築造される終末期古墳は、丘陵や尾根の斜面を削って築かれるのが特徴。墳丘の背後には、屏風(びょうぶ)のように丘陵がそびえる形となっている。
文化庁記念物課は「背後の丘陵など、石室以外の要素も含めて古墳の一部。それを削れば古墳全体の価値が損なわれてしまう」と強調。和田萃・京都教育大教授も「墳丘だけ残っても意味がない。歴史的な背景が分からなくなってしまう」と指摘する。
市教委は今月、文化庁を訪れて史跡指定について協議、保存する範囲を改めて検討している。文化財課は「史跡指定を受けて古墳の活用を図っていきたい」としており、計画がまとまれば区画整理組合と交渉に入る。
区画整理組合の西川理事長(75)は「保存も考えねばならないが、組合として区画整理を中心に考えており、1日も早く完成させたい」と話している。
●日本最大の木造建築 東大寺しのぐ 方広寺大仏殿遺構を初確認 (京都新聞 8月11日)
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桃山時代に豊臣秀吉が創建した方広寺(京都市東山区正面通大和大路東入ル)の大仏殿の遺構の一部が、同寺旧境内から見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が十日発表した。大仏殿は文献史料からその巨大さが知られていたが、遺構が確認されたのは初めてで、同研究所は「東大寺大仏殿(奈良市)をしのぐ日本史上最大級の建物だったことが発掘調査で初めて裏付けられた」としている。
京都市の公園整備計画に伴い、七月から調査を始めた。調査地の南側から、大仏殿の建物の基壇(土台)の南端と階段跡とみられる花こう岩の石組みが出土。さらに基壇上の柱跡が六カ所で見つかった。柱の位置や間隔が、大仏殿の構造を細かく記した江戸時代の各種の文献史料と一致したことから、大仏殿は南北約九十メートル、東西約五十五メートル、高さ約五十メートルの巨大な建物だったことが確認された。
奈良・東大寺の現在の大仏殿は、南北約五十メートル、東西約五十七メートル、高さ約四十七メートルで、方広寺大仏殿が木造建築では他に例を見ない大きさだったことがあらためて分かった。
基壇中央部からは、仏像を安置した台座の南端とみられる長さ十四メートルの石組みが出土した。この結果、台座は八角形で直径は約三十四メートルと推定された。方広寺の廬舎那(るしゃな)仏は、奈良の大仏(約十五メートル)を上回る高さ約十九メートルあったと古文書に記されているが、巨大な台座の確認でその大きさも裏付けられた。
また、基壇には、正方形の花こう岩が斜めの格子模様で敷かれていたことも今回の調査で分かった。
方広寺大仏殿は一五八六(天正十四)年、豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって造営を始めた。火災で一度は焼失したが、一六一二(慶長十七)年に豊臣秀頼が再建した。しかし、一七九八(寛政十)年、落雷で出火し全焼した。方広寺は、秀頼が寄進して豊臣氏滅亡のきっかけになった「君臣豊楽 国家安康」の鐘があることでも知られる。
現地説明会は十二日午前十時から行われる。
●秀吉の権力を象徴する巨大さ 方広寺大仏殿全容判明 (京都新聞 8月11日)
豊臣秀吉が天下人の威信をかけて創建し、その巨大さから京都の名所にもなっていた方広寺大仏殿の威容が十日、京都市埋蔵文化財研究所の調査で裏付けられた。江戸時代に火災で焼失して昔日の面影を無くしていたが、同研究所は「これほどの建物を造った秀吉の権力の大きさを物語っている」と話している。
方広寺大仏殿は、秀吉が奈良の東大寺に対抗心を燃やして建設したとされる。仏像や大仏殿は天災で何度か破損や焼損したが、秀吉の遺志を継いだ秀頼が最終的に完成させた。村井康彦・京都市歴史資料館長(都市文化論)は「現在の二条城近くに造営した邸宅・聚楽第(じゅらくだい)とともに秀吉の権力を世間に示すシンボルと言える。鴨川の東にそびえ、当時としては人々の目を引いたものだっただろう」と話している。
豊臣氏滅亡後の江戸時代も「京の大仏さん」として親しまれた。各種の洛中洛外図には巨大な大仏殿が描かれ、門前には茶店などが立ち並んで大勢の人でにぎわった様子が描かれている。現在の「正面通」も、大仏の正面に端を発する道というのが名前の由来だ。川上貢・市埋文研所長(日本建築史)は「木造の建築物としては格段の大きさだ。近世の京の町を代表する建物として知られていたが、発掘調査で具体的な規模を確認できた」という。
しかし、一七九八(寛政十)年に落雷で焼失。十九世紀に尾張の国有志の寄進で「小さな」大仏殿ができたものの、かつての巨大な姿は戻らなかった。広大な境内は明治初年に国が大半を没収され、再建された豊国神社や京都国立博物館などの敷地になった。残っていた大仏殿も一九七三(昭和四十八)年に焼失した。現在は、旧境内から移築した建物を本堂として使用、「国家安康」の鐘と鐘楼が残るだけになっている。方広寺の木ノ下寂俊住職は「この位置に大仏殿があっただろうとは推測できたが、実際に遺構を見ると、昔の境内の大きさがあらためてしのばれる」と話している。
●醍醐寺・薬師三尊像を公開 平安期の姿で (京都新聞 8月10日)
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醍醐寺(京都市伏見区)の国宝・薬師堂と同・薬師三尊像が十日から一般公開される。ふだんは非公開となっているが、来年秋に開館する宝物館「醍醐寺霊宝館平成館」に薬師三尊像が移されるのを前に、平安期の醍醐寺創建当時のたたずまいを見てもらおうと企画した。薬師三尊像の公開は、一九六四年に東京の美術展に出展されて以来で、「薬師堂で三尊像を拝観できるのは、これが最後の機会」という。
薬師堂は、醍醐寺発祥の地とされる醍醐山山中の上醍醐にあり、一一二四(保安五)年に再建された。入母屋造り、ひわだぶきの優美な外観が特徴とされる。
堂内に安置される薬師三尊像は、醍醐寺を創建した聖宝の弟子、会理が九〇七(延喜七)年に造った。平安期を代表する仏像とされる。中央の薬師如来は病気回復を祈ってかつては金ぱくが張られたことから、「箔(はく)薬師」とも呼ばれている。
薬師堂は山中にあり人目が届きにくく、これまで堂内を非公開にしていた。防災面で懸念があることから薬師三尊像は「霊宝館平成館」に移し、来年秋以降に公開することになった。
今回の公開は九月十七日までの午後一時〜二時。拝観料千円。希望者は期間中、午後一時までに上醍醐の准胝(じゅんてい)堂前に集合。
●木製と土製、埴輪並列配置 桜井市の小立古墳 (奈良新聞 7月28日)
桜井市山田で地中に埋没した前方後円墳「小立古墳」が見つかり、桜井市文化財協会が27日、発表した。後円部で円筒埴輪(はにわ)が立った状態で出土したほか、円筒埴輪の間に木の埴輪の基部が埋まった状態で見つかった。周濠(ごう)からは、多数の形象埴輪や木製埴輪も見つかり、古墳にさまざまな埴輪が樹立する様子がうかがえる珍しい例。
木の埴輪はこれまで、橿原市の四条1号墳や天理市の御墓山古墳、京都府の今里車塚古墳などで見つかっているが、古墳に樹立していた様子が確認されるのは初めて。調査を担当した桜井市教育委員会の村上薫史技師は「土製埴輪と木製埴輪が並列して配置されている状況が全国で初めて確認された」と話した。
桜井市のほ場整備事業に伴う調査で、同市山田など約2590平方メートルを発掘調査。尾根にはさまれた谷間から、全長34.7メートル、後円部の直径が約25メートルの前方後円墳と幅約6メートルの盾状周濠が見つかった。
古墳は、後円部2段、前方部1段の葺(ふ)き石が残っており、高さは後円部が約3.4〜3.5メートル、前方部が0.8メートル。埋葬施設は確認されず、築造当時は3段だった後円部が後に削られたと見られる。時期は、出土した須恵器などから5世紀後半という。
後円部のテラス部分には、円筒埴輪67本が立った状態で出土。円筒埴輪は、7本ごとに区切られて配置されており、間に石見型木製品と見られる木製埴輪の基部が約25センチ残っていた。
このほか、雌雄が対になった鶏形埴輪や馬形埴輪の頭部、家形、盾形、蓋(きぬがさ)形、兜(かぶと)形、短甲形、草摺(くさずり)形埴輪の破片などが主に周濠部分で出土。石見型木製品13点のほか、靭(ゆき)形木製品2点、盾形木製品2点、太刀形木製品など木の埴輪も見つかった。
また、古墳が築造されていた場所についても「通常は尾根上か平地に築造されると考えられていた古墳が谷間に築造されていた珍しいケースでもある」と話している。
発掘調査の説明会は、29日午後1時から同5時まで、桜井市河西の同市立図書館で行う。【白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授の話】
「木製の埴輪が古墳に樹立されていた実態がわかる新しい例。木製埴輪が埋まっていたと想定されている穴や、堀の底に木製埴輪が見つかる例はあるが、同時に確認できたのは貴重だ」
●墳丘の上は色彩豊か 葬送儀礼に使用か (奈良新聞 7月28日)
桜井市山田で見つかった小立古墳は、木の埴輪(はにわ)が土製埴輪とともに並んでいる様子が確認される珍しいケースとなった。
7つごとの円筒埴輪を区切るように立てられていたのは、石見型木製品。三宅町の石見遺蹟から出土した形象埴輪を木で形作ったもので、橿原市の四条1号墳や田原本町の笹鉾山2号墳、天理市の御墓古墳など9遺跡から出土が確認されているだけ。盾を模したとされる説や、靫(ゆぎ)や琴をかたちどったという説もある。
今回の調査では、長さ約126センチ、幅37センチのコウヤマキ製。13点がほぼ完全な形で見つかったほか、石見型木製品と一致すると見られる基部が円筒埴輪間の5ヵ所で残っていた。 香芝市立二上山博物館の石野博信館長は「古墳の上に木製品が立っている場所がわかったのは初めて。石見型木製品が埴輪として使われていたことが証明された」と話す。石見型木製品のなかには、土製の石見型埴輪と同じ弧紋状の彫刻が施されているものもあった。
調査では、長さ117センチ、幅47センチ、厚さ7センチの靭形木製品2点、長さ133センチ、幅68センチ、厚さ3.5センチの盾形木製品も2点ずつ出土。表面は少し焼けこげていた。
調査を担当した桜井市教育委員会の村上薫史技師は「前方部での葬送儀礼に使われた可能性がある」と配置を推定する。
同志社大学歴史資料館学芸員の辰巳和宏氏は「後円部墳頂に近いところで、埋葬施設を囲むように立てられていたのでは」と推察。焼けていたことについては、「古墳に立てて葬送儀礼をしたあと、焼いたと考えられる」と話す。
このほか、珍しい雌雄が対になった鶏形埴輪や馬形埴輪、長さ178センチ、幅17センチの太刀形木製品、柱材などの建築部材もあり、辰巳氏は「建築部材は、死者の魂がこもる家形埴輪のようなものとして作られたのではないか。築造当時は、白木のままの木製埴輪や土製の形象埴輪など、墳丘の上は賑やかで色彩豊かな様子だっただろう」と話した。
●水田の下から完全な前方後円墳 立った状態で「木の埴輪」も (朝日新聞 7月28日)
奈良県桜井市山田で、全長約三十五メートルの前方後円墳(五世紀後半)が水田の下からほぼ完全な形で出土したと、桜井市教育委員会が二十七日、発表した。墳丘のすそには表面を覆うふき石が巡らせてあり、後円部を円筒埴輪(はにわ)が取り囲んでいた。墳丘に立った状態で、「木の埴輪」も初めて見つかった。同市教委は「築造時の姿をこれほどよくとどめた『埋没古墳』は非常に珍しい」と話し、地元の地名から「小立(こだち)古墳」と命名した。
古墳は、ほ場整備のため水田を掘ったところ、見つかった。丘陵に挟まれた谷あいにあり、自然に埋まったとみられる。
前方部の長さ(約十メートル)が短い帆立て貝式。後円部はふき石が二段に巡り、一段目と二段目の間の平たん面に円筒埴輪(直径約二十センチ、高さ約四十センチ)六十七個と木の埴輪五個が立っていた。このほか周濠(しゅうごう)から十八点の木の埴輪が見つかり、ほとんどが盾の形をしていた。
「木の埴輪」は、一九八七年に奈良県橿原市にある四条古墳の周濠から初めて大量に発見されたが、墳丘に立った状態で見つかったのは初めて。小立古墳は、「卑弥呼の墓」との説もある桜井市の箸墓(はしはか)古墳の南方約五キロにある。二十九日午後一時から五時まで、桜井市河西の市立図書館(JR・近鉄桜井駅から徒歩十五分)で説明会がある。
水田の下に埋まっていた奈良県桜井市の「小立(こだち)古墳」は、五世紀後半とみられる築造時の姿をそのままに地上に現れた。帆立て貝にも見える全長三十五メートルの前方後円墳からは、珍しい「木の埴輪(はにわ)」など多数の木製品が見つかった。古墳の墳丘を飾るのは土の埴輪とふき石だけという「常識」を覆したことになる。否定的な見方があった「木の埴輪」の存在を決定的にする一方、古墳の復元研究の貴重な資料になりそうだ。
桜井市教委によると、「木の埴輪」は立った状態で五点、周濠(しゅうごう)から十八点が見つかった。石見(いわみ)型と呼ばれる周囲を装飾した盾形、長方形の盾形、矢を入れる靫(ゆぎ)形、大刀形の四種が確認された。石見型盾形は長さ一・三メートル、幅三十七センチ、大刀形は長さ一・八メートル、幅十七センチあり、古墳に立てて並べ、外から見られることを考えて作られたようだ。
このほか、前方部の周濠から長さ三・四メートル、幅十二センチの柱材や、格子状に板材を組んだ窓枠らしい木製品も出土した。築造時の建築部材の可能性が高いという。
石野博信・徳島文理大学教授(考古学)は「前方部か後円部に古墳祭祀(さいし)にかかわる何らかの建物があったのでないか。築造時の古墳の全体像を解明する重要な発見だ」と評価する。
古墳の周濠から見つかる木製品を「木の埴輪」とする説を最初に提唱した高橋美久二・滋賀県立大学教授(考古学)は「これまで埴輪の一種とはなかなか認められなかった。今回は普通の埴輪と並んで見つかったため、『木の埴輪』であることが決定的になった。小立古墳はごく普通の古墳だから、『木の埴輪』はどの古墳にもあったと考えられる。築造時の古墳は木ばかりか、旗のような布製品もあって、色も塗られ、想像以上ににぎにぎしかったのではないか」と話している。